孤独のオパール

吉永明

孤独のオパール

 そろそろ、宝石にしてもらおうと思うんだ。

カンナが告げた言葉に、私はぞくりとした。ティーカップを持ち上げようとした私は、そっと手を下ろし、彼を見上げる。呆気にとられた私の前に座る彼は、コーヒーを音もなく啜りはじめていた。店内には風のようにクラシックが流れ、窓からの光がレースのカーテン越しにこぼれている。心地よい景色の中で一人取り残された私は、彼の言葉を飲み込めないでいた。けれどすぐさま現実に引き戻される。カンナの枯葉のような茶色の髪の奥、白い肌の表面に、淡雪のような小さな鱗を見つけてしまったから。

 肌に鱗が出てくると、海に行かなければならない。そのタイミングは自分の意思にかかわらずやってくる。呼び起された本能によって、タイ、イワシ、クマノミなど、身体は否応なく様々な姿に変容し、大海を渡っていかなければならなくなる。脱ぎ去った古い身体、つまり骨は職人に宝石にしてもらう習わしがある。言い伝えによれば、海の先には新しい身体が待っていて、それは今のものよりもずっと長持ちするという。海に呼ばれることは、最たる幸と信じられてきた。もっとも、私は海の先には行けないので、それを知ってもぼんやり他人事のようにしか思えなかった。けれど、いざその時が親しいひとに訪れると、私にはその幸はずっと朧げで空虚なものに思えた。

「どんな宝石にしてもらうか決めてるの?」

「まだ全然。彫刻師のフミなら何がいいと思う?」

「急に言われてもなあ」

 私はからからとおどけるように笑った。平気そうに取り繕う自分が腹立たしい。けれどこういう話をするのは、本来誕生日よりも盛大に祝うべきことなのだ。別れの近付くカンナに、醜い自分の本心を晒すことは出来なかった。

 鱗が現れてから完全に魚に変わるまではおよそ十日間。魚になり始めるのは二十代の半ばに入ってからがほとんどなので、まだ二十歳になって間もない彼はかなり早い旅立ちとなる。だから私は何一つ心の準備が出来ていなかった。

彼はこの街と別れなければならないというのに、至っていつも通りだった。最初から、さらさらした白浜の砂みたいなひとだった。目の上で揃えられたクルミ色の髪と、一重の薄いまぶた、骨ばった白い手のひら。そして、こんなにも端正な姿をしているのに、それを鼻にかけることなく、淡々とした人付き合い。初めて顔を合わせた時は、声をかけることすら躊躇うほどに美しいひとだと思った。

 私たちが出会ったのは去年の冬頃だった。勤めている宝石店にほぼ毎日住み着いていた私に、職場の先輩に「あんた、折角持ち家あるのにそんなじゃ部屋に埃溜まるよ。誰かに貸して家賃取るとかすればいいのに」と言われたのを機に、私は親から譲ってもらった小さな長屋の空き部屋を間貸しすることにした。そうして入ってきたのがカンナだった。もともと大して物を置いていないので、男だろうと女だろうとまともそうな人が来るなら誰でもよかった。

部屋を貸し出してから数日後、家に帰るとリビングやキッチン、それから風呂やトイレまでもが貸す前よりも綺麗になっていた。放置していた水垢やカビもほとんど無くなっている。驚きのあまり廊下で立ち尽くしていると、カンナは私がいることに気付いた。

