第23話 尊みサンドイッチ
胸の中に楠が居る。すっごい良い匂いがする。あとなんか柔らかい。
いつもなら喜んで意識を手放すところなんだが、今は出来ない。そんなことしてはいけない。
楠は今、泣いていたから。
「……私ね。誰を信じれば良いのか、分からなかったんだ」
涙混じりにぽつりぽつりと呟く楠。
彼女の心情を思えば、絶対にそういう気持ちを抱いてはいけない。というか抱けない。
「メールアドレスの流出。お仕事の相手なのか、それとも友達なのか……メンバーなのか。マネさんとか、プロデューサー……その中に犯人が居るって思うと。怖かった」
静かにその言葉を聞く。ぎゅっと服を掴まれた。
「特に、霞と津海希。二人とはずっと頑張ってきて、一緒に居ると楽しくて……」
ぽたりと落ちる涙が服を濡らす。それを気にして楠がほんの少し離れようとしたけど、こっちから近づいた。こんな時まで気を使って欲しくない。
楠はそこで離れるのをやめ、大人しくまた体重を預けてきた。
「……楽しんでたのは私だけだったんじゃないかって。急に目の前に居るのが自分の知らない霞と津海希なんじゃないかって、怖くなったの」
……俺には想像できないくらい、辛かったんだろうな。
「どうにか、マネさんだけは信じようって思って……だけど、それでも夜は眠れなくて、二人に裏切られる夢を見て……怖かったの」
服を握る力が強くなった。何か俺に出来ることはないだろうか。少しだけ迷って――ぎゅっと手を重ねた。
服から俺の手のひらに彼女の柔らかな手が移る。
「二人が関わって無くて良かった……んだけどね」
ボロボロと、溢れる涙が大粒なものへと変わる。
「私、ホッとした。ホッとしちゃってたんだ。……それってさ。ふ、二人を、疑ってた……訳だから」
「楠」
その手を強く握り返していた。楠が顔を上げ、涙を流しながらもこちらを見る。
「楠は優しいんだ」
「……全然、優しくなんて……」
「優しいよ。それだけ心を痛めても、大切な人のことを気にしてるんだから」
ただ、自分を責める方向に行っているのは非常に良くない。誰もそんなことは望んでいない。
「自分にも優しくしよう、な? 大丈夫。二人とも絶対気にしないから」
「……」
難しい、か。これ、あんまり引きずると良くない気がする。だけど無理もして欲しくない。
少しだけ迷った後、口を開いてむりやり声を押し出す。少しでも辛そうならやめようと決めながら。
「俺が隣に居れば大丈夫だったりするか?」
楠が目を見開く。そして……少しの間、押し黙った。
胸に顔を押し当ててきて、部屋に時計の音が響く。
「二人、呼んでみるか? 俺も傍に居るよ」
……これは賭けだ。もしかしたら、楠に物凄い精神的負担が掛かるかもしれない。
だけど、俺は信じていた。
「――うん。呼ぶ」
楠が二人と会うことを望んで、絶対に悪い結果にはならないはずだと。
◆◆◆
「ごめんね、いきなり呼んじゃって」
「それは全然良いんだけど……えっと。これはどんな状況かな?」
「わ、私達、おじゃまだったかなー?」
「えっと、その、ちょっとあってね。隣に雪翔くんが居てくれないと不安で」
今俺は楠の隣に居た……んだけど。
手を繋いでいる。うん。手を繋いでいるのだ。
分かってる。分かってますとも。真面目なことだ。実際楠は不安なんだろうし、そのためなら手の二、三本差し出しますとも。
だけどね。すっごく柔らかいんだ。え、何。ほんとに俺と楠は同じ生物なの? 性別が違うだけでこんなに柔らかくなるの?
