[Fe]M(E)nism

石塚洋也

[Fe]M(E)nism

 生しょうがの黄色いチューブが部屋の床に転がっていた。僕は無性に、そのチューブのさまに興奮した。性的興奮をしてしまった。小学四年生の夏。僕の精通は黄色い生しょうがのチューブによってもたらされた。母は、いつも通りの小ささに戻った男根を垂らしている僕の情けない姿を見て赤飯を炊いた。それから、僕は市役所や病院を連れまわされた。

 この国では、精通を迎えた男子は脳にチップを埋め込まれる。NFCを応用したICチップのようなものだ。当時の僕にはよくわからなかったけど、昔制定された「女性の心身を守るための条項」という法律の中に、精通を迎えた男子にチップを埋め込み、女性が着用しているスキャン用の眼鏡やコンタクトによって性犯罪危険度を可視化することが義務付けられたらしい。

 僕の脳にチップが埋め込まれ、過去の犯罪歴や、その日の射精回数が晒されるようになってから十年が経った。

 この国は、女性という性別によってゆがめられている。


「坂下、お茶淹れて第三会議室に持っていけ」

 コピーを取っていたら、上司である田口さんに声をかけられた。僕と田口さんの間には、約三メートル、通路の幅くらいの間が空いている。理由は、僕が男だから。

「わかりました。コピーが終わったら行ってきます」

 僕は今コピーしている資料を掲げて見せた。さっき田口さんに重要な書類だと言われた資料だ。

「そんなのは後でもできるだろ。早くいけ」

 少し大きな声で怒鳴られて委縮してしまった僕は、いそいそとコピーの手を止めて給湯室へ向かった。

 給湯室では、三人しかいない同性の同期のうちの一人、矢部が僕と同じことを指示されたのだろう、お盆いっぱいのお茶を用意していた。

 矢部は僕の顔を見ると、嬉しそうな笑顔を浮かべて、こちらにやってきた。

「坂下もお茶汲み頼まれたの?」

 くりくりとした大きな目をこちらに向けてくる。同期男子三人の中で一番美形の彼はよくこんな仕事を押し付けられている。けれど、今日は彼の様子がなんだか違っていた。そんなことを僕が感じているのを察してだろうか、矢部は少し暗い表情を浮かべた。

「やっぱり、わかるよね。実は今日さ、朝、射精してくるの忘れちゃってさ、化粧すらする時間なくて……結局遅刻しちゃったし、これはその罰。就業時間中はずっとお茶汲んで掃除してろだってさ。自分の分は残業でやらなきゃ……」

