第9話 裏切り


 その後私は、なんとか心を落ち着けて午後の業務に戻った。


 もちろん、つらい。

 康太の言っていた「好きな子」が、同じ社内の、しかも直属の後輩であるエミリちゃんだったという思いがけない事実は、あまりにショックだった。そのうえ、エミリちゃんにはほかに本命の彼氏がいて、康太のことは保険扱いだという。


 ――そんな不誠実な相手に、恋人の心を奪われてしまった。そんな自分が、一番情けない。


 淡々とお客様の対応をこなしながら、私はささくれ立っていた自分の気持ちを少しずつなだめていく。


 心変わりというものは、仕方ないことだと思う。私がどんなに努力したところで、ほかの人に惹かれてしまう心は止められないし、責めることもできない。だから、受け入れるしかない、と理屈では納得している。――心は痛むけれど。


 エミリちゃんが二股をかけていることは、正直ひどいと思うけど……でも、それを見抜けない康太にも責任があるはずだ。


 だいたい、私みたいな地味で可愛げもない、おとなしくて消極的なアラサー女が、エミリちゃんみたいな若くて可愛い、愛嬌もあって明るい女の子に勝てるわけがない。


 何も聞かなかったことにして、あきらめよう。もう、すべてを忘れよう。


 ――そうだ、帰りに美味しいラーメンでも食べて帰ろう。そして、家に帰ったら冴子ちゃんとお酒を飲んで、リビングのソファで海外ドラマを見ながら眠ろう。

そう思うと、少しだけ気持ちが楽になった。



 だけど、この人生最大の“厄日”は、それだけでは終わらなかったのだ。



=====



 終業時間になり、ロッカーで制服を着替えていると、後ろから肩をたたかれた。驚いて振り返ると、エミリちゃんが天使のような笑顔を浮かべて立っていた。


「あのぉ、サクラ先輩、今日大丈夫でしたか…?」

「えーと……」


 答えに窮していると、エミリちゃんの背後で彼女と仲の良いグループの子たちが笑いをかみ殺しているのが見える。


「差し出がましいと思ったんですけど……サクラ先輩、すごい落ち込んでましたよね? もしかして、彼氏さんと何かあったのかなーとか……」


 カァッと頬が赤くなった。エミリちゃんが心配そうに、長いまつげで縁どられたキラキラした目でのぞき込んでくる。


「あたしでよければ、話聞きますよぉ? このあと、飲みにいきませんか?」


 ひどい。ひどい。あんまりだ。

 怒りのあまり、手が細かく震えてくる。この子は、私の恋人を奪っただけでなく、私を傷つけて、笑いものにしようとしている。


 私は必死で、声を絞り出した。


「あ…ありがとう……。でも、今日は、用事があるから…」

「ええー残念……。てか、本当に大丈夫ですかぁ?」


 ピンク色に彩られた、彼女の唇が意地悪そうな笑みを浮かべる。


「ひとりで抱え込まないで、なんでも話してくださいね! 頼りにならない後輩ですけど」


 こらえきれない、というように彼女のグループの女子たちがロッカールームを飛び出し、エミリちゃんもその後を追って部屋を出て行った。廊下から、彼女たちの大きな笑い声が響いてくる。


 誰もいなくなったロッカールームで、私はただ屈辱に唇をかみしめていた。


 ――こんなことされるほど、私は何か悪いことをした?


 彼女には、親切にしてきたつもりだ。

 残業をかわってあげたことも、ミスをフォローしてあげたことも、数えきれないくらいある。彼女が髪を切れば「かわいいね」と声をかけたし、洗い場に彼女の汚れたマグカップが置きっぱなしにされていたら、ついでに洗ってあげていた。可愛い後輩だと思っていた。


 ――こんな仕打ちを、される覚えはない。



 その後、どうやって帰宅したのか、ほとんど記憶がない。


 ほぼ無意識のうちにドアを開けて玄関に入ると、急に体から力が抜ける気がして――私は、自然とあふれてくる涙をこらえきれなかった。


 ただいまも言わずにボロボロ涙を流す私に気づいて、共用リビングのソファに座ってテレビを見ていた冴子ちゃんと桃花が、驚いた顔をして駆け寄ってくる。


「どうしたの?」

「大丈夫!?」


 二人の、心から私を心配してくれている顔を見たら、さらに胸が押しつぶされそうになって、私はとうとう声を上げて泣いてしまった。


「ううっ……ううー……」


 言葉が出ずに泣きじゃくり、その場にへたり込む私の肩を、冴子ちゃんが優しく撫でてくれる。


「サクラ、大丈夫だよ……。気が済むまで泣こう」


 冴子ちゃんの低く優しい声が、ズキズキと痛む胸に染みる。桃花も、テレビのスイッチを切ってそっと背中に手を添えてくれている。二人の手が、温かい。


 私は鼻をすすり号泣しながら、今日あった出来事をすべて二人に話していた。


 後輩のエミリちゃんが、康太を誘惑していたこと。

 康太がその誘惑に負けて、エミリちゃんに心変わりしたこと。

 エミリちゃんには本命の彼氏がいて、康太は保険扱いされていること。

 ――そして、エミリちゃんにバカにされたこと。


 途切れ途切れになりながらもなんとか紡いだ私の言葉を、二人は真剣な表情で聞いてくれた。そして、私以上に激怒してくれた。


「はぁああ!?」

「なんだそれ、ふざけんな!!」


 冴子ちゃんは怒りのあまり唇を震わせ、桃花は「信じられない」「ふざけんな」を連呼している。私はティッシュで鼻をかみ、涙をぬぐって、少しずつ心が落ち着いてくるのを感じた。

