第10話 推しハウスでのひととき

「ただいま」

「お、おじゃまします」


 そう言ってはみたものの、返事はない。先程楠が言った通り、両親は居ないのだろう。



「まずは手洗っちゃおうか。ご飯は準備しておいたからすぐ出来るよ」

「この匂い……シチューか?」

「正解。ビーフシチューだよ。洗面所はこっちね」


 玄関にほんのりといい匂いが漂ってきていて、おおっと声が出てしまう。


「ビーフシチュー……何年ぶりに食べるかな」

「あれ? 雪翔くんも?」

「ああ。ん? もってことは楠も?」


 そう返せば、楠が苦笑いをした。


「一人暮らしはシチューとかカレー、作りにくいんだよね。ルーが余っちゃうし」


 楠の言葉に深く何度も頷いた。



 一食分だけ作るか、なんてこともあんまり出来ないし。日を置きすぎると食中毒になりかねない。外食も……シチューはあんまり食べてこなかったな。




 ……それにしても、なんで俺はアイドル、しかも最推しの家に居るんだ? しかもシチューをご馳走になろうとしているんだ? と脳内で自分自身が語りかけてきたけど無視をしよう。

 気にしていたらキリがない。


 そうして手を洗い、改めて軽く部屋の案内をされた。


 やはりかなり広い。……しかし不思議なことに、彼女の両親が住んでいる部屋がなかった。


 気になるけども、これは聞かない方が良いやつだろう。そう自分に言い聞かせながらリビングに向かう。



「じゃあこっちで待ってて。着替えてからちゃちゃっと準備してくるから」

「あ、俺も手伝うよ」

「だーめ。お礼なんだから座ってて」

「アッ」


 立ち上がろうとしたものの、楠が肩を押して座らせてきた。唐突なスキンシップは寿命が縮むのでちょっとやめて頂きたい。


 ……こういうスキンシップ、女子校出身だからなんだろうなぁ。


 まあ、多分そのうち良くなると思うし言わないでおこう。これ以上距離を詰めてくることもないだろうしな。



 そして、楠が居なくなって俺はリビングで一人にされた。


 彼女が居なくなって、改めて気がついてしまったことがある。



 めちゃくちゃ良い匂いがする。

 え!? 色んなところから楠の匂いするんだけど!?


 俺めちゃくちゃキモいこと考えてんな!?



 お、落ち着け。こんなこと考えるな。ちょっと推しの供給過多で過剰摂取オーバードーズしそう。薬が過ぎれば毒となるように、推しも過ぎれば毒と……なるのか? 推しの過剰摂取で死ねるのなら本望では?



 ……一回落ち着け。心を無にしろ。


 あ、無理。推しの匂いする。煩悩が溢れてきちゃう。




「……おち、つけ!」




 頬を両手で叩くと、バヂン! と思ったより良い音が出た。


 あー、痛い。でもやっと落ち着いてきた。


 しかし、思っていた以上に音が大きくて……たんたんと、床を踏みしめる音が近づいてきた。



「だ、大丈夫? なんかすごい音したけど?」

「……あー、悪い。ちょっと煩悩塗ぼんのうまみれな自分に喝を入れようと」

「ほっぺた真っ赤だよ? もう、どうしてそんな……」

「あれ、あの? 楠? ちょ、楠さん?」


 もう着替え終わったらしく、いつもの姿にエプロンを身にまとった楠が近づいてきて――エプロンを身にまとった楠!?



 え!? エプロン!? 楠のエプロン!?



 てか待って待って待って待って近い。無理。心臓無理。ガチ恋距離無理。恋しちゃう。もう(略)


「あんまり自分にそういうことしないの。……もうっ」


 頬に楠の手の甲が当たった。洗ったばかりなのか、少し冷たい。


 なぜ? え? ちょっと情報量多すぎない? なんでガチ恋距離に最推しが居てしかもほっぺたに手の甲を当てられてるの!?


 てか顔良すぎない? 優しすぎない?


 やめて! 手の甲でほっぺたすりすりしないで! もう大好きですが!? もっと好きになれと言ってる!?(言ってない)



「自分を大切にね。私との約束だよ?」

「ハイッ……」



 ちょっと可愛さゲージがオーバーフローしてる。なんだこの可愛い生物。人間とかそういう類を超越したようにしか思えない。


「……っとと、ごめんね。また距離感間違えちゃった」

「……し、心臓がいくつあっても足りないので、ちょっとだけその辺はお願いします」



 離れてくれた楠にホッとしつつ、ボルテージの上がった心臓を落ち着ける。多分今血圧測ったら血圧計が爆発して壊れると思う。


「じゃあもうちょっと待っててね。すぐあっためちゃうから」

「あっはい。分かりました」


 そして楠はキッチンへと戻った。すっごくエプロン姿が良かったです。公式チャンネルで料理動画とかやってなかったからな。


 ……というか。かなり今更だけど。



「……自分を大切に、か」


 そんなこと、初めて言われたな。……もうこの手段は使えない。



 ふうと息を吐き、目を瞑って精神を落ち着けて「よし」と自分で口にする。もう大丈夫だ。自分で言うのもなんだが、かなり冷静だと思う。


 ◆◆◆


「出来たよ、雪翔くん」

「天上人の楽園か? ここは」

「ただの私が作ったシチューだよ」

「最推しつアイドルお手製のシチューに『ただの』って言葉は世界一似合わないと思います」


 お金じゃ買えない価値である。え?



「本当に食べて良いの? 実は呼ぶ人間違えてたりしない?」

「どんな間違いなの、それ……雪翔くんに食べて貰うために作ったんだから」

「俺じゃなきゃ好きになってるが? 俺が楠のこと大好きで良かったな?」

「も、もう。今日はそういう時間じゃないんだから」

「悪い、つい愛が溢れ出て」


 スマホの画面見ながら普通に好きとか呟いちゃうからな俺。ちょっと俺もそういうのは良くないのかもしれない。



「う、嬉しいからいいけど……私以外の子にそういうこと言っちゃダメだよ?」

「楠以外に言えないけど……」

「……そう?」

「だって俺の最推しは楠だし。俺が一番可愛いって思うの楠だし」


【Sunlight hope】の箱推しではあるが、俺の最推しは【楠七海】である。それは生涯変わらない。多分来世でも推してると思う。



「……ふーん、そっか」


 気にしない風を装っているが……いや装えてないな。すっごい顔真っ赤だし。口元もにょもにょしてるし。


 照れてる楠の破壊力ほんとにやばいな。可愛い。


「あ、あんまり見ないで。冷めちゃうから早く食べてよ」

「全力でいただきます」

「いただきますに全力って付ける人初めて見た……」


 慎重に、一滴も一粒も零さないようシチューをすくって口に運ぶ。


「――ッ」

「だ、大丈夫? 熱かった?」

「……美味しい、です」


 俺に食レポとかは期待しないで欲しい。ただ、これは……凄い。



「めちゃくちゃ、美味しい」

「よかっ……え? 雪翔くん泣いてる? 大丈夫?」

「だ、だいじょうぶだいじょぶ。推しの手作りシチュー……という色眼鏡を抜きにしてもめちゃくちゃ美味しかっただけだから」

「そ、そう? ほんとに大丈夫?」


 うんうんと頷きながらシチューを食べる。すっごい美味しい。本当に。


 本当に、美味しい。ちょっとびびったぞ。



「ありがとう、楠。本当に美味しいよ」

「……良かった。おかわりもあるからいっぱい食べてね」


 楠は隣でニコリと笑い、シチューを食べ始める。



 その時間はとても幸せで――暖かいひとときとなったのだった。

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