第83話「フィジカル」
























 残像を残すほどの太刀筋が伸びる。

 空を切っていたそれは途中からタコ足を捕らえ、流れるように、いとも簡単に皮膚を裂いて真っ二つに割った。


 怒りで我を忘れた後は、早かった。


 それまで目と体の動きが追いついていなかったクラーケンの素早い攻撃に対しても、難なく避けてバタフライナイフを滑らせていく。太い筋肉質なはずのタコ足も、豆腐のように軽く切断できた。

 まるで世界がスローで再生されたように、クラーケンの動き全てが遅く見えた。

 伸びてきた足を蹴って、高く飛ぶ。

 落下の勢いをそのままに、銅の部分に深くナイフを突き刺した。

 いわゆるゾーンと呼ばれる状態に入った新亜に、それ以上クラーケンの攻撃が当たる事は無かった。それどころか、かすり傷ひとつ付かない。


 バタフライナイフと身ひとつ。


 そのふたつだけで、意思のないはずのクラーケンに恐れを抱かせた新亜の顔は、おそらくこれまでにないほど狂気に満ち溢れていた。

 もはや瞬きひとつしない。確実に仕留めるため、その碧く透き通った瞳をどこまでも強い怒りと殺意で燃やす。

 クラーケンが海中へと逃げ帰るまで、その表情と容赦なく繰り出される殺意の高い攻撃は続いた。


「っはあ…はぁっ……は…」


 クラーケンが去った後、気を抜いた瞬間に異常なまでの動機と息切れが襲ってきた。負担がかかりすぎた体はその膝をガタガタと震わせて、新亜はその場で膝を付く。

 時間にして数分もない、その短い時間でクラーケンを撃退したが、体感は何倍も長く感じた。

 だけどまだ、やる事がある。


「…香夜」


 戦うためとはいえ、離れた所にまたひとりにしてしまった香夜の元へ行くため、震えて力の入らない足を無理やり動かして立ち上がる。

 水に濡れた砂浜で戦っていたのも、足への負担が大きかったんだろう。もう感覚は棒のようだった。

 海に背を向けて、半ば足を引きずる形で歩き出す。

 全身に付けられた傷が、今になって痛みを脳に送ってきた。その痛みに顔をしかめた。

 だけどとりあえずクラーケンは倒したんだ。

 これで一安心…


「うっ…」


 完全に気を抜いて油断しきってしまった新亜の背中に、鋭く尖った爪が突き刺さった。まるでその時を伺っていたようなタイミングで繰り出された攻撃は、狙い通り新亜の体に深手を負わせた。唯一、内臓に当たらなかったのは奇跡だろう。

 一瞬何が起きたのか理解できず、脳天を貫いた激痛に唸った新亜はその場に倒れ込む。


「きみ、は……ぅぐ…っ」


 いったい誰だと仰向けになった新亜の脇腹に、また針のように長い爪が突き刺さった。


「計画が…台無し」


 不機嫌な低い声を出したのは、


「さっきの、人魚……君も仲間だったのか」


 メイだ。


「ワタシのかわいいペット…よくも怖がらせてくれた…」

「ぁ、ぐぅ……!」


 さっきよりは流暢な言葉遣いで怒りを露わにしたメイは、未だバタフライナイフを握る新亜の手に爪を刺した。

 激痛に唸りながら、刺された手を押さえて少しでも痛みを和らげようと体が動く。


「せっかく助けたフリして狙おうとしてたのに…台無し」

「っ、どうして、香夜を…?」

「彼女が来たとき、ココロ高鳴った。アレはワタシのものにする」

「なる、ほど…人魚にもフェロモンは効くのか」

「なのにオマエが邪魔するから…」


 冷たい目で見下されて、その目に宿る感情を、新亜はすぐに察してしまった。


「ゆるさない」


 左胸、心臓の辺りに爪先を当てられる。


「死ね」


 そう言い放たれた時、頭に浮かんだのは過去の自分の姿だった。

 思わず、苦笑してしまう。こんなにも皮肉な事はない。…これを、因果応報というんだろう。

 あぁ、彼女も…あの時、僕が蛟に化けて殺そうとした知華子も、きっとこんな気持ちだったんだ。そう、今になって知る。

 どうしようも出来ない絶望と焦り。


「…ごめん」


 そして頭に浮かぶ、罪の意識。

 僕はなんて事をしてしまったんだろう、今さらながら後悔の念で打ちひしがれた新亜は、諦めたように目を閉じた。慈悲深い香夜のおかげで一度許されたとはいえ、あんな最低な事をしてしまった自分なんて、死んでもいいとそう思ったからだ。

 それに今日もまた、僕は……

 知華子を気絶させたことに対して、深い後悔を胸に抱える。これはもう、自業自得だ。死んだって、文句は言えない。

 全てを受け入れて、思考を捨てる。

 しかし新亜のその覚悟に反して、来るはずの痛みが襲ってくる事はなかった。


「これから花火しようってのに…」


 聞き馴染みのある声が耳に届く。


「お前誰だよ、一緒に遊びたいの?」


 目を開けば、そこには髪でメイの爪を止める蛟の姿があった。














 





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