「管理人さん、どうも」

「あ、どうも」

突っ立ったままの私を見て、カンナの無気力そうな目が一瞬ハッと開いた。

「あ、すみません、キッチンとかいろいろ少しいじっちゃいました。しばらく使ってなかったみたいだから」

「いえとんでもないです。むしろ綺麗に使ってもらっちゃって、ありがとうございます」

 私がそう言うと、カンナは少し考えるような顔をして、それから何かひらめいたように口を開いた。

「夕飯まだなら食べます? せっかくだし作りますよ」

 ほとんど無表情に近い顔だけれど、優しい声で彼はそう言った。

「ありがたいけど申し訳ないですよ、掃除とかまでしてもらっちゃったのに」

「いや、むしろ格安で部屋貸してもらってるので、このくらいさせてください」

 彼の言う通り、割に合わない格安の家賃にしていた。普通のゲストルームのように備品が充実しているわけでもないし、冷蔵庫はほとんど空なので自分で食材を調達しなければならない。そのため大雑把な光熱費を予想しただけの家賃となっていた。それじゃ、お言葉に甘えて、と言って二人でパスタを食べた。無言に気まずく感じた私は自己紹介することを提案し、お互い同い年の十九歳だということを知った。その後はお互いの仕事の話をした。私が毎日仕事先で寝泊まりしてまともな食事もしていないと話すと、それじゃ俺が作り置きとかしときますからそれ食べてください、とカンナは言った。そっけない声だけれど、突き放しすぎない優しさがあった。妙な雰囲気にもならないし、必要以上に干渉しない彼の性質がいいなと思った私は、それから頻繁に家に帰るようになった。ある時リビングで宝石のサンプルを整理していると、カンナがそれをじっと見てきた。

「それ、本物の宝石?」

「そう。サンプルだから、ちゃんと渡すものと比べたらだいぶ小さいけどね」

「全部フミが作ったの?」

「まさか。この赤いのとかは私だけど、こっちの緑っぽいのは他の人が作ったやつだよ。ほら、石の横のタグに作った人の名前があるでしょ」

「ほんとだ。いろんな色があるんだな」

どうやら実物を見るのは初めてのようで、会話が終わってもなおカンナは宝石を眺めていた。

「フミは青色とか作らないの?」

「作れはするけど、得意なのはこのガーネットみたいな暖色かな。カンナは青いのが好きなの?」

 うーん、と一瞬考えるように顔を顰めて、それから私の眼をじっと見て言った。

「そういう訳ではないんだけど、フミの眼の色みたいな宝石があったらいいなと思ったんだ。そういう青色、すごく綺麗だから」

 ここに並べられてる青い宝石も綺麗なんだけどね、と付け足すように言って、カンナは再び宝石の方に目を遣った。

「そっか」

 あまり自分の眼の色が好きではなかった私は、せっかくの誉め言葉に何も答えられなかった。何か言いたげな彼を見ないふりして、サンプルのケースをそっと上から閉じた。



「コーヒーのおかわりはいかがですか?」

「あ、お願いします」

「俺は大丈夫です」

 そろそろと湯気をまとったコーヒーが白いカップに注がれていく。カンナもその様子を見ているようで、そっと伏せられた長い睫毛がすらりと伸びていた。

 この美しいひとはいったいどんな魚に形を変えるのだろうといつか思ったけれど、まさかこんなにも早くそれを見る時が近付いているとは考えてもいなかった。私は余計な言葉を押し込むように熱いコーヒーをごくりと喉に流し込んだ。

 私の大切な友人が海に呼ばれたなんて誇らしいよ。宝石のことで何かあれば、彫刻師の私にいつでも相談してね。そんなことを私のくちびるが走るように言った。落ち着いて旅立ちの予感を告げる彼に反抗するように、私は痛々しいほど大人ぶった。けれどそれに返事はなかった。不自然な沈黙に気付いて前を向くと、カンナは私の顔をまっすぐに見ている。

 あのさ、フミ。

 すっと鳴る呼吸のあとに彼は言った。

「俺、フミに宝石にしてもらいたいんだ」



「あたしの骨、綺麗なルビーになるかしら」

「もちろんです。お客様はこんなに素敵な鱗をお持ちですから。お美しい鱗を持たれる方の骨ですから、きっと素晴らしいルビーになりますよ。そうでなくとも最上に仕立て上げて見せます」

 今日の顧客は二十代半ばの女性だ。かき上げた長い茶髪の奥にはちらちらと赤い鱗が光っている。数日前の打ち合わせではもみあげ辺りだった鱗が、今日は額の端から首元まで広がっていた。服で見えないだけで、きっと体中にも広がっているだろう。ふいにカンナの横顔が白銀の鱗で覆われるイメージが私を通り抜けた。仕事中に私情を挟むなと、私は手のひらに爪を食い込ませて仕事モードを維持する。今日は私の腕が試される本番の日。彼女が旅立つところから、本当の仕事が始まる。

