第8話 サクラ
◆SIDE:松本サクラ
厄日というのは、こういう日のことを言うんだろうか。
昨日、私は3年付き合った彼氏・康太に振られた。
同じ銀行の法人営業部で働く1つ年上の彼は、イケメンではないけれど優しくて真面目で、自慢の彼氏だった。お互い結婚を意識した付き合いだったし、時間をかけて愛をはぐくんできたつもりだった。……それなのに。
昨夜、3週間ぶりに会った康太は、どうも様子がおかしかった。
いつもはデートというと彼の家で私がご飯を作ることが多かったけれど、わざわざ外の店を待ち合わせに指定されたことも、今振り返ってみると不自然だったと思う。
そして、食事もそこそこに、彼が言いにくそうに口にしたのは、別れ話だった。
『ごめん。ほかに、好きな子ができた……。別れてほしい』
まったく予期せぬ康太の言葉に――驚いて、ショックで、言葉も出なかった。
泣いてすがりつけばよかったのかもしれない。理不尽だ、と怒りをぶつければもっとスッキリ割り切れたのかもしれない。
だけど、こんな時でも気弱な私は、ただ物わかり良く受け入れることしかできなかった。
『それは……仕方ないね。――今までありがとう』
長い沈黙のあと、震える声でそう返した私を前に、康太は心底ほっとした顔をしていた。
――その顔を見て、確信した。私たちは、もう終わったのだと。
その後は一晩、独身荘の皆に付き合ってもらって、泣き明かした。
私が住んでいる「あさひ荘」は独身の女性だけが入居できるアパートで、住人は年齢も職業もまちまちだけど、まるで長年の友人同士のようにとても仲が良い。
昨夜は子供のように泣きじゃくる私を、住人の皆が総出で慰めてくれて、優しく寄り添ってくれて……本当に助けられた。
――これだけなら、よくある失恋話だったかもしれない。
だけど、本当の“厄日”はその翌日にやってきたのだ。
=====
今朝、目がはれ上がったひどい顔で、職場である銀行の支店に出勤した私を見て、同僚たちは何となく事情を察しているのか、余計なことは聞かずそっとしておいてくれた。
康太との付き合いは、社内恋愛ということもあり内緒にはしていたけど、たぶん皆薄々気づいていただろう。
「――サクラ、今日お昼どうする?」
なんとか午前中の仕事をこなしたお昼休み。同じ窓口業務で、仲の良い同僚のひとりが声を遠慮がちにかけてくれた。いつもは同僚たちと連れ立って外にランチへ出かけるけれど、さすがに今日はそんな気分になれない。
「ごめんね、今日は食欲なくて……」
ぎこちなく笑顔を作ってそう答えると、同僚たちは優しく肩をたたいて、それ以上は聞かないでくれた。――私は本当に、周囲の人に恵まれていると思う。みんなの気遣いが有難くて、余計に涙がにじんでくる。
結局お昼休みの間中、私はひとりトイレの個室に閉じこもって、さめざめと泣いていた。
会社にいると、ホワイトボードに書かれた彼の名前が目に入ったり、つい癖で外回りの営業に出かけた彼のデスクを見つめてしまったり……どうしても康太のことを思い出してしまう。
結婚の話を具体的にはしなかったけど、お互いに意識していたと思う。
「郊外の一軒家に住みたいね」「子供は2人くらいほしいな」と将来の生活を語り合ったり、海外勤務が夢だった康太の英語の勉強に付き合いながら「いつかは私も駐在についていくのかな」と思い描いたり――そんな幸せだった場面ばかりが浮かんできて、どうしても涙が止まらない。
もうすぐ昼休みも終わってしまう。なんとか泣き止まなければ、とハンカチで目をぬぐったとき、にぎやかな声が聞こえてきた。
ランチ終わりの後輩女子たちが、化粧直しのためにトイレに入ってきたらしい。窓口業務の中でも、美人で派手なグループの女の子たちの声だ。
出るに出られなくなって、息をひそめてオロオロしていると、ひときわ派手な笑い声が上がった。
「えーマジで、エミリ強烈すぎない!?」
「鬼畜!」
「なになに? どうしたの?」
エミリちゃんは、確か私の4つ下の25歳で、後輩の中でも群を抜いて美人な女の子だ。鼻にかかった感じの特徴的なエミリちゃんの声が、楽しそうに響く。
「だからぁ、私には悪気なかったんだってば」
「なにが?」
「こいつ、最低だよ。人の男寝取ってんの」
「え、だれだれ?」
「法人営業部の康太先輩」
一瞬、ハンカチを取り落としそうになった。――どういうこと?
心臓が早鐘のように鳴り響き、エミリちゃんの声がやたらハッキリと耳に入ってくる。
「もー、名前出さないでよ」
「えっ、マジで? だって確か康太先輩って、サクラ先輩と…」
「もしかして、サクラ先輩が今日すごい泣きはらした顔だったのって…」
「もしかしたら、あたしのせいかもね」
エミリちゃんがアハハハと楽し気に笑う。
「先週、康太先輩にコクられたの。彼女と別れるから、付き合ってほしいって」
「うわー乗り換え! エグッ!」
「飲み会の帰り、ノリで一度ヤッただけなのに、本気になっちゃったみたい」
「さすがビッチだね、エミリ」
「康太先輩、悪い女に騙されて、彼女と別れちゃって、かわいそうに…」
「いや一番かわいそうなのサクラ先輩でしょ。後輩に寝取られてんじゃん!」
キャハハハと、一層高い笑い声が響く。私は頭が真っ白で、ただギュッとハンカチを握りしめることしかできない。
「えーじゃあ康太先輩と付き合うの?」
「一応保険に取っとくかな。先輩、海外赴任のうわさもあるみたいだし」
「マジか、それ本当だったら出世コースだね」
「でもエミリ、本命の彼氏いるよね? 三葉商事のヒロキくん」
――本命の、彼氏? どういうこと?
彼女たちの言葉に、理解が追い付かない。心臓が、ドッドッと早鐘のように鳴っている。
「あー、あの三葉商事との合コンに来てたイケメン? 付き合ったんだ、さすがエミリ」
「そうそう、本命はヒロキくんだよぉ。でもまだ付き合ったばっかで、結婚までいけるかわかんないし。保険はあるに越したことないじゃん?」
「何人保険作る気だよ~」
「あーマジでえぐい」
「やば、そろそろ戻ろ」
「ほんとだ、あと3分じゃん」
にぎやかな声が、遠ざかっていく。エミリちゃんの顔と、康太の顔が交互に浮かぶ。
沈黙だけが残ったトイレの個室の中で、私はもう涙も出なかった。
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