 労働基準法違反じゃないかと言いかけて、やめた。彼の上司は理不尽で有名な安倍部長だ。あの人に何を言っても無駄だし、矢部までもが、僕みたいな運命をたどる必要はない。

「そっか……じゃあ、朝も大変だったんじゃない?」

 射精をしていない、今日の射精回数がゼロと表示される男の大変さは、よく知っている。

「ほんとだよ。朝から二回も警察に止められてさ。電車では痴女にあうし、安倍さんには怒鳴られるしでほんと最悪」

 次々と今朝の嫌だったことを語る矢部は、なんだかさっきよりも表情が明るくなった気がする。

「おい矢部、こんなところで油売ってたのか」

 後ろから、いやな声が聞こえた。三か月前からたびたび夢で聞く、思い出したくもない声だ。

「あ、安倍部長……すみません。すぐ持っていきます」

 矢部の顔が引きつり、慌ててお茶を乗せたお盆をもって給湯室から出ていった。

「生きづらいな」

 矢部が給湯室から出ていく前にささやいた言葉が、なぜだか僕の頭の中でスーパーボールのように跳ね回った。

「よう、久しぶりだな。坂下」

 矢部がいなくなった給湯室。安倍部長と僕の二人きりになった。心臓の鼓動が早くなっていく。音が外にまで聞こえていないか、心配で仕方ない。

「坂下、新しい部署の居心地はどうだ?」

 僕が黙っていると、背中の声が近づいてきて、すっと背中を指先でなでられる感覚がした。

 強気そうな黒縁眼鏡の向こう側にある鋭い肉食動物のような眼光を思い出し、首筋に汗が流れる。

「なあ、黙ってないで答えてくれよ。私と君の仲じゃないか」

 背骨をなぞって、細い指は僕の首をつかんだ。冷たく、僕の首を侵食するかのように指が添えられていく。

「や、やめてください」

 やっと声がでた。おびえたような、か細い声だ。安倍部長の蛇のような邪悪な笑い声が耳元で聞こえた。

「相変わらずかわいいな。今日の射精回数は一回か、溜まってるんじゃないか?」

 クスクスと笑いながら、もう一方の手で僕の体を嘗め回すように触ってくる。

「また社長に言うか? 今度は地方に飛ばされるかもな。私には何の音沙汰もなかったぞ」

 無駄なことは、わざわざ言われなくてもわかっている。そんなことは、僕が一番、よくわかっている。

「なあ、私も反省しているんだ。君の気持ちを考えていなかった。今度食事にでも行こう。もちろん、私のおごりだ。今週の日曜、十二時にいつもの場所に集合だ」

 そういうと、安倍部長は僕の答えも聞かずに給湯室から出ていった。僕は、しばらくそこから動けなかった。


 お茶を人数分汲んで、第三会議室に運ぶ。会議室に入ると、色々な香水の混ざったような嫌なにおいがした。

 社長を含めての営業部六人での会議だ。

「坂下か、矢部だったらよかったのに」

 どこからか、そんな声が聞こえた。営業部の誰かだろう。それを中心に、クスクスという笑い声が聞こえた。僕は聞こえなかったふりをして、一人ひとりにお茶を配る。こんなことを気にしていたら、社会で生きていくことはできない。小さい時から培われた処世術はどこに行っても付きまとう。

「まだ結婚しないのか」

「いい相手がいなくて……」

「選ぶからだろ。お前は色気もないし、すぐに身を固めないと一人で生きていくのは大変だぞ」

 営業部の部長に作り笑いで答える。いつものこと。気にならない。

「気にするなよ」

 最初にお茶を渡した社長に言われた言葉を思い出し、なんだか無性に腹が立った。安倍部長の件で何もしてくれなかったあんたが何を言っても無駄だ。


 会議室から自分のデスクに戻ると、周りで交わされていた談笑がなくなった。いつものことだ。左右のデスクに座っている同期と後輩はすっと僕から遠ざかった。

「おい坂下」

 田口さんに呼ばれた。

「さっき頼んだ資料のコピー、もうすんだのか」

「いいえ、田口さんにお茶汲みをしろと言われたので」

「そんなこともできないのか! これだから男は……すぐにコピーしに行け」

 怒鳴られて、すぐに資料をもってコピー機に向かった。

 これだから男は。その言葉は、呪いのように、どこまでも僕についてくる。


 残業をして、夜十時に会社を出た。エレベーターを待っていると、もう一人の同性の同期、岸と一緒になった。

「おう、坂下、今帰りか?」

 岸の鍛えられた身体は、いつ見てもうらやましい。彼が自信家なのは、この筋肉のおかげなのだろうか。

「ああ、岸も?」

「じゃあ、ちょっと飲みに行こうぜ」

 そう言って、僕は肩をつかまれて、ほとんど強引に夜の街へと連れて行かれた。

 悪い気持ちはしなかった。僕はどこか、彼のこの強引さというか、強さにあこがれている。


 何度か連れてこられている岸御用達の男でも入りやすい居酒屋は、さびれた雰囲気で、客もほとんど男だったので、居心地がよかった。

「かんぱーい!」

 キンキンに冷えた少し苦みのあるビールが喉を通り、すっきりした気持ちになる。反対側では、岸が一口でジョッキ半分を流し込んでいた。

「それでさ、今日部長がさ、また胸とか触ってきてさ、ほんっと嫌だったわー」

 ねぎまをほおばりながら、岸は今日されたセクハラの話を始めた。彼のセクハラは日常茶飯事だ。だから、時々こうして発散しないと壊れてしまうのだろう。周りの話声も、大体似たようなものばかり、セクハラ、パワハラ、モラハラ。ふと、ずっと頭を飛び回っていた、生きづらいなという矢部の言葉が口をついて出た。