「それじゃあ、どうかよろしくね」

 彼女は切れ長の瞳をゆるりと細めて私を見た。夕焼けに染まった砂浜の上で、私と彼女、そして立会人の数名が風に揺られていた。

 彫刻師は宝石の作成だけでなく、出発の式の司会も行う。

「それでは、良い旅立ちを」

 私は一礼して、それからゆっくりと頭を上げる。女性の身体は赤い鱗ですっかり覆われていた。肌の組織そのものが、もとからそうであったように赤く煌めく。すると彼女の内側はもぞもぞと波打ち、体がばたりと砂の上に倒れた。鱗は雪崩のように一瞬で体からどさどさと流れ落ちた。大量の鱗は服と共に落ち、白い骨だけが人のかたちをしたまま残った。その肋骨の中に、赤い鱗の大きな鯛がいた。は、と私はその美しさに息をこぼす。赤い鯛は私を一瞥すると、檻のようなあばら骨からずるりと這い出て、寄ってきた波に身を委ねた。彼女はあっという間に海に入り、するすると真っ直ぐ泳いでいく。これから宝石になるかつての身体を気にも留めないように彼女は泳ぎ、まもなく青の中に消えた。私は残された彼女の骨に近付いて屈み、背負ったアタッシュケースを足元に広げた。先ほど骨の表面を流れるように落ちた鱗は、音もなく粉々になってとうに砂と一体化している。私は乳白色の頭蓋を慎重に持ち上げて、骨の継ぎ目に爪を差し込むと、がくん、とかたちを忘れた大きな骨が、表面のカーブを私の手のひらに沿わせるように分かたれた。解体した骨をクッションの敷かれたケースに詰めていく。手際よく捌かれた女の身体だったものは、たったひとつのケースの中でひと固まりになった。がちゃんと固く締めて再び背負ってみると、ケースは先ほどまでの重さとあまり変わらない気がした。こんな風に簡単にかたちを纏めることになるのだろうか、カンナも。彼というひとの質量のあっけなさを想像しかけてやめた。そんなことをせずとも、じきに知る日がやってくる。彼を宝石にするのは、私なのだから。



 海岸を出たところから真っ直ぐ伸びる商店街の外れに、私の勤める宝石店がある。バターをナイフで切り取り出したような四角い小さな建物は、工房というには少々可愛らしい。最近は大きな工場の最新型製造機で宝石の依頼をする人が多くなっているから、これを工房と思わない人もいるだろう。それでも中に入ると機械の振動がじんじんと肌に響くので、入ってきた客たちはここが工房であると実感する。私は二階へ上がり、廊下の突き当りに構える「製造室」の札がかかった扉を開ける。さらにその先へ進んで、鉄製の大きな自動ドアのカードキーに社員証をかざした。重々しい扉が音もなくゆっくり開くと、銀色の壁に囲まれた部屋が現れる。この建物の中で一番広いこの部屋は、六台の製造機が均等に設置されている。私は一番奥の製造機のもとへ行き、オーブンのような扉をぐいと開けた。中には半球型に窪んだ型が用意されている。ここに粉々にした骨を詰めてから、爆発を利用して熱を込め圧縮すると、骨は宝石に姿を変える。言葉にすると簡単そうに聞こえるこの作業だが、使う爆薬や気体の配分によって宝石の種類がまったく変わってしまう。全自動のものとは違って、とても慎重で失敗の許されない仕事だ。

「フミ、今から作業?」

 左の製造機のもとで立っているキサラさんが、こちらを向いて声をかけてきた。彼女は私より五つ年上の先輩だ。彼女の艶めく黒髪は一束も余さず耳元でまとめられ、地味な作業着さえもすらりと着こなしている。

「そうです。今回はルビーに変えてほしいって依頼で」

「暖色の強いやつかー。フミはそういうの得意だもんね」

「ふふ、でもキサラさんみたいに綺麗な青も出せたらなって思ってるんですけどね」

「あたしの青色を真似ようなんて百年早い」

 キサラさんの整えられた眉がくしゃりと崩れた。揺るぎない凛々しさの中にある彼女の無邪気さはとても爽やかなもので、私はそんな彼女の気質が好きだった。

「そういえばさ、あんたのとこに依頼来てた。これ」

 キサラさんは義手を付けた方の手で依頼書の入った封筒を渡してきた。彼女の作り物の指先は銀色に艶めいていて、いつ見ても背筋が伸びるほどの美しさだった。顔を上げると彼女の眼は私を窺うようだったから、思わず察してしまう。中の書類には、カンナの名前があった。

「ごめん、見るつもり無かったんだけどさ。あんたの友達だよね、このひと」

 つらいだろうけど、頑張って。キサラさんはそう言って部屋を出た。聞き上手の彼女は私のするカンナの話をいつも聞いてくれた。すぐふらふら飛び出してしまうところとか、いつの間にか普通に部屋にいるところとか。それでも好きなんでしょ、素敵じゃん。そう言うキサラさんが妹の幸せを喜ぶような顔をしてくれるのが嬉しくて、その分彼女の仕事の愚痴はいくらでも聞いた。

