第29話 【アイドル】と【楠七海】

 ……あー。すっごい胸がざわざわする。


 嫌な緊張の仕方だ。こんなのあの時ぶりじゃないかな。



 だけど、あの時とはかなり状況が違う。俺も変わったし、立場も……あの時の要も同じ気持ちだったのかな。


 ふとそんなことを考えてしまい、貴船さんが顔を覗き込んでくる。



「雪翔くん、大丈夫?」

「全然全く問題ありません」


 一度深呼吸をして、おかしな鳴り方をする心臓を整えていると……貴船さんがいきなり頭を下げてきた。



「ごめんね、雪翔くん。雪翔くんも辛いはずだ。でも、私には……どうにも出来ないんだ。だから――お願い。七海ちゃんを支えて欲しい」

「任せてください、貴船さん」


 貴船さんが安心出来るように、とんと自分の胸を叩く。



「俺は【楠七海】の最古参ガチ勢ですよ。これくらいなんでもありませんし――」



 その言葉は嘘じゃない。


 でも、どっちかと言えば……こっちの方が本音だな。



「俺は【楠七海】という人物に、【Sunlight hope】というアイドルに助けられた人間です。やっと恩を返すことが出来るんです。……だから、顔を上げてください」


 そう言ってやっと、貴船さんが顔を上げた。



「……ありがとう、雪翔くん」

「お礼を言うのはこっちの方ですよ。楠のこと、色々とありがとうございます」


 貴船さんも本当に楠のことが大好きなんだって、【Sunlight hope】が好きなんだって伝わってきた。この短い期間でも。



「それじゃあ行きましょう。楠が待ってます」

「……そうだね」



 そうして俺達は楠の家に入り――楠が居るらしい寝室へと向かう。そこに三人が居るらしいから。


 まさか、楠木の寝室へ入ることになるとは……さすがにこの状況じゃドキドキも出来ない。緊張という意味でドキドキはしてるけども。




 呼吸を深くするよう意識しながら扉を開けると――三人はベッドの上に居た。




 楠がベッドの端に掛けるように座っていて、隣で霞ちゃんが楠の手を握っている。


 そして、後ろから津海希ちゃんが楠のことを抱きしめていた。




 霞ちゃんに手を握られ、津海希ちゃんに手を握られている楠は――ぼうっとしていた。



 ゆったりと視線を上げ、俺を見てくる。



「……楠」

「来て、くれたんだね。雪翔くん」


 その表情は変わらない。俺を見ているようで、どこか遠くを見ているようにも見える。


「雪翔くん、来てくれてありがとう」

「いえ、俺が来たかっただけなので」


 霞ちゃんはニコリと微笑んでくれるけど……心配の色は隠しきれていない。



「ごめんなさい」

「謝らないで、七海。私達も彼と同じで来たくて来たんだから」

「そうだよ!」


 謝る楠に、二人がそう言って――霞ちゃんが横から楠を抱きしめた。津海希ちゃんも位置を変え、反対側から楠を抱きしめる。



「七海は一人じゃないんだよ。私達が居るから」

「うん! 元気が出るまでいっぱいぎゅーするからね!」

「……ありがとう」



 そう言いながらも、楠の表情は動かない。見ていると心が引き絞られたようにいたくなる。



「……少しだけ二人と話をするよ。その間は雪翔くんが傍に居るから」

「終わったらすぐ戻ってくるからね」

「ちょっとだけ待っててね!」

「うん」


 そして、二人が離れた。


「雪翔くん」

「……はい」


 詳しくは言わない。それでもその目を見れば何が言いたいのか伝わってくる。


 俺に出来ることは少ないけど……俺は楠のファンで、楠は俺の恩人だ。



「七海ちゃん。表でのことは全部私がどうにかするから。そこは心配しないでね」

「ありがとうございます」


 貴船さんが優しく微笑む……でも、唇の端が少しだけ痙攣していた。


「それじゃあ。何かあったらすぐ呼んでね」



 貴船さんの言葉を最後にパタン、と扉が閉められる。部屋には俺と楠の二人が残された。



「……隣、座って良いかな」

「……ん」


 小さく頷かれ、ホッとしながら隣に腰掛ける。



 少しの間、部屋から音が消える。



 何を話すべきか考えていたはずなのに、いざとなると本当に言って良いのか迷ってしまう。



 今はどんな言葉が彼女を傷つけてしまうのか分からない。



 ……いや、言わなければ何も変わらないな。


 楠にはずっと笑顔で居て欲しいから。



「楠」


 名前を呼ぶと、ゆっくりと顔を上げて、こちらを向いてくれる。


 その瞳がじっとこちらを向くのを見て、彼女の手を取った。



「俺は楠のことが大好きだよ」

「……」

「嘘じゃない、っていうのは言わなくても分かってくれてると思いたいけど」

「それは、疑ってないよ」



 無口気味だった楠が言葉を返してくれる。小さな声だったけど、しっかり聞こえた。