 岸の手が、焼き鳥の串の手前で止まった。

「お前も、そう思うか」

 さっきまで赤くなった顔に笑みを浮かべていた彼の顔が一瞬にして真剣な表情に変わった。

「いや、矢部がそう言っていたのを思い出してさ」

 とっさに出たのは、そんな言葉だった。僕自身、生きづらさを感じているのか、よくわからなかったから。ずっと、この環境で生きていて、多少の理不尽は感じても、疑問に思ったことは今まで一度もなかった。

「矢部、何かあったのか?」

 岸の質問に、今日矢部から聞いた話をそのまま伝える。岸なら、矢部の力になってくれるかもしれない。

「そんなことが……けどあいつ、さっき就業時間が終わるのと同時に同期の加賀さんと営業部の山本先輩に連れられて出ていったぞ」

 矢部のことが、なぜだか心配になった。加賀さんと山本先輩は、矢部のことが気に入っていたし、今頃何をされているのか心配だ。もし、僕が安倍部長にされたようなことが矢部にも起こっていたらと思うと、ぞっとした。

「しかし、矢部も自慰せずに家を出てくるなんて、危ないことするよ。そんなことしたら、俺らですら只じゃすまないってのにさ、あいつ、美形だしなおさらだろ」

 岸の言うとおりだ。子供のころ、埋め込まれたチップは、どこまでも僕たちを追いかけてくる。

「それよりさ」

 岸の顔が、さっきと同じ真剣なものに戻った。

「正二先輩、覚えてるか?」

 正二先輩、前に一度、この居酒屋で岸の紹介で顔を合わせたことがあった先輩だ。くたくたのスーツを着ている田口さんと同じ、四十歳くらいの先輩だ。岸の教育係だった。

「今さ、俺と正二先輩でミーニズム運動を社内で起こそうって計画してるんだ。実際に運動している人にも協力してもらってさ、結構本格的にやってるんだぜ」

 ミーニズム。聞いたことがある。何年か前に、アメリカで起こった男性の地位向上運動。チップの廃止や男性の社会的地位向上を訴えているらしい。

「それにさ、お前と矢部にも参加してほしいんだ。特にお前はさ、ほら、あの事件があったじゃん」

 あの事件。僕と安倍部長の間に起きた、あの事件。思い出したくもないことだった。

「それに、お前にとってもいい話なんだ。彼女が参加してくれるんだからさ、これを機に、さ」

 それを聞いて、僕の頭は真っ白になった。思い出したくもない、あの日のことが、鮮明によみがえってきた。

「何をやっても無駄だよ」

 そんな言葉と五千円札を残して、僕は居酒屋を出た。

「まあ、気が変わったら教えてくれよ。いつでも歓迎する。彼女、お前のこと話さないけど、きっと後悔していると思うんだ」

 岸は最後、僕が去る前にそう言った。そんなわけがない。彼女は根本的に僕たちを見下しているんだから。

「ほんと男って……」

 彼女が僕のもとから去った日に残した言葉を思い出す。

「女なんて、みんな一緒だ」

 僕は足早に家へと帰った。

 家に着くのと同時に、携帯電話が震えた。安倍部長からのメッセージだった。

「明後日、忘れずに来るように」


 翌日、昨夜からずっと気になっていたことを確認した。繁忙期の土曜出勤は全社員が対象のはずなのに、矢部と加賀さん、山本先輩は出社していなかった。

 昼休憩の時、エレベーターホールで岸が彼女と話しているところに遭遇した。逃げようとしたけれど、彼女にみつかった。

「坂下君」

 彼女の声が、僕の足を止める。

 あの頃から何も変わっていない。優しい声だ。振り返ると、何も変わらない、彼女がいた。かつて、確かに愛し合っていた彼女がいた。

「京子さん」

 久しぶりに、彼女の名前を読んだ。三か月前、僕と別れた時から、いや、それ以上前から何も変わっていない。