それでも好き。キサラさんのいつか言った言葉を心の中で繰り返した。他人の事どころか私のことまでも特に気にしてなさそうなところや、ふわふわ消えてしまいそうな後ろ姿。突然宝石にしてほしいと言ってきたあの日。私を置いていこうとするあのひとを、それでも好きでいられる? 好きで居続けられる? 私には何もわからなかった。どうしてカンナは、私にこの依頼を送ったのだろう。



「よし、できた」

 製造機の開き戸をあけると、天板の窪みの中に赤い結晶が沈んでいた。シリコンのような生地のミトンをはめて天板を引き出す。固まった鉱物を壊し、溶かし、ふるいにかけ、また溶かして固める。ようやく生まれた赤い宝石は、部屋の明かりに照らされてぎらりと輝いた。いつになっても人の骨がこんなに美しい鉱物になるのは信じがたい神秘だ。作業を終えるたびにその美しさに息を吞んでしまう。そして、ひとの形をしていたという痕跡を完全に消し去ってしまった己の業に、底知れない恐ろしさを覚える。

 今回の仕事はここまでで一旦終了だ。稀にアクセサリーにしてほしいとカッティングの依頼が来ることもあるが、三十年もすればみんな宝石になってしまう私たちには、自分の一部を誰かに遺すという慣習がない。宝石は職人が海に投げ入れることがほとんどだ。宝石になった魚が、海で迷わないようにという意味が込められているそうだが、魚になってしまってからのことは誰にもわからない。私は仕事場から出て、宝石を郵便局で送った。信仰に倣って、彼女と親しい誰かが海に投げ入れるだろう。どうか、良い旅路でありますように。魚となった彼女に私は願った。海へ出ることは危険を伴うので、皆がみんな先にはたどり着けないのだ。途中で力尽きたり、サメに食べられてしまうことは、浜辺で打ち上げられた彼らが物語っていた。

 次の仕事は、カンナの宝石だ。あの告白からもう五日が経っていた。彼とは、しばらく会っていない。



「フミちゃんの眼って、なんで青いの?」

 ある時、友人にそう聞かれたことがある。たしか六歳くらいで、家の近くの遊具がある公園でのことだったと思う。

「わかんない。でも、お父さんもお母さんも同じ眼の色だよ」

 そう答えると、一緒に遊んでいた男の子が私の眼をじっと見て言った。

「青い目のやつって、海の先に行けないんだって母ちゃんが言ってた! 死ぬまでずっと陸で生きなきゃいけないから、かわいそうなんだって!」

 きっと悪意は無いのだろう。公園におもしろい形の木の実が落ちていたとか、そういう何てことないことを言う時と同じように彼は言った。だから私も、そうなんだ、『かわいそう』なんだ、とよく分からないまま聞いていた。けれど、その意味を私は少しずつ理解していった。

 この街には公園が二つしか無い。だから周りに住む子供たちは大抵この公園で遊んでいて、私も例に漏れずよく通っていた。だから年齢に関わらず、近所に住む子供たちとはみんな友達だった。小さなコミュニティの中で生きている私たちは、歳を重ねても変わらずに仲が良かったけれど、私が十五歳を超えてから、だんだんと友人たちが姿を消していった。

「向かいに住んでるヨナガ君、鱗が出たんだって。いいな、あたしも早く海の向こうがどうなってるか知りたいなあ」

 そう言っていた友人も、私に『かわいそう』と言った彼も、もうこの街を出て行ってしまった。ああ、ついに行ってしまったか。そう思いはしたが、彫刻師になるために工房に通ってばかりだった私は、もうすっかり彼らと疎遠だったので特別悲しくはなかった。

懐かしい名前を最近聞くようになったな、と久々に公園の前を歩いてみると、やはり知っている顔はどこにもなかった。変わらないのは、子どもが走り回ったり、ブランコでけらけらと笑っている風景くらいだった。

その時はじめて、体中から急に何かを抜き出されたような虚しさを覚えた。かなしい、というよりも、親が工房から帰ってこない日の夜みたいな締め付けられる感覚。これが生きていく中で何度も繰り返されるというなら、死ぬまで海に行けない私はどれだけ惨めなのだろう。ああ、これが『かわいそう』なのか。



