第5話 百倍の声援を君へ

 お昼休み、美術の先生に課題を提出しに行って……ふと違和感を覚えた。窓が閉まっていたのに風が吹いていたのだ。


 風が吹いてきた場所を探してみると……屋上へと続く階段。そこから風が吹いていた。


 踊り場の窓は開いてない。どうしたんだろうと向かってみると……屋上への扉がわずかに開いていた。



 同時に背筋がゾクッとした。


 万が一、自殺者とかが居たら……無視は出来ない。



 重い扉を勢いよく開けたのだが――屋上は頑丈なフェンスで囲まれていて、そういう事は出来なさそうだった。その事実にホッとする。



 しかし、人は居た。


 隅っこでスマホを手にして――泣いている楠が居たのだ。


「……く、楠?」

「……雪翔、くん? なんで……」


 名前を呼ぶとやっと俺の存在に気づいたのか、彼女が顔を上げた。



「立ち入り禁止の屋上から風が吹いてきて気になったんだ。楠こそ……」


 ……これ、聞いて良いやつなのだろうか。多分ダメな気がする。



 そんな思いは、チラリと目に入ったスマホの画面を見て消え去った。



『死ね』

『消えろ』

『売女』


「どうした、それ」

「え? ……あっ! こ、これは、その。あはは。なん、だろうね。……なんなんだろう、ね」


 すぐに笑顔を取り繕おうとしたものの、それはいびつなもので。言葉が終わるにつれ、取り繕う事も出来なくなっていた。



「……アンチか」

「……前から、なんだ。お仕事用のメールアドレスを特定されて、こういうの送られるの。う、ううん! 大丈夫、これくらいなんともないから!」


 そう言いながらも、綺麗な瞳から流れ出す涙は止まらない。


「これくらい、へっちゃらへっちゃら。全然、気にしてないから。うん、大丈夫。……大丈夫」


 大丈夫という言葉も俺ではなく、自分に言い聞かせているように見えた。



「楠……」

「す、すぐ戻るから。うん、大丈夫だからね。気にしないで」


 ……こういう時でもファンを心配させないようにする。


 凄いアイドル魂、と言いたい所なんだが。




「話を聞いてくれ、楠七海」




 ビクンっとその肩が跳ねた。



「一つだけ聞きたいんだが。休止の原因はそれか?」

「ッ――」


 楠は一瞬頷こうとしたものの、動きを止めた。



「原因の一つ……だったりするのか? こっち座るぞ」


 少し離れた隣に座ると、彼女は頷いた。それを見つつ、俺は胸ポケットからハンカチを取り出した。



「これ、まだ使ってないやつだから使ってくれ」

「……あり、がと」

「……渡しておいてなんだが、男のポケットから取り出したのが受け付けないとかあったら使わないで良いからな」

「う、ううん! そんなこと、ない」


 それなら良いか。……気を使って言ってるかもしれないが、考えたらキリがないので置いておく。


 ハンカチを使う楠を見ながら、少し待つ。

 十分ほどすると少しは落ち着いたようで、涙が頬を伝わなくなった。



 そして、ぽつりぽつりと彼女は呟き始めた。



「……前、特定された時からね。悪口が目に入るようになったんだ」

「……悪口?」

「うん。町を歩いている時。ライブの反応を調べる時。曲の感想を見ている時。応援の言葉より、悪口が目に入るようになった」


 その言葉は小さくも、俺が彼女の言葉を聞き漏らすことはない。あるはずがない。



「何をするにも悪口が見えて……つらく、なっちゃって。嫌がらせも気になるようになっちゃって。マネさんから休むよう言われたんだ」

「……」

「ごめんね。こんな話、君に聞かせちゃって。……本当に、ごめんね。私まだ、戻れそうにないや」


 またその目から涙が伝い始めた。



 ……ここまで追い詰められていたとは。


 一度、大きく息を吐いた。



 俺、馬鹿すぎるな。



「……俺の言葉も負担になってたやつだな、これ」


 なんだかんだ言って、一番推しに負担を掛けてたのは俺だった訳だ。言葉だけでなく……存在が。


 こんな大ファンが近くに居たらおちおち気も休まらないだろう。そういう意味も込めて言ったのだが――



「そ、そんなことないよ!」



 かなり大きな声に否定された。

 びっくりしてそちらを見ると、楠がこちらに近づいてくる。



「ゆ、雪翔くんが、好きって言ってくれるから。嬉しかったんだよ、ほんとだよ」

「く、楠?」

