第12話「満月の夜」

































 頭がガンガンする。


 痛みはじわじわと脳内に広がって、薄く開いた視界は焦点が合わなくてよく見えない。

 朦朧としていた意識がはっきりしていくと、次第に映る世界も鮮明になっていく。一番最初に目に飛び込んできたのは、土の地面とその上に座る自分の足だった。


「起きたんだ。あぁ、可愛い…本当に君は最高だ」


 口調は犬飼くんそのままなのに、野獣のような野太い声が聞こえる。


「大丈夫…乱暴にはしないからね」


 もう既に殴って気絶させてる男の何が大丈夫なのか、一ミリも信用できない言葉に反吐が出そうになった。

 頭が痛すぎて声が出ない。これじゃあ助けを呼ぶ事も出来ない。…そもそも、知華子の分身もどきである黒い紙切れが無い今、助けに来てくれる人も居ない。


「こ…こ、は…?」


 なんとかそれだけ声を絞り出すと、目の前に狼の顔が現れた。心なしか嬉しそうに笑っているように見えた。


「僕の秘密基地だよ。ここはね、満月がよく見えるんだ」


 ほら、と空を指差されたけど顔を上げる気力も無くて、俯いたまま動けない。今気付いたけど、木か何かに縛られているみたいだった。…ここは、どこかの山か森なのかな。周りは木で覆われてるっぽい。

 犬飼くんが何か言ってるけど、とりあえず無視した。それよりも今は、逃げる事を優先しないと。

 とはいえ、ここがもし山奥なら…逃げるのは無理そう。仮に拘束を解いたとして、あの体格差じゃ走っても追いつかれる。そもそも頭も痛いし、体も重いから今の私に走れるような体力は残ってない。それ以前に拘束の外し方も知らない。絶望的な状況だ。

 人間以外の、いわゆる人外に襲われるのは初めてで、流石の私も今回ばかりは貞操と死の危機をひしひしと感じていた。冷たい汗が背筋を通る。


「聞いてる?なぁ……返事をしろよ!」


 反応を示さなかったのが気に食わなかったのか、憤った狼に首を掴まれた。

 そのまま雑に持ち上げられて、気管が塞がれて息が出来ない苦しさに耐えながら、恐怖のあまり体が勝手にブルブルと震え出した。


「く、るし…」


 息ができない。それに、掴まれた首の骨が軋んで痛 い。

 こんなにも死を間近に意識したのは、きっとこの先の人生でこの時しかないんじゃないか。そう思うくらいの危機的状況に立たされていた。

 怖い、死ぬ…

 死にたくない、こわい。

 恐怖だけで頭の中がいっぱいになる。

 たすけて、誰か。

 必死に頭の中で助けを求めても、誰かが来るわけもない。


「っう…ぅ」


 ほんとに、死ぬ…


「あぁ、可哀想に。…おもらししちゃったんだね」


 自分の意志とは関係なく漏れ出た体液に反応して、首から手が離れる。

 持ち上げられた時に紐が緩んだのか、支えるものが無くなった体はズルリ、とそのまま木の側面から土の地面に落ちた。


「いい匂いだ…興奮してきた」

「っ、や…」


 クンクンと土の湿った部分を嗅いだ後で、犬飼くんは私の膝を掴んで広げさせる。そしてまた、土の時と同じように鼻を当てて匂いを嗅ぎ始めた。

 

「や、めて…っ」


 犬特有の、湿気を多分に含んだ鼻の感触が内ももに当たって気持ち悪い。

 私が嫌がっても止めるつもりはないみたいで、むしろその過激さはさらに勢いを増して、ついには匂いだけに飽き足らず舌で舐め回すような動きまで始めた。

 気持ち悪い。


「あれ…匂いが変わったね」


 こんなにも気持ちは拒絶してるのに、サキュバスの体というのは残酷なほどに単純に作られているようで、内ももへの刺激でさえも体は反応を示してしまうみたいだった。

 そんな自分の体に、自分で嫌悪する。

 悔しくて目からも体液が流れ始めて、乾いた土にポタポタと水滴の跡をいくつか残した。

 どうしていつもいつも、こんな時に限って感じちゃうんだろう。

 今の状況より、あいつに血を吸われるために触られた時の方が、よっぽど優しくて気持ちいいのに。なんで…


「うっ…うぅ〜……ちかこ」


 そして私は、無意識のうちにその名前を呼んでいた。


「もうやだ…助けて」

「泣いてる顔もかわいいね」


 土の付いた手で頬を撫でられる。嫌悪感が勝って、胃の中の内容物がこみ上げてきたけど、なんとか飲み込んだ。

 ボロボロ涙を流しながら、犬飼くんの顔を眺める。

 頭に強く浮かぶのは、目の前の犬顔じゃなくて知華子の憎たらしい嫌味な顔だった。


「早く来て…お願い」


 来る訳もない知華子に助けを求めたら、それに対して犬飼くんは鼻で笑った。


「さっきから何を言ってるんだい?こんな山奥に人なんて来ない…」

「まったく。どうしてこうなるのかしら」


 ため息混じりの嫌味な声が耳に届く。

 どうしてこうなるの、なんてそれは私の台詞なんだけど…という言葉を吐いた知華子は、荒くなった呼吸を軽く整えていた。


「はぁ…ようやく普通の恋愛に進んでくれると思ってたのに」


 心から残念そうに呟いて、知華子は汗で濡れた前髪を掻き上げた後、パチンと綺麗に指を鳴らした。

 数秒の時差を置いて、一斉に至る所から黒い何かが飛び回り空を覆う。…よく見たら、どうやらその黒い何かはコウモリだった。


「私を失望させた罪は重いわよ」


 雲一つない、満月の夜。


 その夜空を背景に、無数のコウモリを引き連れて紅い瞳を輝かせた知華子の姿はなんだか、今までにないくらいちゃんと吸血鬼をしていた。

 

 














 




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