「あの時の事、謝りたくて」

 僕はなんて声をかけていいのか分からなくなった。どうすればいいのか、わからない。あんな理不尽を突き付けられて、なんて言えばいいんだろう。僕はどうすればいいんだろう。怒ればいいのか、泣けばいいのか、わからない。

「別に、気にしてないよ」

 そんな言葉が口をついて出た。なんだか、理由はわからないけれど、心が軽くなった。

「そういってくれると、私も救われるわ」

 岸は、いつの間にかいなくなっていた。ここには、僕と彼女の二人きりになっていた。

「ここじゃなんだから、ご飯でも行きましょ」

 僕は言われるがままに、彼女について、近くの喫茶店に入った。


「私と別れてから、どうしてたの?」

 コーヒーと食事が運ばれてくるのを待って、京子さんは口を開いた。

「別に、いつもと一緒」

 朝起きて、無害であることを社会に証明するために自慰行為をして、朝食を食べ、電車に乗って会社に行き、セクハラやパワハラ、距離を置かれながら仕事をこなし、夜、家に帰って眠りにつく。何もない、そんな毎日。いつもと一緒。

「そっか」

 会話が続かない。彼女の桜色の唇がコーヒーと食事の間を行き来するのをじっと見ていた。

「岸君から聞いた?」

 何のことか、一瞬分からなかったけれど、昨日聞いた話だとすぐに分かった。

「聞いた。けど、断った」

「どうして? あなただって、いやでしょ。こんな社会。安倍部長にあんな目にあわされて、射精の回数まで監視されて、いやだって言ってたじゃない」

 彼女は欠けていた眼鏡をそっと外してテーブルの上に置く。こういう話をする時の、彼女の癖だ。きっと、僕の情報を見ないようにしているのだろう。

 僕は、こんな社会が嫌なのだろうか。この日々に嫌気がさしているだろうか。

 生きづらいな。

 ふと、昨日の矢部の言葉を思い出す。生きづらい。僕は少なくとも、そんな風には思っていない。嫌なこともあるけれど、社会はもともとこんなだったし、ずっとこうして生きてきた。今、僕は普通に生活できている。時々旅行にだって行ける。どちらかと言うと幸せな日々を送れている。あの頃、安倍部長に関係を迫られたころ、まだ、彼女と付き合っていた頃、いやだったのは、この社会じゃない。

「僕は」

 やっと、言葉が出た。やっと、自分にとって嫌なことが分かった気がした。

「僕は、理不尽が嫌なんだ。僕は生活が大切で、それが壊されてしまうのが嫌なんだ。別に、社会に変わってほしいなんて思わない」

 僕は言っていて、どこか気持ち悪かった。わかった気がしているけれど、なんかどこかが違うような気がした。僕は、何がしたいんだろう。僕にとっての幸せは、これじゃない気がして、なんだか気持ちが悪い。

「あなたは、変わってしまったのね」

 その言葉は、僕の心を確かにつかんだけれど、どこか見当はずれな言葉な気がした。


 午後になって、社長に呼び出された。

「坂下君、昨日、矢部君と話していたそうだね」

 社長は重い口を開くように語り出した。

「はい、給湯室で、すこしだけ。すぐに安倍部長に言われて彼は行ってしまいましたが」

 その後、彼がどうしていたか知っているかと聞かれたので、昨日、岸に聞いた話を思い出して社長に話した。

 社長は言葉を選ぶように、さらに口を重くした。

「彼は昨夜、逮捕された」

 言葉が出てこなかった。どうして、何をして。いくつもの疑問が、僕の頭の中を駆け巡る。

「駅の公衆トイレで、彼にレイプされたと女性二人が通報したそうだ。現場に向かった警察官が確認したところ、昨日の朝までゼロだった彼の射精回数が尋常じゃない回数に増えていたらしい」

