延宝八年 冬  吉原籠城決闘 破

 蓬莱弥九郎が姿を消した。

 吉原の楼主の寄合に出ると言って出かけてその日は帰らず。

 翌日も戻らずとなって『蓬莱楼』の面々が騒ぎ出し、その次の日も彼の姿は見えなかった。

 それでも店は開けないといけないし、『蓬莱楼』の忘八者も遊女たちも夜の宴をこなしてはいる。

 それを半兵衛は楼主の替わりという事で急遽引っ張られて、楼主の部屋でふてくされていた。


「弥九郎の馬鹿野郎が。

 何が『恩の返しどころはここにて』だ。

 いなくなってどうやって俺に恩を返すって言うんだ……」


 そんな事をぶつくさ言いながら半兵衛は盃を傾ける。

 熱燗が寒い体に身に染みるが全然酔えない。

 いなくなって分かる『蓬莱楼』を切り盛りしていた楼主蓬莱弥九郎という男の凄さが。

 既に蓬莱弥九郎の失踪は吉原の口賢しい者たちによって耳に届くようになっているが、『蓬莱楼』そのものを狙って有象無象が這い出てこようとしていたのを抑えられているのは、盃の隣りに置かれた厩橋藩酒井雅楽頭家の家紋が彫られた印籠のおかげである。

 吉原の有象無象もまだ『下馬将軍』酒井忠清の威光に逆らう度胸はないらしい。

 たとえ、幕閣の中で次期将軍に一番近い松平綱吉を擁する老中堀田正俊との暗闘が思わしくないとしても、その権勢は吉原ごときどうとでもできるものだったのである。

 酒に溺れても事態は好転しない。

 控えていた忘八者を呼んで、今後の手を打つ。


「おい。霊岸島に行って河村十右衛門の旦那に俺の名前を出して助けを求めな。

 それと、唐犬権兵衛にも声をかけておけ」

「承知しました」


 そう言って忘八者は出ていく。

 忘八者が出ていくのを見て腕を組んで頭を悩ませる。

 半兵衛は障子を開けて寒気を浴び、酔いを醒ます。

 ぼやきとも弱気ともとれる言葉が自然に出た。


「しかし……困った事になった。

 弥九郎の奴め。

 あいつがいなくちゃ俺は何もできねぇじゃねえか」


 蓬莱弥九郎という、半兵衛にとっては雇い主であると同時に腐れ縁の友人みたいな、そしてただ種子島を撃つばかりの半兵衛にお膳立てを整えてくれる最も頼りになる存在だった男が消えたのだ。

 それはもう大変な事になっている。

 何より彼がいなくなったらこの店の経営などできない。

 金勘定ができないわけではないのだが、それすらも面倒になってくるくらいには『蓬莱楼』の一夜に出入りする金は多く、彼一人では処理しきれない。


「最悪、この店は唐犬権兵衛に任せて、今日の手払いをどうするか……まずくなったら河村十右衛門の旦那から金を借りるか……待てよ?」


 酔った頭を左右に振って、半兵衛は楼主の部屋を漁る。

 かつて、その河村十右衛門に押し付けた手紙で千両箱をせしめた事を思い出したのだ。

 それで急場を凌ごうという訳で、探す事小一刻ほどでその千両箱を見つけ出す。


「あいつ、この千両箱に手をつけていなきゃいいんだが……ん?」


 千両箱の中の小判はまったく手をつけられていなかったが、真新しい包み紙に何か文字が書かれているのを半兵衛は見つける。

 それが姿を消した蓬莱弥九郎の置き手紙だと知ると、一度障子を開けて誰も居ない事を確認した上で火鉢を持ってきて炭に火をつける。

 こんな形で残した手紙なのだ。ろくでもない事が書かれているのだろうと半兵衛は察したが、それでも読まないわけにはいかないだろう。

 そして半兵衛はその文面に目を通していく。

 内容はこうであった。



『半兵衛へ。

 この文を読んでいるという事は、俺が姿を消して困っている時であろうな。

 お前の事だから酒を飲んでいるのではないかと思うが、ここから先は酔いを醒まして読んでほしい。

 半兵衛。はっきりと言うぞ。

 酒井様は負ける。

 俺が言った事を覚えているか?