 白い壁に包まれた客室で、カンナは座って待っていた。楕円形の大きな窓が、ラムネのような青空を切り取っている。その青を浴びたカンナを見て私は立ち尽くした。彼の髪や睫毛、指先までもが、青空をミルクで溶かしたような不思議な色を帯びている。今までに見てきた魚たちとは、どこか違う。

「フミ、久しぶり」

 カンナは相変わらずのざらついた優しい声だった。少し瘦せたのだろうか、喉仏はくっきりと表出し、骨がうっすらと浮き出ている。

「ひ、久しぶり」

思わず声が裏返ってしまったが、カンナは気にも留めずに話し出した。

「そろそろどうしてもらうか決めなきゃなって思って。急に連絡してごめんね」

「いや、カンナだっていろいろ大変だったでしょ。片付けとか手続きとか」

「まあ、そうだね」

 うまく言葉が出ずに私は狼狽える。カンナは自分から望んでこうなった訳じゃないと分かっているのに、子供の癇癪のようにうまく彼に向かい合えない。でも、私だって望んでこんなことをしている訳じゃない。

幼い頃、「フミちゃんは送る側なのね」と告げられたことを思い出した。

 この街には二種類のひとがいる。送る側と送られる側。どちらもこの街で人と人の間で生まれるのは同じだけれど、送られる側は長くても三十年を陸地で生き、魚となって海に入ることに対して、送る側はおよそ四十年から五十年生き、彼らの旅立ちを見届ける人生を送る。血筋からおよそ分かってはいたが、私が後者であると正確に分かったのは三歳の頃だ。私は瞳の色は白っぽい青色をしていた。魚になる間際に瞳が青くなるひとはいるが、見送る側のひとは誰もが特徴的な碧眼だった。宝石のような深みや輝きの無い、平坦な冬の空の色。私の瞳も、そういう色をしている。送られる側のひとからは、この目は哀れに思われることが多い。彼らは海へ行くことが一番の幸であると思っているから、彼らの倍の時間を生き、海を渡ることのできない私たちは『かわいそう』な人種なのだ。それで生きづらいと思ったことはないけれど、客たちの旅立ちを見続けていく中で何度も思った。どうしてこんなにつらい立場に生まれてしまったのだろう、どうしてさよならばかりしなくてはならないのだろう。けれどカンナが私の瞳を綺麗だと言ってくれた時、少しだけ自分を愛することが出来そうだと思えた。彼の前では、ただの美しい瞳の女でいられる。そこにみじめな気持ちなんてどこにも無かった。

 小さく手を握りしめていると、カンナが口を開いた。

「俺さ、オパールにしてもらいたいんだ」

 カンナは微笑みながらそう言った。薄い花びらがそっと開くような微笑みだった。

「きっとよく似合うよ」

「ありがとう。フミの得意分野じゃなくて申し訳ないんだけどね」

「カンナからの頼みなら、うまくやってみせるよ」

それは頼もしいな、と彼は波のようにゆらゆらと笑った。オパールは幸福や希望を表す。一番の友人を見送るには相応しい石だろう。

「もうすぐ、なんだな」

 カンナは呟いて、それから、あのさフミ、と私を呼んだ。フミは、お別れがさみしい?

「どうして、そんなこと聞くの」

 のどから深くて低い声が出た。私が言いたくても言えなかったことを、彼がとても簡単に聞いてきたのが少しだけ恨めしくて、思わず責めるような返事をしてしまった。それでもカンナは口を開いた。

「俺は」

カンナが何かを言いかけると、コンと扉が鳴った。扉のもとへ行くと、ドアから少し顔を覗かせたキサラさんが、もうすぐ業務時間が終わるよと小声で私に言った。

「ごめん、帰る準備しなきゃ。すぐ片付けるから入り口のとこで待ってて」

「いや、俺は先に帰るから気にしないで支度して。じゃあね」

 くたびれた白いシャツを揺らしながら、彼は部屋を出ていった。小さな談話室にカンナの「じゃあね」が波のように薄く薄く広がっていった。はるか昔の思い出のような、悠久の言葉。けれど私はその響きの中で、あることに気付いてしまった。緩く開いたカンナの口から、ナイフの先のように尖った歯が見えたのだ。今まであっただろうか。そういえば、彼が口を大きく開けて笑っているところを見たことがない。魚になるひとたちは海で生きていくために丈夫な歯を持っているけれど、あそこまで鋭いものは見たことが無かった。ああ、それにあの肌。魚たちの艶めきとは違う質感、それから細かく体を覆うとても小さな鱗。いつか聞いた、サメの特徴そのものだった。