「雪翔くんが褒めてくれると、心がぽかぽかして、嬉しくなって……生の声ってこんなに嬉しいんだなって思った。思ったから、そんなこと、言わないで。雪翔くん」


 ちょ、近い。近いんですが、すっごく良い匂いするんですが。



「ほんとに、ほんとーに! 嬉しかったんだから!」



 気がつくとそのご尊顔がすぐ目の前にあって。俺は口をつぐんだ。



 ……。


「嬉しく思ってくれてたのか?」

「う、うん! ほんとだよ。本当に、嬉しかったから。また頑張りたいって思ったんだよ」

「そう、か」



 ふと頭の中に一つ、馬鹿げた考えが浮かんだ。理性がその提案を否定するも、中々消えてくれない。



「俺の応援は、力になっている、のか?」

「なってるよ。……最近は特に。嘘じゃないよ」



 一つ、大きな息を吐いた。



 ふと、頭の中に一つの文章が浮き上がってきた。


「……ワイン樽の中に少量の泥が混じり込んだら、それはもうワインとは呼べない。ってこの前何かで見た」

「……?」

「だけど、思ったんだ。それが樽じゃなくてプールにだったら……? 海に少量の泥が混じり込んだところで、海水浴をする人は減らないし。そこで生きる魚を俺達は食べるんだろうなって」



 まあ、厳密には少し意味が異なるのかもしれないが。何が言いたいのかというと――



「楠のそれも、似たようなものだと思う。応援の中に混じった罵声が気になるんだろ?」



 最後に確認を取ると、楠が小さく頷いた。



「俺達ファンが推しに出来る事は少ない。……応援くらいしか」


 だけど、それは応援なら出来るという意味でもある。



ファンの応援が嬉しいって楠七海最推しが言ってくれるんだったら、俺は喉が張り裂けるまで応援したいって思う」

「は、張り裂けるのはダメだよ?」

「じゃあ張り裂ける覚悟で、ギリ喉が耐えるくらいで」



 楠の綺麗な顔をまっすぐに見返す。



「俺は自分でもどうしようもないくらい、楠七海が好きだ」

「……!」


 目がまんまるになった。


「うん。女神も羨む可愛さだな」

「こ、声に出てるよ」

「え? わざとだけど? 好きだが?」

「すっ、好きとか、そういうのが」

「だって好きなんだからしょうがない」



 改めて表情を正す。楠の目を見る。



 そして、宣言する。



「俺はアンチの百倍大きい声で楠七海に『好きだ』って言い続ける」

「……え?」

「アンチが一切目に入らなくなるまで。応援――というと少し気が重いかもしれないから。好きだって何度でも、毎日伝える。嫌な声が気にならなくなるまでずっと」



 少量の泥が霞んで見えなくなるくらいにワインを削ぎ込む。

 そう言ったらちょっとアレかもしれないが、要は力技である。



「な、なんで……? そこまでしてくれるの?」

「俺は推しが生きてくれたら嬉しい。推しが喜んでくれたら嬉しい。反対に、推し……好きな人が悲しむ顔は見たくない。それだけだよ」



 別に見返りも求めていない。ただ『好きだ』って伝えるだけ。



「俺が『好きだ』って言って楠が喜んでくれるなら、俺は何回でも言う」


 何千、何万、何億回でも言おう。喜んでくれるのなら。



「楠七海が心ない言葉に傷つく度に、俺はその百倍の量『好きだ』って言う。好きで埋め尽くす」

「……雪翔、くん」

「いやまあ、めんどいとか嫌だって思われたら」

「――思わない」



 言葉を遮られる。じっと可愛い目に見つめられて、手を握られる。



 ……手を握られる!? 俺握手券持ってないが!?



「雪翔くんの応援は、凄く嬉しいよ。心の支えになってる」

「女神……。じゃあめちゃくちゃ応援する。楠にうざがられるくらいな」

「……ありがとう、雪翔くん」

「俺が勝手に推してるだけだよ。ファンだからな」


 手柔らかぁ。いつまで握ってるんだろう。CD十枚くらい買えば良いかな。



「じゃあ……応援、お願いします」

「ああ! 大好きだ! 楠!」

「ちょっ、っと飛ばしすぎかなそれは」



 顔を真っ赤にする楠。……めちゃくちゃ可愛いな。


「ま、また心の声漏れててるよ……」

「実際可愛いし大好きなんだから仕方ない」

「う、うぅ……嬉しい、けど、ちょっと恥ずかしい」


 顔を赤くする楠。だけど、その顔に嫌そうなものは入ってなくて安心した。




 そうしてその日から俺が楠に「好きだ」と毎日伝える……少し奇妙な秘密の関係が始まったのだった。

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