と大声で言いたくなるけど我慢だ。すっごく我慢しないといけない。
「とりあえず二人とも中入っちゃって」
「うん、お邪魔します」
「お邪魔します! 七海ちゃんの部屋、初めて入るね!」
二人が中に入る。そういえば部屋にはメンバーをあんまり呼ばないみたいなことを話してたな。
「リビングに行こ。……話したいことがあるから」
「分かった」
リビングに行って、俺と楠、テーブル越しに霞ちゃんと津海希ちゃんが座った。
「それで、どうしたのかな」
「二人に謝りたくて」
「謝りたい?」
「……うん。謝りたい」
楠が呼吸を整える。緊張した面持ちで、ぎゅっと手を握ってきた。
「二人には……その、悪口とかいろんなのが見えるようになった、って言ってたよね」
「うん、そう聞いていた」
「だけど、本当はちょっとだけ違うの。実はね――」
どうやら楠は全てを話してた訳ではないようだった。
楠は自分のメールアドレスが特定されたこと。そして、それがインターネットの匿名掲示板で晒されていたこと。それからは心ない発言に敏感になってしまったことを話した。
二人は静かに聞いている。
楠が話し終えた頃には、霞ちゃんが納得したように頷いていた。
「ということは……そういうことか」
「んー? どういうことー?」
「いや……マネさんが『七海ちゃんのメールアドレスが変わった』って言ってたのはそういうことだったんだね」
「う、うん。でも二人とはあんまりメールでやりとりしないもんね」
なるほど。それで二人もそこまでは気づかなかったのか。
「でも、メールアドレスの流出って……」
「うん。多分、わ、私のメールアドレスを知ってる人って相当限られてるから……」
声が震え始めて、楠がぐっと唇を噛みしめた。その瞳が俺を見つめ……手をもっとこっちに近づけてきて、膝の上に置いた。その手を見つめるように俯く。
そして、一度ふぅと息を吐いて、楠が顔を上げた。
「さっきマネさんから連絡があったんだ。霞と津海希じゃないって。……それで私、ホッとしちゃってたんだ」
まっすぐに二人を見つめている。その瞳はもう揺らがない。
「ホッとして、気づいた。……私、二人を疑ってたんだって。……それで、どうしても謝りたくなって、呼んだんだ」
「ちょっと補足する。二人を呼ぼうって言ったのは俺だ。こういうのは早めにした方が良いと思って。いきなりでごめん」
「ううん、呼んでくれてありがとう。良い判断だよ」
「元々朝のやつが終わったら今日はオフだったし! 今も暇してたからね!」
そう言ってくれると凄くありがたい。
二人の言葉を聞いて、楠は手の力を抜いた。それに従ってこちらも手の力を抜いて――手を離した。
「ありがとう、二人とも。……それで、ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
楠が深く頭を下げる。
「一番信じないといけない二人を、私は信じられなかった。……ごめんなさい」
「七海」
「七海ちゃん」
二人は立ち上がって、楠に近づいてきた。すっと俺は少しだけ離れる。
「顔を上げて、七海」
「……でも、私」
「じゃあ私が下行くねー!」
津海希ちゃんが下から楠を覗き込む。ニコニコとした、見ていると元気になりそうな笑顔で。
「なーなーみーちゃん!」
「ひゃっ!」
そして、津海希ちゃんがそこから楠に飛びついた。顔を上げさせるように。
勢いのまま後ろに倒れそうになって、霞ちゃんが後ろから支えるように抱きしめた。
「もう、津海希。危ないよ」
「霞ちゃんが居るから大丈夫だもん!」
「ふ、二人とも……?」
楠がサンドイッチになっている。なにこの尊みサンドイッチ。すごくシリアスな空気が推し推ししたものへと変わっていく。
「七海が謝ることは何もない……って言いたいんだけど、多分それを言うと七海が気にすると思う。だから、一言だけね」
後ろからぎゅっと霞ちゃんが楠を抱きしめる。
「これからもっと仲良くなろう。……もう七海にそんな顔はさせないよ。絶対に」
「ってことはもっと仲良くなれるねー! 色んなところ遊びに行こうねー!」
……。
「……ありがとう、二人とも。雪翔くんも――えっと、なんで泣いてるの?」
「俺は壁だ。壁だと思ってくれ」
こんなん泣くでしょ。泣いてるよ。泣くしかないよ。
もうこうなったら生涯三人を推し続けるしかない。元々推すつもりだったけど、今はその気持ちがもっと強くなった。
「……POP、新作考えておこ」
「楽しみにしてる」
「私もー!」
「……ふふ。私も楽しみにしてるね」
瞳を潤ませながらも、ニコリと笑う楠。
その笑顔はとても綺麗だった。この数瞬で三十回は惚れた。大好きです。
「雪翔くんもぎゅーしないのー?」
「俺、今だけは誰に何と言われようと壁になるって決めてるんです」
……というやりとりがあったりもしたけど。三人がもっと仲良くなれそうで良かった。勇気を出して呼ぼうって言ってみて良かった。
それにしても、楠のメアドを流出させたのは誰なんだろうか。
この辺りは貴船さんに任せておけば大丈夫か。
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