 そう言われて、すべてを察した。

 生きづらいな。そう言っていた彼が、そんなことをするとは考えられない。彼のことは良く知っている。そんなことをできる人間でないことは、よく知っている。

「君たちは特別仲が良かったからな。伝えておこうと思って。面会したければ、私が話を通しておくが、どうだろう」

 社長は椅子から立ち上がり、心配そうに僕の肩に手を乗せた。

「いえ、大丈夫です。けど、きっと彼はそんなことはしていません。多分、加賀さんと山本先輩にはめられたんです」

「わかっている。彼女らにも、会社に来たら話を聞くつもりだ。けど、立場上、自慰行為をせずに出社した彼を解雇するしかないんだ。状況証拠が、そろいすぎている。どうか、わかってくれ」

 どこかで彼のことをうらやましく思う自分がいることに気が付いた。きっと、どのような形であれ、この会社から解放された彼がうらやましいのだろう。僕は本当はこの社会が嫌なのかもしれない。京子のいうことは、正しかったのかもしれない。

「君の部署移動の件、申し訳なかった」

 社長は変わらず、僕の肩を触りながら、唐突にそんなことを告げてきた。

「立場上、君を擁護することはできなかったんだ。最低限、君を安倍の元から遠ざけるのが、私にできる精一杯だった。許してくれ」

 社長の真意を聞いても、何も思わなかった。僕は、さっき京子に言ったことと同じことを社長にも告げた。

「別に、気にしてません」

 社長は京子と同じことを、一字一句変わることなく返した。

 社長室から自分のデスクに戻ると、田口さんに声をかけられた。いつもと同じ、約三メートルの距離を置いて。

「ひどい顔。今日はもう帰りなさい」


 気がついたら、家にいた。携帯を見ると、安倍部長から連絡がきていた。

「坂下君、今日は体調不良で帰ったらしいな。大丈夫か? 明日には直しておけ」

 なんだか、もうどうでもよくなった。これを自暴自棄というのだろうか。けれど、とにかく月曜日になったら、岸か京子に話を聞きに行こうと考えて、眠りについた。このままだと、矢部のような理不尽が起こってしまう。そんなことが起こらないようにするのが、ミーニズム運動なのだろう。なんとなく、そう思った。


 日曜日がやってきた。

 僕は安倍部長に言われた通りの時間、言われた通りの場所に向かった。

 安倍祥子、三十二歳、独身。スピード出世で商品企画部の部長にまで上り詰めた彼女に、僕は入社当時から目をつけられていた。理由はわからない。出勤するたびに体を触られ、一時期は交際を迫られた。そのころには京子と付き合っていたので、断り続けた。京子には、ほとんど毎日、部長にされたことを話しては社長に直談判することを勧められた。そんなことも落ち着いてきて、日々のちょっとしたセクハラ程度になっていたころ、あの事件が起きた。朝、自慰行為をする暇もなく会社に行った日の夜、強引に飲みにつれていかれた。べろべろになるまで飲まされてから、無理やりホテルに連れていかれて、レイプされた。それがきっかけとなり、京子と別れ、僕は社長に直談判することを決意した。たった三か月前のことだ。それからというもの、一日たりとも自慰行為をしなかった日はない。

