第10話 寝取られたら、寝取り返せ
独身荘の仲間である冴子ちゃんと桃花のおかげで、少しは気が晴れたとは言え、やはりその後も会社へ行くのが億劫な日々が続いた。
康太とは意識しなければそんなに顔を合わせることもないのだけど、同じ部署にいるエミリちゃんとは、接触しないわけにいかない。
エミリちゃんは、何事もなかったかのような顔で、いつも通り私に質問してくる。
「サクラ先輩! 私、今度簿記2級受けるんですけど、テキストってまだ保管してます~?」
鼻にかかるような、甘えた声。きれいにマスカラを塗られたまつ毛と、ピンク色の唇。私は全身が震えだしそうになるのを必死で抑えて、笑顔を作った。
「家に2級の教材と問題集あるよ。よかったら貸そうか?」
「いいんですかぁ!? 助かります~!」
目を輝かせたエミリちゃんが、無邪気そうな笑顔で弾んだ声を上げる。私はなんとか笑みを返す。
正直に言うと、エミリちゃんの顔を見るだけで、涙がにじんで動悸がしてしまう。――こんな弱い自分が、大嫌い。
「それじゃ、明日一式持ってくるね」
「お願いします! ……あーでもよかった」
「何が?」
意味ありげに胸をなでおろして見せるエミリちゃんに思わず聞き返すと、彼女は形の良い口元ににっこりと微笑を浮かべた。
「最近サクラ先輩、落ち込んでたから。みんな気にしてたんですよぉ」
――エミリちゃんの残酷な言葉が、私の胸を切り裂いていく。とどめを刺すように、エミリちゃんはポンと私の肩をたたいた。
「ご機嫌なおったみたいで、よかったです。私たち会社の顔の、窓口業務担当ですもん。やっぱり仕事は笑顔でやらなきゃですよね!」
その後の仕事では、ミスを連発してしまった。
――もう嫌だ。ここにいたくない。家に帰りたい。
何度もそう泣き叫びそうになって、なんとか涙をのみこんだ。こんな日が、いつまで続くのだろう。
私は唇をかみしめて、なんとか業務をこなすしかなかった。
=====
その日は、仕事帰りに桃花と待ち合わせて、一緒に買い物に行く約束をしていた。「合コンに着ていく勝負服、買いにいこ!」と桃花が誘ってくれたのだ。
どうにか時間をやり過ごして一日の仕事を終えると、私は待ち合わせ場所である駅前のデパートへと向かった。
1階の化粧品売り場には、色とりどりのコスメが並んでいて、香水の甘い香りが立ち込めている。
ピンク色のリップ。ラメが輝くアイシャドウ。淡いベージュ色のマニキュア。
そのどれもがエミリちゃんを想起させて、私はついうつむいてしまう。
そのとき、デパートの手押しドアを開けて、秋らしいトレンチコート姿の桃花が入ってきた。抜けるような色白で、栗色の髪をきれいに巻いた桃花は、女の私から見ても女の子らしくてとても可愛いと思う。
桃花は私の姿に気づくなり、パッと笑顔になって駆け寄ってくる。
「ごめんねーサクラ! 待った?」
「ううん、私も今着いたところだよ。お疲れさま」
明るい桃花の表情を見ると、ほっと心が温まる気がした。桃花は私の腕に手を絡ませて、「さぁ、買うぞー!」とエスレーターのほうへ歩きだす。
「今日は全身コーデしてあげるからねっ」
「私に、桃花みたいなカワイイ系の服が似合うかなぁ…」
思わずそうつぶやくと、桃花が「コラッ」とふざけて私の頬を指で突いてくる。
「ネガティブ発言禁止! 合コンに必要なのは、“戦闘服”だからね。軍服が似合うかどうか気にする兵士なんている?」
「……いない、かな」
「でしょっ!?」
32歳の桃花は、有名な文具メーカーで営業事務の仕事をしている。地味な私とは違って、いかにもOLさんという感じの、華やかなファッションが得意だ。
普段ベージュや紺などのオーソドックスな色味の服しか着ない私に、桃花はあれこれとお店を回って、明るいパステルカラーのワンピースやスカートをコーディネイトしてくれる。
「明るい色の服を着ると、顔色も明るく見えて、声も元気いっぱいになってきて、心も前向きになれる気がしない?」
レモンイエローのワンピースを試着して、鏡に映った少し恥ずかしそうな私に向かって、桃花がにっこりと微笑む。