 ――こんなとき、独身荘に住んでいて本当に良かった、と思う。こんな夜に独りだったら、きっと耐えられない。


「康太さんもひどいけど、その後輩、最低最悪な女……!」


 額に青筋を立てた冴子ちゃんが吐き捨てるように言い、桃花がそれに同調して声を荒げる。


「マジでありえない。そいつをココに呼び出して、土下座でもさせようか?」


 真剣な桃花の表情を見て、私はあわてて首を振った。


「ち、ちがうの! 何かやり返したいわけじゃなくて……ただ、どうしても悲しくて辛くてやりきれなかったから、話を聞いてほしかっただけ」


「サクラがよくてもこっちは収まんないわよ……人生つぶしてやる」


 冴子ちゃんがとんでもなく物騒なことを言ってギラリと目を光らせる。――なんて頼もしい友人たちなのだろう。

 私はだいぶ心が軽くなるのを感じて、二人に微笑みかけた。


「本当にいいの。――ありがとう。二人が私の分まで怒ってくれたおかげで、すごく楽になった」


 冴子ちゃんと桃花は顔を見合わせて、それから優しい目つきで何度もうなずいてくれた。


「まったく――サクラみたいな良い子をふって性悪女の色仕掛けにひっかかるなんて、康太さんも救いようがないね」

「ほんとほんと。結果的に、そんな男とは別れてよかったって思う日がくるよ、きっと」

「とりあえず康太さんには、薄毛になる呪いをかけておこう」

「女のほうには、その分ムダ毛が濃くなる呪いだっ…!」


 二人がわざと明るい声を出して、私を笑わせにかかる。思わずクスクスと笑いを漏らすと、桃花は満足そうな笑顔で腕を組んだ。


「よし、サクラ! そんなクソどものことはさっさと忘れて、次いこう、次!」

「次って、そんな急には……」

「恋の傷は恋でしか癒せないって、誰か言ってたはず! なんか昔の文豪とかそんな感じの人が!」

「まったく説得力がないわね」


 冴子ちゃんが鋭い声で突っ込み、桃花が「あんたは黙ってて」と横目でにらむ。そして、にっこり微笑んで私の手を握りしめた。


「私と一緒に、婚活しよ!」


 言葉に詰まって何度か瞬きする私に、桃花はさらにぐいっと顔を近づけてくる。


「まずは合コンだ、合コン! えーと、この前アプリで会った外資系コンサルに聞いてみるか……」

「待て待て」


 ここで冴子ちゃんが割って入ってくる。


「あんたね、アプリで会った変な男に頼むのやめてよ。サクラはそういうのに免疫ないんだから」

「保守的だねー、冴子パイセン。今時みーんなネットで出会い探してるし、アプリ婚なんて普通だよ」

「――まあ、今回はちょっと合コンの当てがあるから、いったん私に預けてくれない?」


 気まずそうに冴子ちゃんが言い、私と桃花は思わず顔を見合わせてしまう。

 ――あの、恋愛に対して超絶クールで、合コンを毛嫌いしていそうな冴子ちゃんが、自ら幹事を買ってでるなんて。


「まじでぇ~!? 冴子が、男集めてくれんの!?」

「――だいぶ性格に難ありだけど、身元は確かな弁護士よ。親友の旦那の友達なの」


 言い出しっぺの冴子ちゃんはなぜか苦虫をかみつぶしたような顔をしているが、桃花はがぜんテンションが上がったようだ。「やったー!」と歓喜の声を上げて、私の肩を抱く。


「弁護士とか、超ハイスぺじゃん! サクラ、やったね! 弁護士の彼氏ゲットしよ!」

「スペックだけは良いけど……あんまり期待しないでよ。独身こじらせすぎて、人格破綻してるからね」

「冴子には言われたくないでしょうよ」

「どういう意味よ!?」


 「ほんとに性格悪いからね」と何度も念を押しつつ、冴子ちゃんはあっという間に弁護士さんとの合コンをととのえてくれた。


 せっかく尽力してくれた冴子ちゃんと桃花には申し訳ないけれど、正直、そんなすぐに彼氏を作ろうとか、新しい恋をしようという気持ちにはなれない。

 だけど、ちょっとでも気を紛らわすことができれば――何より、二人の心遣いがうれしくて、私は合コンに参加することにしたのだった。

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