 きゅっと、弱い力で手が握り替えされた。その瞳に陰が宿り、また俯いてしまう。



「……ライバル」


 だけど、俯きながらも楠はぽつりぽつりと口を開いて話し始めてくれた。



「【サイス】とはね。デビューした頃から仲が良かったんだ」



 じっと楠のことを見ながら話を聞く。言葉を一言一句聞き逃さないように。



「亜虹ちゃんはね。優しくて、でも友人、って呼ぶのは少し違って……亜虹ちゃんからはよく『七海ちゃんとはライバルだ!』って言われてたんだ」

「……そうなんだ」

「うん。……ライバル、だって。私はずっと思ってたんだけどなぁ」



 言葉が途切れ途切れになって、ぽろぽろと涙が零れ始める。

 握られた手の力が強くなっていた。



「もう、ね。分かんないんだ。何を信じたらいいのか。最初から亜虹ちゃんが私のこと、嫌いだったのかなとか……それとも、嫌いになっちゃったのかなって考えちゃって」



 涙で滲む瞳が俺を見る。



「もしかしたら……霞と津海希も、貴船さんも。……雪翔くんも、今は良くてもいつかは私のことを嫌いになるかもしれない――なんて考えたりして」

「楠」

「また私、疑っちゃってる。二人のことを。頑張ってくれた貴船さんのことも。……ずーっと支えてくれた雪翔くんのことも」


 手が離される。それは自分の腕を強く掴んでいた。



「ほんとうに、ダメだよ、私。……もう、嫌だよ。誰も疑いたく、ないよ」

「楠」

「……触らないで」


 手に触れようとして、その言葉に止まってしまう。




「もう、良いの。……こんなの、雪翔くんが好きになってくれた私じゃない、から」

「そんなこと――」

「あるよ。雪翔くんが好きになってくれたのは、頑張る私で……もっと輝いてる私だよ」



 ――俺は確かに【Suh】の箱推しだけど、楠が一番好きだぞ。

 ――……どういうところが?

 ――誰よりも輝いてるところ。



 ああ、言ったな。楠と過ごした時間を忘れるはずがない。



「だから、もういいんだ。……私はもう、君の好きなアイドルじゃないから。もう関わらなくて、いいんだよ」

「……」


 少し悩もうとして、首を振る。

 ……悩む暇があるなら行動に移した方が良い。



 意を決して――俺は腕を広げて、楠にハグをした。



「……ッ」

「絶対に嫌だ」


 抵抗はない。……後々セクハラだなんだで訴えられても良い。



「あの時言ったことは本当だ。俺は楠が誰よりも輝いているのを見て、推したいと思った。好きになった。……だけど」



 何度も心の中で訴えかけてくるものがある。『本当にお前が言っていいのか?』と。


 たかが一ファン。たかが一クラスメイト。


 そんなことを言えば気持ち悪がられるんじゃないか?





 そんな感情は無理やり押し潰す。

 俺は楠を支えるって決めたから。




「俺は【Sunlight hopeの楠七海】が大好きだ。それ以上に【楠七海】という一人の女性が好きなんだ」



 その柔らかな頬を手でゆっくり、優しく包んで。目を合わせる。



「楠が言う通り、未来は誰にも分からない。だけど、俺は約束するよ」


 自分の思いの丈を、全てをぶちまける。



「十年後、二十年後、五十年後、百年後も楠のことが大好きだって言い続ける。楠に聞こえるよう大きな声で」

「……ふふ。百年後なんてもうおじいちゃんおばあちゃんだよ、私達」



 ――楠が笑った。やっと笑ってくれた。



「そりゃもう。長生きして楠達のことを布教するつもりだから」



 それが嬉しくて、こっちも笑ってしまう。……笑ってしまうけど、その言葉は冗談じゃない。



「それまでずっと、楠に毎日好きだって言い続けるよ。楠が不安にならないように。……いや、単純に俺が好きを抑えきれないからだな」

「……そっか」


 そっと腕が回され、抱きしめ返される。ちょっと心の中で色んなものが叫びそうになったけど、必死に押さえつけた。



「……本当に、私のこと嫌いにならない?」

「絶対に」

「……」



 じっと可愛らしい瞳が見つめてくる。……気がつくと、その瞳の陰りが薄くなっていた。



「一つ、お願いがあるの」

「何でもします」

「……じゃあ、私の好きなところ、言って欲しい。【Sunlight hopeの楠七海】じゃなくて、【楠七海】の好きなところ」



 想定していなかった言葉。思わず目を見開いてしまった。


 だけど――断る理由は何一つもなく、引き受ける理由はたくさんあった。



「分かった。朝になるまで語り続けるかもしれないけど?」

「……それでもいいよ。ううん。その方がいい」



 よし、じゃあ語ろう。楠七海の大好きなところを。


 今回は自重なしの本気の語りを――好きだという気持ちを伝えよう。

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