私は急いで荷物を取りに行き、ひたすらに走って追いかけた。

「待って!」

肺が裂かれるほどに叫ぶ。建物を出たところにいたカンナは、虚を突かれたような顔でこちらへ振り返った。

「いかないで。さっきは全然伝えられなかったけど、私は、カンナがいなくなったらさみしいんだよ」

 急いで追いかけて引き留めるように彼の細い腕を掴むと、手のひらに紙やすりのようなざらつきを感じた。わずかな刺激に思わず顔を上げると、カンナはまるで大きなひびが入ったような顔で私を見た。それから、全身でため息をついて言った。

「もう気付いたと思うけど、俺は本当は祝福される資格のない生き物なんだ。送る側でも、送られる側なんかでもない。旅立つ人たちを傷つける役目を持って生まれたんだ」

 氷の産毛のような睫毛の奥に、そろそろと潤む瞳が見えた。ずっと感情なんて見せてくれなかったカンナが、これまでで一番私に近いところにいるようだった。

「綺麗な旅路を作るのが俺の、サメの役割なんだ。魚たちは毎日のように増えていくから、間引かないと海藻は食べつくされて、海が濁る。必要なことだ。そのことを知った時から、すごく大切な使命だって思ってる。でもさ、ひとが魚になって海に行くことが『幸』っていうなら、俺の存在って何なんだろうね」

 伝えるために丁寧に編まれた言葉を、一つ一つ崩さないように取り出すような言い方だった。きっと何度も私にそう言おうとして、結局出来なかったのだろう。

「フミは魚にならないから、海で傷つけることは無い。だから一緒にいても許される気がした。俺は、いつも狡いことを思ってきたんだよ」

 カンナの喉仏が水を汲みだすように動いている。それを見て、鼻の奥がじくりと痛んだ。

「時々そんな自分が嫌になって、離れようとした。でもフミはいつも待っていてくれた。それがただ嬉しかったんだ」

「私には待つことしかできないから。でも、私はカンナの帰る場所になれていたんだね」

「うん。ありがとう」

 私は腕を放して、ゆっくりとカンナの手のひらに触れた。手のひらは腕よりも粗くて硬い鱗でぎっしりと覆われていた。ふと赤い鱗の女のことを思い出した。全身を鱗の鎧で包んだ彼女のように、カンナもきっとひとでいられる時間はもう限りなく少ないだろう。たぶん明日でお別れだ。カンナの横顔は冬の風のように凛としていて、きっとそれを分かり切っているのだろうなと思った。



 浜辺に降りると、どろどろとうごめく溶岩のように鮮やかな夕日が海のすべてを照らしていた。オレンジ色に染まった空はさよならの合図だ。いつだってひとが体を捨てるのは、こんな夕暮れ時だった。赤い女もそうだ。沈む太陽を道しるべに、今この瞬間もひとを終えた魚たちが泳いでいるだろう。

「前に見せてくれた宝石、この空みたいな色だったよね」

カンナは緩やかに沈んでゆく夕日をじっと見つめて、そう言った。

「ああ、先月作ったカーネリアンのことかな?」

「たぶんそう。フミの作る赤とかオレンジは、本当に綺麗だった」

「私にとって特別な色なんだ。ちゃんとそのひとがいたって証みたいに温かい色だから。夕焼けを連想させる別れの色でもあるけどね」

「特別な色か。俺にとってはフミの目の色。海の浅いところの色みたいでさ、この色をみると、もし海に出ることになっても自分はひとりぼっちじゃないって思わせてくれるんだ。」

 だから、その色に一番近いオパールにしてほしい。完全にサメになって、何かを喰らうだけの生き物になっても、海に投げられたオパールを見たらこの世のどこかに自分を想ってくれている人がいるってこと、忘れずに生きていけるから。カンナは薄く笑ってそう言った。