 安倍部長はすでにそこにいた。僕の存在に気付いた部長は、手を振りながらこちらにやってきた。

「部長、おはようございます」

「今日は部長って呼ばないで。会社の外なんだから、祥子と呼んで」

 いつもとは全然違う、すこししおらしい態度。無理やり僕の手を握ってきて、そのまま昼からやっている居酒屋に連れていかれた。僕は、彼女の目が、眼鏡越しに僕の射精回数を確認したことを見逃さなかった。やっぱり、この人は何にも変わっていない。どこかで、そんなことに安堵している自分がいた。僕は、部長を告発する。そのために、ミーニズム運動に参加するんだから。言い聞かせるように、僕は部長の手を振りほどいて、ついて行った。

「ちゃんと来てくれて感謝してる。あの日のことを謝らせてくれ」

 注文をして、すぐに部長は頭を下げてきた。少し、虚を突かれた。この人が、こんな態度をとるなんて思ってもいなかったから。

「別に、もういいです」

 自分を強く見せたかった。威勢を張る必要があった。そうじゃなきゃ、この人に対抗することはできそうになかった。

「そうか。そういえば、矢部が捕まったことは知っているか」

 この人にも話が回っていたのかと驚いたが、そういえば矢部も商品企画部だし、部長であるこの人に話が言っているのも当たり前だ。

「安倍さんも、知っていたんですね」

 祥子と呼ばれなかったことに少し驚いたようだが、すぐに話を戻した。

「君も知っていたのか。矢部がまさかあんなことをするなんてな」

 この社会に染まりきってしまっているこの人に、矢部の恐怖が分かるわけがない。ずっと男のことを下に見続けているこの人に。

「あなたがそんなだから―――」

 僕のこの言葉は、安倍さんの言葉によってさえぎられた。

「この後、ホテルにいかないか」

 この言葉に、驚いた。さっき謝ったばかりだろう。なぜそんなことを言う。

「なぜ」

「私が君のことを選んだからだ。君は魅力的だ。私にとっては」

 そんな、告白のようなことを、レイプした相手に対してよどみなく言えるこの人の精神を疑った。

「いかないです。僕は安倍さんのことが嫌いです」

 はっきりと、嫌いだといったのは初めてだった。

「いや、君は来る。来ざるを得ない。岸と君の元交際相手、ああ、あと、もう一人いたな。私の一言次第であいつらは終わりだ」

「どうして、そのことを。そもそも、あなたにそんな権限はないでしょ」

 強くあれと自分に言い聞かせながら、震える手を抑え込んだ。彼らの顔が、脳裏に浮かぶ。

「そんなこと、どうにでもでっち上げられる」

 その言葉に、僕の強さはどこかに消えてしまった。僕は、自分の下半身をみた。彼女のその態度を受けて、どうしてか興奮してしまっていた。

「さあ、行こうか」

 僕は彼女に連れられ、店をでた。強かった自分は、もうどこにもいない。ホテルの部屋に入り、僕はやっと、自分の正体に気付いた。

「ほんと男って……」

 京子の言葉を思い出す。違う。男だからじゃない。僕はもともとこういう人間だったんだ。

ベッドに押し倒され、祥子さんが僕に馬乗りになる。

 矢部のことがうらやましかったんだ。情けなく、レイプされた彼が。

 服を脱がされ、情けない喘ぎ声をあげる。祥子さんは、あの蛇のような笑みを浮かべている。何度も夢の中で見た、あの笑み。朝、その夢を見ては勃起していた自分を思い出す。

 僕には、強く生きることなんてできない。この社会に、反旗を翻すことはできない。そんな人たちをうらやましくは思うけれど、僕はそんな人間じゃなかった。

「君は結局、こうして情けない姿にされていじめられるのが好きな変態なんだ」

 祥子さんが、僕の耳もとでささやく。

 もう、戻ることはできない。いや、ずっと気付いていた。三か月前に祥子さんに押し倒された時から、僕は自分の正体を知っていたんだ。違う。もっと、ずっと前から。このチップを埋め込まれた時から。

 僕の射精回数メーターが、また一つ増えた。

 部屋の床に転がっていたあの生しょうがの黄色いチューブは僕自身だった。

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