第17話 朝


 それはまるで、夢の中にいるみたいな経験だった。


 康太とも何度もこういう行為をしてきたけれど、ヒロキさんと共有したそれとは、まるでキャベツとレタスのように、似ているようでまったく異なるものだった。


 こんなふうに、全身のいたるところまで優しく触れられたことはない。ヒロキさんの大胆だけど慎重な手つきが、熱い舌の感触が、体の隅々に残っていてしばらく消えそうになかった。

 こんなふうに、壊れ物みたいに大切に、宝物のように扱われたのは、初めてで――……。


 油断すると、涙がこぼれてきそうだ。

 性行為が、こんなに気持ちよくて、そしてこんなに感動するものだってこと、私はまったく知らなかった。



 しばらく全身を包み込むような感動に震えていると、ヒロキさんがふーっと満足そうに息を吐いて、ふいに私の上に身を預けてきた。


「お、重いですっ…!」

「アハハ、ちょっと我慢してや……腰が砕けて動けへん」


 甘えた声を出されて、思わず笑ってしまう。


「もう、何言ってるんですか」

「めちゃくちゃ気持ちよかったってこと」


 ヒロキさんがちょっと身を起こして、優しい目で私を見下ろす。そして、そっと口づけた。

 乱れた髪を、優しい手つきで撫でられる。私はとても満ち足りた気分で――…でも、すぐにゆっくりと後悔が広がり、やがて絶望的な気持ちへと変わっていった。


 ――好きになってしまった……エミリちゃんの彼氏を。最低な復讐に、彼を巻き込んでしまった。


 彼女がいても誘惑に負けるような男なんだと言い聞かせようとするけど、私の心をうずまくのは「彼が好き」という思いと、そしてたまらない罪悪感。行き場のない感情が胸を締め付けて、ボロボロと涙があふれてきた。


 こんなこと、しなければよかった。

 三葉商事の前で待ち伏せたり、彼のあとを追ったり、飲みに行ったり、しなければよかった。

 私のこの苦しみは、自業自得だ。


「え、ど、どうしたん?」


 私が泣いていることに気づいたヒロキさんが、大慌てで体勢を変えて、腕枕するように横から抱きしめてくれる。


「ご、ごめんな、重かった…? どこか痛い?」


 心配そうな声に、ますます胸が苦しくなる。

 必死で首を振って彼のせいではないことを伝えようとしたそのとき、突然ホテルの時計のアラームが鳴りだした。


 彼は心底悲しげに体を起こしてアラームを止め、私の額にキスを落とす。


「もっと一緒におりたいけど、そろそろ新幹線の時間や……」

「え?」


 思わず聞き返すと、ヒロキさんはものすごく申し訳なさそうな顔で、「実は言ってなかったんやけど…」と切り出した。


「俺、大阪から出張で来とるから、今日の朝どーしても帰らなあかんねん。それでな……いきなり遠距離になってまうけど、俺……」


「ちょちょ、ちょっと待って!」


 私は彼の言葉をうまく処理できずに、話を止める。


 ――大阪から来てる? じゃあ、このビジネスホテルはこの出張のために宿泊していた場所で、家は大阪にあるということ?

 ……そんなこと、エミリちゃんは言っていただろうか……。


 ヒロキさんは不思議そうな顔で、思考停止状態の私を見つめている。いつの間に日が昇ったのか、カーテンの隙間からのぞく朝日を受けて、彼の茶色い瞳がキラキラ輝いている。


 ――まさか、もしかして……


「あの……ヒロキさん、あらためて、お名前を聞いてもいいでしょうか…?」

「へっ? ああ、そうやな、名刺渡しとこか」


 ヒロキさんは床に転がったカバンの中から名刺入れを取り出し、一枚差し出してきた。私はそこに印字された名前をまじまじと見つめる。


「改めましてやけど、広木泰典です。……完全に順番間違っとるな、俺ら」

「――ひ、ヒロキって、名前じゃないの!?」

「え、え、もしかして、サクラって名前なん!? 苗字かと思っとった」


 お互いにベッドの上でびっくりして顔を見合わせ、私も慌てて名刺を渡す。


「松本サクラです……」


「わぁ、ホンマや。なんや、東京の人って初対面で下の名前を名乗るんやな。いや、俺の感覚がおかしいんか……?」


 しきりに首をかしげる広木さんを見ていると、少しずつ、少しずつ、心の雲が晴れていく。


 出会ったときから、過ごす時間が増えるたびに重なっていった違和感。

 道端で転んだ私を抱き起してくれた優しい手、きっぱりと「彼女はおらん」と言った瞳、私に誘われて心底困っていた顔――どこまでも真摯で誠実な態度がグルグルとよみがえってくる。