「魚になったら、ひとだった頃の記憶が無くなっちゃうんじゃないの?」

だから魚になったら、浜に自分から戻ることは無い。そんなことを言い伝えられてきた筈だ。

「そうだね。でも、そう思っていくほうが俺はずっといいと思ってる。先のことなんて誰にもわからないんだから」

「それもそっか」

先のことなんてわからない。だったら今できることをやってしまおう。それが、ろくに友人を見送らなかった私の見つけた見送り方だった。

「よし、今夜は最後の晩餐並みに美味しいごはんを二人で食べようか」



 二人で夕飯を食べるのは三日ぶりだった。何となく気まずさを感じて、私が以前のように職場で寝泊まりしていたからだ。

「今日のメニューどうしようか」

 カンナが冷蔵庫を開けながら訊いた。

「いいよいいよ、今日は私が作る」

 そう言うと、じゃあ二人で作ろうかとカンナは笑って言った。

「パスタにしようか。トマトたっぷりで」

「それじゃ私の好物になっちゃうよ」

「俺が重要なのは、自分の作ったごはんを美味しいって笑ってもらうことだから」

 カンナは鍋の水を沸かし、パスタを扇のように手際よく広げ入れた。その間、私は野菜室からトマトを取ってさくりさくりと切っていく。誰かと料理するのは、意外にも今日が初めてだった。一人の料理はただの作業のようだけど、誰かと一緒だと出来上がるものに期待が膨らむのだと今更知った。もっと早くに知ることができたらよかった。

 真っ白な丸皿に鮮やかなトマトソースパスタを乗せ、私たちはテーブルに向かい合った。

「いただきます」

声を合わせてフォークを持ち上げ、パスタを巻き付ける。口に運ぼうとすると、カンナの手がフォークを掴み切れていないのが見えた。

「カンナ? どうしたの?」

 そう聞くと、カンナは震える声で、

「手が、変で」

手元に目をやると、フォークを持つ手が小刻みに震えている。見せてみて、と立ち上がってカンナの手を取ろうとすると、静かに振り払われた。

「あ」

 私はカンナの手を掴めていなかった。それどころか、今彼に触れたはずの自分の右手が、関節の所からすっかり無くなっていた。気付いた瞬間、業火の中でおびただしい数の針に刺されるような、とてつもない激痛に襲われた。痛くて、声が出ない。いつしかどくどくと血が溢れ始め、テーブルや床、そして皿にまで落ち始めた。痛みのあまり、パスタがどうとか、そんなことは何も思えなかった。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 その声に顔を上げると、目の前に、ぞっとするほどの絶望に陥ったカンナがいた。体中が鮫肌に覆われた彼は、涙を流していた。何か言わなければ、今すぐあの涙を止めなければ。そう思って、唸るように力を入れて喉を動かした。

「だいじょうぶ、それでも私はあなたが好きだよ」

声になっていたのかはわからない。ただ、俯いて泣いていたカンナが私の方を見ていたことは確かだ。それから先のことは覚えていない。



 カンナの骨は見事なオパールに生まれ変わった。彼の美しさは姿が変わってもそのままだと思った。

最後の晩餐をしたあの日、私は痛みのあまり倒れてしまったらしい。目が覚めたのは次の日の昼下がりで、その時にはカンナはどこにもいなかった。病院でキサラさんの紹介してくれた義手を付けて家に帰ると、置き手紙があった。記されていたのは地図と、「ありがとう」という一言だった。手紙を頼りに向かった先には、誰も寄り付かないような入り江があった。砂浜の上には脱ぎ捨てられて間もない人の骨が置かれていた。目が覚めてから、そんな気がしていた。

 私は骨を工房へ持ち帰った。約束通りオパールにすることが、私にできる唯一の旅立ちの祝いだった。オーブンで骨を溶かしているとき、ふと自分の骨も宝石にできるのかと疑問を抱いた。

カンナだった宝石は、じっとりと辺りの色を吸い込んで、青いオーロラのように淡く光る。紛れもなく最高傑作だ。そして私の右手は、オーブンの中で呆気なく黒く砕けてただの煤のようになってしまった。カンナと私は初めから何もかもが別の生き物だったのだと言われているような気がした。きっと彼の抱えた葛藤も苦しみも、私は分かったようでいて何一つ理解できていないだろう。それでも私はこの痛みを忘れたくはなかった。

カンナの抜け殻が横たわっていた入り江に行くと、やはり生き物の気配はまるでしなかった。あの日と同じで、波の音だけが静かに響いている。

「どうか、君にとっての幸を見つけられますように」

 ぎこちない銀色の右手にオパールと黒焦げた骨片を握り、海に向かって思い切り投げた。

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孤独のオパール 吉永明 @oyasuyan

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