第47話 最推しの距離感がおかしい

 ――私も大好きだよ。



 彼女の言葉がぐわんぐわんと脳内に響き渡る。いっそのこと意識を落としてしまいたいところなのだが、そう上手くはいかない。



「ふふ」



 楽しそうに七海が俺のことを抱きしめていたから。意識までぎゅっと抱きしめられたように、離れてくれなかった。


 ちょ、あの、なんか! なんか柔らかいものが当たってるんですが!



「なななななななな七海さん?」

「七が多いよ雪翔くん」

「ちょ、ちょちょちょっとあの、近いというか近すぎるというか、えっと、あの、え!?」

「ふふ、そんなにパニックにならないで」

「なるよ!? パニックの一つや二つくらい起こすよ!?」



 彼女の匂いに脳が痺れ、もう自分が何を考えてるのかすら分からなくなってきた。



「じゃあ落ち着くために深呼吸してみよ、雪翔くん」

「推しの過剰摂取で死にますが?」

「大丈夫、ちょっとずつ慣れていくから」

「ちょっと危ない薬の勧誘みたいになってます七海さん」

「ふふ」



 その笑い声に吐息が混じって耳をくすぐってくる。


 あ、そっか。からかって――いや、それはないか。



 誰よりも俺の好意を肯定してくれた彼女がそんな真似を……俺の好意を弄ぶはずがない。ちょっとこれはイタズラにしては度が過ぎてるし。イタズラだったとしても受け入れますけども。


 多分からかわれてはいないはずだ。え、じゃあこれは――



「雪翔くん、すっごいドキドキしてるね」

「そ、そりゃもう。今にも爆発しそうなくらいには」

「……比喩だよね?」

「本当に爆発したら怖いよ。俺どんな体してるんだよ」

「ふふ、そうだよね。雪翔くんならちょっとありそうかなって」

「俺どんな印象……あれ、もしかしなくても普段の行いのせい?」



 自分の行いを省みると強く言えない。そもそも最推しに強く言えるはずもない。


 というか、いつになったら離れてくれるんですか七海さん。なんかもう色々やばいんです。色々。



「ねえ、雪翔くん」

「なんでしょうか」

「私の心臓もドクドク言ってるの、聞こえるかな」

「あー! ダメ! 意識しちゃうから!」



 心臓があるところというのは非常にセンシティブなところである。絶対意識しないようにと全力で意識を背けていた。

 しかし、彼女に言われて気づいてしまう。柔らかな感触の奥に……とくんとくんと心臓が鳴り響く音が伝わってきた。



「どう? 聞こえる?」

「……す、少しだけ」

「そっか、雪翔くんは聞こえにくいよね」


 そんな言い方をされるとちょっと色んな想像をしてしまいそうになる。落ち着かなければ。いい加減落ち着け、俺。

 いやでも、落ち着く方が失礼なのでは?


 と、一瞬の間に多くのことを考えていたその時――最推しの生ASMRが始まってしまった。



「でも、こうしてるとさ。私はちょっと落ち着くんだ。……ドキドキもするけど」

「ポヒュン」


 七海がぼそぼそと呟くように話しかけてきたのである。


 耳が幸せとこそばゆさとその他諸々で燃え上がったように熱くなっていくのが自分でも分かった。



「雪翔くんもそうだったら、って思ったんだけど。ドキドキしっぱなしだね?」

「め、面目ない?」

「ううん、大丈夫だよ。きっと何回も続けてたら慣れて落ち着いてくる……といいなって思ってるから」


 さりげなくこれからもハグしてくるって言ってる? 言ってるよね?


 というかそもそもの話、なんで俺って七海にハグされてるんだ?



「あ、あの。七海さん。すっごい今更だけどこれってどういうあれでしょうか」

「んー? さっきも言ったよ?」



 彼女が小さく顔を上げ――彼女の息が耳をくすぐった。



「大好きだよ、って」

「――」



 また意識が飛びそうになったが、ギリギリでとどまる。


 先程のは不意打ちすぎたからあれだが……ここで意識を飛ばすのはさすがに失礼だろうと思って。



「私、雪翔くんに好きって言われるの好きなんだ。だけど、私の方から言ってなかったから。……当たり前のことだけど、ちゃんと言葉にしないと伝わらないしなって」

「そっ、そういうこと……か?」


 普段のお礼というか、お返しみたいなこと――と言うにはちょっと最後の言葉が引っかかりすぎた。


 言葉にしないと伝わらないって、どういう……そういう意味なのか? ああもう、頭が全然回らない。



「嘘じゃないからね」



 ただでさえ回っていないというのに、その言葉が更に心をぐるぐるとかき混ぜてくる。



 ――言葉だけじゃない。彼女の体温が、匂いが、柔らかさが全身に伝わってきて――何も考えられなくなっていた。



「ふふ、でも今日はこれくらいが限界かな?」

「さ、最初からかなり限界だったんですが……」

「限界からもう一声やるんだよ。レッスンと一緒でね」



 七海がそこで離れてくれた。離れてくれたんだが、全身に残る彼女の匂いや体温の残滓が凄まじい。



 まだ大きく鳴っている自分の心臓の上に手を置き、落ち着けるようにホッと息を吐く。それから七海を見たら――



「――私もちょっと、限界が来てたからさ」



 ――七海はニコリと笑っている。だけど、その表情は恥ずかしさを紛らわせるためか少しだけぎこちなかった。



「かっ……」



 思わず口にしようとしてしまい、俺は口を閉じた。



 ……ん!? なんで俺口閉じてんの!?



「だ、だい……」



 試しにいつものあれを言おうとするも、なぜか言葉が小さくなって尻すぼみに消えた。


 あれ、え!? なんで!?



 しかも顔がどんどん熱くなっていって、思わず俯いてしまった。



「んー? 続き、言ってくれないの?」

「な、ななみ……」



 しかし、ずいっと彼女は下から見上げてきた。まだ顔は赤いが、微笑みはいつもの柔らかさを持っている。



「だっ、大好き……です」

「……ふ、ふーん? も、もう一個の方は?」

「な、七海さんが可愛くてどうにかなりそうです」


 その口元がもにょもにょと嬉しそうに動いて、やがて彼女は我慢をやめて頬を緩めた。


 あれ、なんで……なんでこんなに嬉しいのに、同じくらい恥ずかしいんだ。



 思わず七海から顔を逸らしてしまった。

 あれ!? 顔逸らせた!? いつも七海見たさが上回るのに!? なんか今日の俺おかしいぞ!?



 ひ、ひょっとして俺、意識してるのか? なんだ? 会った時からずっと意識しっぱなしのはずなんだが。



「……そっか」



 小さく呟いた彼女の声に俺は頷くことも出来なくて、ただ心の内で燃え続ける熱を冷まそうと必死になっていた。

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