 『酒井様や堀田様といった幕閣のお歴々は、将軍様の御命は月を越せないって思っている』という事だ。

 お前は紀伊藩まで行ったからある程度の日程は分かるだろう。

 使者が江戸と京を往来して、宮将軍をお迎えするには時が間違いなく足りん。

 そうなれば、必然的に舘林宰相こと松平綱吉様が次の将軍におなりあそばす事になる。

 つまり、お前が石川新右衛門と果し合いをした所で、酒井様が堀田様に勝てる見込みがなく、舘林様が将軍になれば堀田様の勝利は決定的となり、酒井様の天下取りは頓挫する。

 既に見えている勝負なんだ。これは』


 読み終えた包み紙を炭火の中において、包み紙が燃え尽きるまでじっと見つめる。

 手が震えていたのに、包み紙を取る手は止まらない。

 半兵衛はため息をつきながら、次の包み紙を開いて手紙の続きを読む。


『おそらく、そう遠くないうちに酒井様に近いお歴々が、表舞台から消える事になる。

 蓬莱楼はお前の腕もあったが、酒井様にあまりにも近づき過ぎた。

 だから俺はここで姿を消す事にする。

 もう二度と会う事はないだろう』


 半兵衛の口から舌打ちが漏れる。

 確かに、酒井忠清がお忍びで通っていた『蓬莱楼』にとって、その失脚が大きな痛手になるのは間違いがない。

 だが、彼が消えた事で自分が窮地に立たされるのは納得が行かない。

 彼は自分の事を友人のように思っていたのではないのかと怒りがこみ上げる中、二枚目の包み紙を焼くと三枚目の包み紙に手を伸ばす。

 そして、半兵衛は舌打ちした己を恥じる事になる。


『半兵衛。

 中村様に「その恩の返しどころはここにて」と啖呵を切ったのは嘘じゃない。

 その証拠に、この蓬莱楼の全てを半兵衛。お前に任せる。

 俺の替わりに楼主として吉原の夜に生きてもいいし、この千両箱を持ってお前も逃げてしまっていい。

 だが、もし、侍としてお前が石川新右衛門と戦う事を選んだのならば、この蓬莱楼をお前の城として使え。

 それが、俺のできるお前への恩返しだ』


 半兵衛の目から涙が流れ出る。それを袖で拭って三枚目の包み紙を焼いて、次の包み紙を開く。

 そこには一枚の折り畳まれた紙が入っており、半兵衛はそれを手に取ると広げる。

 それは、蓬莱弥九郎が書き記した蓬莱楼の地図であり、半兵衛も知らない隠し部屋や通路まで書かれているものだった。


「馬鹿野郎……」


 半兵衛の得物は種子島で、石川新右衛門の得物は剣である。

 この時点で近づかれたら負けの勝負なのだが、ここで待ち伏せできるならば、話は大きく変わってくる。

 それだけでも勝負に持ち込めると半兵衛は思うのだが、それでも不安は残る。

 何せ相手は舘林藩の剣術指南役まで務めるほどの剣士なのだ。

 それに、既に酒井忠清が負けているという事は、堀田正俊側についている石川新右衛門は戦う理由がない事を意味している。

 そんな状態で果たし合いを受けてくれるかどうか分からない。

 それでも、やらないよりはマシかと思って、半兵衛は地図を覚えた上で包み紙を焼き、次の包み紙に手を伸ばす。


『お前が石川新右衛門と果し合いをしたいのならば、一つだけ手がある。

 この千両箱を手に入れるきっかけとなった、風魔夜盗が持っていた高田藩の書状。

 あれの写しがこの中に入っている。

 あれがここにあると知れば、石川新右衛門はきっとここに来る。

 だが、忘れるな。

 石川新右衛門がここに来るという事は、ここでお前か石川新右衛門のどちらかが倒れるという事を意味する事を』


 千両箱から小判を全部出すと、底にその書状が入っていた。

 半兵衛は手紙を読み終えると、涙を流す。

 それは怒りと悔しさと悲しみの入り混じった物で、蓬莱弥九郎が消えてしまった事に対する寂しさもあった。

 最後に残った包み紙を広げる。

 そこにはこんな事が書かれていた。


『最後に、半兵衛。お前は冬花と幸せに暮らしな。

 お前と吉原での付き合いは楽しかった。

 さようなら。

 蓬莱弥九郎』


 半兵衛は手紙を握り潰すと、そのまま火の点いた炭の中に放り込む。

 火鉢の中で炭火が燃え尽きても、半兵衛の嗚咽は尽きる事はなかった。

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