延宝六年 冬 元高田藩浪人 渡辺十九郎
「今回の仕事は、渡辺十九郎。元高田藩浪人だ」
仕事を告げる蓬莱弥九郎の声は重たい。
ただの浪人なんてものは、この江戸には掃いて捨てるほどいる。
そんな浪人を種子島で撃ち殺すからにはそれ相応の理由があるのである。
「高田藩?あの?」
「そう。あの高田藩だ。
ついでに言うと、長谷川長兵衛の元同僚で、お為方だ」
長谷川長兵衛とは、この間半兵衛が仕留めた相手で、高田藩江戸吟味役という役職についていた。
その高田藩内部のお家騒動は幕府の介入もあって筆頭家老の小栗美作が勝ち、その敵対派閥は一斉に野に下ったが、彼らは復讐を忘れてはいなかった。
あげくに、介入した幕府を逆恨みし、大老酒井忠清の屋敷に火をつけようと画策する始末。
そういう人間を片付けろというのだ。現在幕閣の中で進んでいる次期将軍の争いと絡んで血なまぐさい事この上ない。
「こいつは、江戸に居るお為方浪人の連絡役だ。
仕留めれば、少しは動きにくくなるってもんだ」
「その言い草は分からんではないが、なぜもっと上を酒井様は狙わないんだ?
こいつも下っ端ではないだろうが、重役でもないだろう?
元凶は、お為方の家老連中だろうに?」
半兵衛の疑問ももっともだった。
弥九郎は苦虫をかみつぶしたような顔でその理由を告げた。
「お為方の重臣で永見大蔵ってのが居るんだが、こいつが藩主の血を引いているんだよ。
ついでに、今の藩主に決まる前はこのお方を藩主にという声もあったそうだ。
そこまでいえば分かるだろう?」
つまり、藩主の血筋を引く人物だから下手に手出しはできないというわけだ。
大老酒井忠清が介入した高田藩のお家騒動は穏便な解決を図るという前提で行われていた。
それが酒井忠清への逆恨みに繋がるのも、お為方の永見大蔵が神君の血を引いているからに他ならない。
この男を処分してしまえば、お為方の浪人たちは後ろ盾を失って江戸で暴発しかねないし、幕閣での次期将軍を巡る争いで若年寄堀田正俊や候補者松平綱吉に晒さなくていい隙を晒す事になり、かといって放置しておく事もできないというわけだ。
「なんとも厄介な話じゃねえか」
「そういうことだよ。
それに、お前さんの種子島ってのも馬鹿にはできなくてな。
こんなので死んで下手人が見つからなければ、そりゃあ幕閣が関わっていると永見大蔵なら分かるはずだ」
弥九郎の言葉はわざとらしく軽い。
この江戸でご禁制の種子島で仕事をするという意味を、その種子島で彼の連絡役が殺される意味を分かっているからこそ軽口でぼやく。
それに合わせるように、半兵衛が聞いてはいけない質問を口にした。
「で、それで分からなかったら?
風魔夜盗を使って酒井様の屋敷を燃やそうとする輩だが?」
「……」
弥九郎からの返事はなかった。
今回の仕掛けは船で行われる。
吉原に接待を受けに行く渡辺十九郎が乗る船を狙撃するという訳だ。
ただの浪人が船で吉原に接待を受ける訳がなく、半兵衛が逃げるための船もすでに用意されていた。
このあたりの準備に金を惜しまない仕掛けに、半兵衛は依頼者が誰か察した。
(河村十右衛門の旦那か。
酒井様のお屋敷の木材を用意したのは河村の旦那だったな。たしか)
用意された船の中で半兵衛は寝てその時を待つ。
半兵衛は河村十右衛門の所で聞いた松平綱吉の使いの言で、老中連中に賄賂をばらまいて若年寄堀田正俊を老中に抜擢するように頼んだ事を知っている。
つまり、河村十右衛門は酒井忠清にも、堀田正俊にもいい顔をしている訳で。
どっちが勝っても河村十右衛門は生き残るのだろう。
(俺はどうなる?)
その問いは日が傾いて吉原行きの船が提灯を灯すようになってから出た。
蓬莱弥九郎は逃げきれるだろう。
ああ見えてあの男は表も裏もある吉原で楼主にまで登った男だ。
酒井忠清の没落の後、堀田正俊にしっぽを振る事ができないはすがない。
だが、半兵衛は違う。
彼はつまる所、切り捨てられる駒でしかない。
半兵衛自身もそれ以上を望んていなかった。
「浪人が遊女遊びってのも悪くはないけどよ」
静かに半兵衛は船を岸から放す。
川の流れに任せながら、隠していた種子島を取り出し火縄に火をつける。
吉原に向かう船は船頭によって川を上る。
そんな船たちの中で、河村十右衛門の提灯をつけている船がゆっくりと近づいてくる。
浪人には見えない身なりの男が、薄明かりの中笑みを浮かべていた。
「由井先生の頃は食うや食わずやで、船で吉原なんて贅沢はできなかったんだぜ。
お侍さんよ」
誰に聞かせる訳でもない言葉を呟いて、半兵衛は引き金を引いた。
轟音と水音がほぼ同時に起こり、船頭の叫び声が半兵衛の耳から遠ざかっていった。
「大変だ!
お侍様が川に落ちたぞ!!」
朝。霊岸島近くの船宿で飯を食べていた半兵衛の所に、当たり前のように石川新右衛門がやってくる。
こいつにはすべて見えているのだろうと半兵衛は察したが、朝食を食べる手は止めない。
「知っているか?
何でも吉原に向かう浪人が船から落ちたそうだ」
「また旦那も変なことを言いますな。
ただの浪人風情に、船で吉原通いができる訳ないじゃないですか」
石川新右衛門が睨み、半兵衛の箸が止まった。
少しの沈黙と、石川新右衛門の手が刀を掴もうとして止まった。
「おーい!
俺にも同じ飯を頼む!」
「石川の旦那。
今回はおごりませんよ」
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