――確かに、顔色がずいぶんよくなって、いつもより瞳も輝いているような気がする。心まで晴れてくるようだ。
「――このワンピース、買おうかな」
この服が自分に似合っている自信はなかったけど、勇気を出してそう言ったら、桃花は満面の笑みでうなずいてくれた。
「この服、すっごく似合ってるし、サクラの可愛さを引き出してくれてるよ! これで合コン無双しよ!」
桃花の言葉に背中を押してもらって、私はその膝丈ワンピースと、それに合う白いカーディガンを購入したのだった。
その後、桃花も同じ店でピンク色のツイードのスカートを購入し、私たちは戦利品を抱えてデパートの近くのカフェで一休みすることにした。
桃花はキャラメルラテを片手に、スマホの画面を私の目の前に掲げる。
「じゃじゃーん! 合コンのお店、めちゃくちゃ素敵なレストランじゃない? さすが弁護士さん」
画面の中には、いかにも高級そうなレストランのホームページが映っていた。私は何度も瞬きしながら、そのキラキラとした画像を見つめる。
「客単価1万5千円だって! ワインたくさん飲んじゃおーっと」
「すごいねぇ……。私、こんなお店行ったことないよ」
康太とのデートは、気軽な居酒屋やチェーン店が多かった。
付き合い始めたころは、康太がいろいろとお店を調べて、予約してくれていた気がする。だけど、時がたつにつれて、お互いそこまで外食にこだわりがないことがわかり、デートで高いお店に行くことはなくなった。
そして、さらに付き合いが長くなると、康太の家で私が料理を作って食べることが多くなった。友人たちから「所帯じみた付き合い」だと笑われることもあったけど――だけど、私にとってはそれが一番幸せだったのに。
『サクラの作るメシが一番うまいよ』
そう言って、いつも嬉しそうに私の作った地味な料理を食べてくれていた康太の顔が思い浮かぶ。
――そんなつもりはなかったのに、勝手に涙がにじんできた。
「サクラ……大丈夫?」
桃花が、心配そうな目で私の顔を覗き込んでくる。私はあわてて涙をぬぐい、笑顔を作ってみせた。
「大丈夫! こんなお店に行くなんて、緊張しちゃうなぁ」
必死で明るい声を出したけれど、桃花は顔をしかめたままだ。そしてひとつため息をつくと、カバンから一枚のメモ用紙を取り出した。そこには、何やら番号が書かれている。
――なんだろう、これ。事情をのみこめずに首をかしげる私に、桃花は静かな口調で語りかけてきた。
「実は……余計なお世話かもしれないけど、私の大学の同期に三葉商事のやつがいて、ちょっと探りを入れたんだ」
――三葉商事?
一瞬頭の中にはてなマークがたくさん浮かんできたけれど、すぐに思い出した。三葉商事――…エミリちゃんの彼氏の、“ヒロキさん”の会社だ。
私は身じろぎもせず、低い声で言葉を続ける桃花の、薄茶色の瞳を見つめ返す。
「そいつね、サクラの銀行の女子たちと最近合コンしたんだって。――その中に、エミリって子もいたらしくて。それで、その合コンに同じ部署の後輩のヒロキって子を、確かに連れて行ったらしいのよ」
オレンジ色のマニキュアで彩られた桃花の形のよい爪先が、メモ帳を私のほうへと押し出してくる。
「これ……その、ヒロキくんの電話番号。同期から無理やり聞き出した」
私はまだ事態を飲み込めず、黙ったままそのメモ用紙を受け取った。11桁の数字が、スズランのイラストが描かれたかわいらしい紙の中央に並んでいる。
桃花の目がキラリと光る。
「私はやっぱり、エミリって子のこと許せない」
桃花らしい、きっぱりとした意思の強い声。私は思わずメモ帳を握りしめる。桃花が、優しく私の肩に手を置いた。
「これを使うも使わないもサクラの自由だけどさ。――寝取られたなら、寝取り返そうよ」
桃花の力強い声が、何度も頭の中でリフレインする。エミリちゃんの勝ち誇った表情、康太の気まずそうな背中が思い浮かぶ。
――私は一体、どうしたいのだろう。
私はただ押し黙って、そのメモをコートのポケットに押し込んだのだった。
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