延宝六年 秋 冬花大夫に千両箱 その二
冬花が吉原に来たのはよくある理由だった。
売られたのだ。
親に売られて吉原に来る少女は珍しくない。
そんな話はこの時期どこにでもある訳で、すでに故郷は遠く今の冬花には吉原が故郷みたいなものだった。
そこで冬花は人の欲と地獄を見たが、冬花は運が良かったと言えるだろう。
楼主である蓬莱弥九郎は良い人だったし、そんな冬花も今や吉原で花魁道中を行える大夫の一人にまで上り詰めた。
いい事ばかりではなかったが、冬花にとってここはとても居心地の良い場所だったのだから。
(それに……)
冬花の脳裏に浮かぶのはいつも笑顔を絶やさない一人の男の姿だ。
その男は簪職人のくせに、楼主の弥九郎が用心棒扱いする浪人だった。
客として抱かれた事もあったが、気づいたらお金も取らずに抱かれていた。
いや。はっきりと言おう。
冬花は吉原のご法度である本当の恋を、あのそばかす顔の雑賀半兵衛にしてしまったのだと。
それでもよかったと冬花は思う。
ただ、その相手が雑賀半兵衛である事が少しばかり悔しかったりするのだが。
(あぁ……。もうこんな時間か)
遊女が逃げ出さないように四方を堀で囲まれた吉原の中で、冬花が逃げ込める場所がそうある訳もなく、四隅に据えられたお稲荷様の所にあてもなくやってきてしまう。
いつの間にかぽつぽつと頬に雨粒が当たる。
そのうち本降りになるのだろうが、冬花は戻りたくなかった。
太夫となった冬花は自分で自由に生きるという選択肢を失ったと言ってもいい。
自分の身請け先を決めるのは楼主である弥九郎であり、冬花に金を出した旦那なのだ。
それは吉原の女にとって最高の終わり方であるとも言えよう。
(私はどうしたいのかしら?)
このままここにいるのか、それともどこかに逃げたいのか。
冬花自身にもわからなかった。
「やっぱりここか。冬花」
背後から声をかけられて振り返るとそこには見知った男が立っていた。
ある意味、期待していた雑賀半兵衛の方に冬花は作り笑顔で振り向く。
「なんだい?半兵衛。
私の事を探していたのかい?」
「ああ。ちょっと話があってな」
「へぇ~。一体どんな話を聞かせてくれるんだろうねェ?」
まるで吉原の夜の男女のような会話。
嘘しかない吉原の夜のような会話みたいに今の冬花は思ってしまう。
「お前の身請けの金の事だ」
一瞬、半兵衛が何を言っているかわからなかったが、冬花はすぐに理解した。
つまり、この男は自分を身請けしようとしているのだという事に。
「……ふぅん。
じゃあ、いくら払ってくれるんだい?」
あの千両箱を見せられた後だ。
おそらくは半兵衛には用意できないだろう。
冬花は苦々しい表情を浮かべながら尋ねる。
だが、半兵衛は冬花が予想もしていない言葉を言う。
「……あれは、俺の金らしい」
「……はい!?」
思わず素が出てしまうほどに冬花は驚いた。
確かにあの千両箱は半兵衛一人の力で稼げるような額ではない。
しかし、そんな大金をどうやって手に入れたのか?
そして、それをどうして自分に言うのか?
「……どういうことだい?」
「言えない。そういうたぐいの金だ」
「…………」
冬花は言葉を失う。
まさか、この男はそんな事を言うために私に会いに来てくれていたというのか?
馬鹿だ。
あまりにも、こいつは馬鹿すぎる。
「何言ってんのさ!あんな大金、私の為に使うなんて……」
「俺にとって、あの大金で真っ先に買いたかったのがお前だった」
「そ、それは……嬉しいけど……」
遊女が客に対して思う気持ちと、客が遊女に感じる気持ちは別物だ。
それでも、こんな事を言われて嬉しくないはずがない。
ましてや、相手が惚れた男からなのだから。
「それで、俺は考えたんだが……。
お前を身請けするにはどうすればいいかってな」
「あ、あんた。
どうしてそこで『夫婦になってくれ』って言わないのよ!」
さすがにだんだんと怒りが込み上げてきた冬花が怒鳴る。
それを半兵衛はいつもの昼行燈顔で口に出す。
「さっきの千両箱の件だ。
言えない金でお前を身請けする。
危ない橋を渡っているって事だ」
「っ!!」
なんでこうもこいつは鈍感なのか。
つまりこいつはこう言っているのだ。
(危ない橋を渡って稼いだ金だから自身の身もやばい。
ならば冬花の身請けに使って、冬花だけでも幸せになってくれ)
冬花は胸が苦しくなり、今すぐ、目の前の男に抱き着いて叫びたい衝動に駆られる。
握った手が震えているが、もちろん目の前の半兵衛は気づかない。
(どうして、こいつは何もわかっていないのよ!!)
冬花は歯を食いしばりながら心の中で叫ぶ。
半兵衛の頭の中には半兵衛自身の事がまったく入っていない。
こんなにも、こんなにも私は想っているのに。どうして半兵衛は己の身を大事にしないのか?
なぜ、それが伝わらないのだろうか。
しかし、冬花は耐えた。
ここで感情に任せても何にもならない。笑って笑顔で怒る事ぐらいできなければ、吉原の大夫になれる訳がない。
「まったく、しょうのない人だねェ。
そのお金は使わないよ。
だって、私が太夫になったのも、そのお金を受け取るような事があったおかげなんだろ?」
「まぁ、そうだが……」
図星の半兵衛に冬花は吉原の夜で鍛えた嘘を吐く。
それを半兵衛は見抜けない。
「なら、これは受け取れないわ。
それに、私は年が明ければ年季明けよ。
必要ないじゃない」
「そうか。そうかもしれん」
あっさりと納得して引き下がる半兵衛に少しばかり寂しさを感じながらも冬花はこの場を離れる事にした。
これ以上一緒にいたら、更に何か言ってしまいそうだったからだ。
雨が本降りになってきたせいもあって、半兵衛は傘を冬花の方に差し出す。
当然のように冬花は半兵衛の傘に入り、ついでとばかりに手を抓った。
「痛い」
「千両の痛みよ。
安いものでしょう?」
「……確かにな」
それからしばらくして、お稲荷様にお百度参りをする冬花の姿を半兵衛は見る事になる。
何を願っているのか察しないぐらい半兵衛も鈍感ではなかった。
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