 もしかしたら、もしかしたら……。



 そのとき、けたたましく携帯電話が鳴りだした。画面に表示された名前は「広木泰典」。あっ!と広木さんは小さく叫び、「ごめん、ちょっと出るな」と断ってからスマホを手に取った。


「もしもしぃ~?」

『広木ぃー! てめぇ~!!』


 通話相手のものすごい怒鳴り声が、スマホの向こうから私の耳まで響いてきた。


「あー小笠原、おまえ俺のスマホ間違えて持ってったやろ? 同じ機種やからって、気ぃつけや~」

『間違えたのはおまえだろ!!!』


 広木さんは笑いながら謝ったり、相手をからかったり、楽しそうに通話している。


 私はゆっくりと、理解しはじめていた。広木さんが、「ヒロキ」じゃないこと。どうやら、スマホを取り違えて持っていたこと。


「わかったわかった、ほな東京駅でな」


 駅で携帯を受け渡す段取りをつけたようで、広木さんは通話を終え、私を振り返った。


「ごめんな、うるさくして」


「いえ……あの、もしかして携帯…」


「会社の同僚と、お互い携帯間違えて持ち帰ってもうてん。持ち主の小笠原弘樹って奴からやったわ」


「……小笠原ヒロキさん」


 今度こそ間違いない。その人が、エミリちゃんの彼氏さんだ。

 会話の内容を反芻しているのか、広木さんはおかしそうに肩を揺すって笑う。


「同期のヤツやねんけどな、一晩携帯つかえんで、婚約者からめっちゃ疑われて家まで押しかけられたってキレられたわ」


「婚約者……?」


 それって、エミリちゃんのことだろうか。違和感を覚えて首をかしげると、広木さんが床に散らばった服を集めながら続ける。


「そいつ、去年取引先の社長令嬢と婚約したらしくて、さっそく尻にひかれとるねん」


 …――なんだ。


 私は、拍子抜けした気分でゆっくり息を吐く。――もう、じゅうぶんエミリちゃんには罰が当たっていたんだ。私が何かするまでもなかった。



 私はさっきまでとは違う涙が流れそうになるのを必死でこらえながら、シャツとズボンを身に着けて、ネクタイをしめていく彼の姿を見つめる。

 日に焼けた横顔を、がっしりと広い肩幅を、筋張った手を、優しい茶色い瞳を……おそらくもう会うことはないだろうその愛しい姿を、目に焼き付ける。


 よかった。本当によかった。

 今日、この人と会えて本当によかった。


 動機はひどいものだったけど、彼を見つけて、思い切って追いかけた自分をほめてやりたいと心底思った。

 広木さんが救ってくれて、私はこれで、きっと立ち直れる。――それ以上を望むのは、贅沢というものだ。



 広木さんは私の視線に気づかないのか、私の分の服も拾ってソファの上に置いてくれて、「コーヒー飲む~?」とコーヒーマシンのスイッチを入れている。


「すごいよな、仕事関係で結婚決めるて……。あいつ出世するやろうなぁ」

「すごいですね」


 色々な思いが溢れてぼんやりした頭で生返事を返すと、広木さんはふいに私を振り返った。彼の目がキラリと光って、私をまっすぐとらえる。


「俺はたぶん、もうちょいロマンチストやわ」

「え?」


 彼は恥ずかしそうに頭をかきながら、ベッドに横たわる私のほうへ大股で近づいてくる。


「だから、まぁ、すごいスピードで事が進んだけど、これも運命ってやつやと俺は思うねん」


 ……こらえていた涙が、ポロリと頬を流れ落ちた。


「あと半年くらいしたら大阪支社から本社に戻ってくる予定やし、それまで遠距離でもよければ、俺と付き合って。……俺、たぶんソコソコ優良物件やで」


 ああ、今日はなんて一日だろう。

 胸がいっぱいで、とても言葉が出てこない。私は返事の代わりに裸のまま彼に思いっきり抱きついた。


 ――いつか、彼と、今日のことを笑いながら思い出すんだろう。


 しっかりと抱きしめ返してくれる腕の強さを感じながら、思いっきり彼のにおいを吸い込んで、そう思った。


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