第82話「海の亡者」
その姿に一番焦りを感じていたのは、新亜だった。
体長は3…いや5メートルはあるクラーケンは、海の深い所から浮かび上がり、今度は浅瀬の方へとそのタコのような足を器用に使って迫ってくる。
…こんなの、どう倒せばいいっていうんだ!
自分の能力の強さを誰よりも自分で理解している新亜は、半ばヤケクソになりながらも必死で思考を巡らせた。
第一優先は、香夜の身の安全の確保だ。
咄嗟に香夜の体を抱きかかえ、波打ち際から砂浜の方へと走り出す。置いて行かれたメイは、途方に暮れた様子で間近に迫ったクラーケンの姿を見上げた。
「っ…くそ!!」
ここでこのまま逃げてしまえば、海から出られない様子のクラーケン相手には勝ちが確定している。しかし、心根は優しくどこかお人好しな新亜に、初対面であったとしてもあの人魚を見捨てるという選択肢などあるはずが無かった。
少し離れた所に香夜をそっと置いた後で、今度はまた波打ち際の方まで全力で走る。
「何してるんだ、君も逃げろ!」
今にもメイを捕まえようとしていたクラーケンの足を蹴りつけ、着地と同時に声を荒げた。
その声でハッとしたメイは、そそくさと水中に潜り、海の中へと姿を消す。
その後ろ姿を見送ってホッとしたのも束の間、今度は新亜へと向かってクラーケンの足が素早く伸びる。それを間一髪の所でバク転して避けた新亜は、額から大量の冷や汗を流した。
新亜の変身能力には、大きな欠点がある。
それは、明確に意思を持つ相手でなければ、変身したとしても精神的ダメージや、それによる隙を作れない事だ。
見たところ、闇雲に足を使って攻撃してくるだけのクラーケンに意思はなさそうだ。そうなると、ただ適当に変身したところで意味がない。だとすれば、残るは模倣の能力を使用することだ。
つまりここで変身能力を使うなら、自分が能力を把握している人物という事になる。
蛟…いや、催眠も基本的に意思を持つ相手じゃないと通用しない。それに、髪とタコの足ではあまりにも分が悪すぎる。
知華子…ここでその姿に頼るのは、情けない子供じみたプライドが許さない。それに、彼女の能力をしっかりと見て把握してる訳ではないから…うまく扱えるかは不安だ。そんな状態で戦えない。
他にもいくつか候補はあるが…新亜の頭は、その全てが適切ではないと判断した。
じゃあいったい、誰になれば…?
「……落ち着け」
自分に言い聞かせるために声を出す。
深く呼吸をして、ごちゃごちゃと考えてばかりの頭の中を一度すっきりとさせた。
「ここで一番適切なのは…」
何かあった時のために、と上着の内ポケットの中に仕込んでいたバタフライナイフを取り出す。
「僕だろ」
片手で器用に刃を出して、逆手で持った。
生まれてからこれまでひたすら鍛え続けてきた自分のフィジカルを信じて、伸びてきたクラーケンの足にバタフライナイフを滑らせる。
痛みは感じるのか、足に綺麗な一本線の傷を付けたクラーケンは、のたうち回るように足を大袈裟に動かした。
「っ…はは、怒らないでくれよ」
ひと通り暴れ回った後、凄まじい速さで数本の足先を飛ばしてきたクラーケンに、新亜は苦笑で対応した。
前方向から突くように何度も繰り返される攻撃を避けているうちに、新亜の体にはどんどん傷が増えていく。避けきれなかった足先は容赦なくその整った顔にまでかすり傷を負わせた。
「まずいな…」
数本の自由自在に動く足と、手足合わせても4本しかない新亜とでは、あまりにも不利な状態だった。
バタフライナイフで相手にも傷を付けられてはいるものの、とてもじゃないがダメージを与えられてるようには思えなかった。
「どうする…くそ、どうしたらいい」
こんな時、知華子なら簡単に倒せるんだろうか。
「それなのにあの女……舐めるのもいい加減にしろよ」
つい、本音が漏れる。
自分が手にしたいもの全てを持ったあいつが、許せなくて仕方ない。香夜を助けられる実力も、能力も…そうして手に入れた香夜の心も。
全て持ち合わせていて、きっと今頃ここに居たらあっさりと目の前のこいつも倒せたんだろう。…気絶させたのは自分だが、それもすぐに目覚めて登場するはずだ。
まるで物語の主人公だ。僕なんてただの噛ませ犬にしか過ぎない。
それなのに…香夜を簡単に諦めやがった。
本当に許せない。
知華子が主人公の座から降りるなんて…許せる訳がない。
沸々と、こんな時でさえも知華子に対する怒りが湧き上がる。
「ぶっ殺してやる」
その八つ当たりの矛先がクラーケンに向いた時、彼女の中のとある才能が開花した。
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