私のための思い出

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私のための思い出

 私は、もうすぐ死ぬんじゃないかと思う。

 医者は、なんでもないと言っていた。でも医者なんかアテにならないことは知っている。なんでもないはずの夫は、ある日、突然、死んだのだ。

 どこがどう、とは言えないのだけれど、身体の様子がおかしいので、そう思う。私は医者なんかより、よっぽど長く私の身体と付き合ってきたので、それはわかる。ただ、もうすぐというのが明日なのか来週なのか来月なのか、もしくは来年なのか、それはわからない。


 昨日、娘がやってきて自分の話をしたいだけして、ついさっき帰って行った。別れた夫や受験に失敗した息子のことなどを話していった。娘には幸せになってほしいと、ずっと思っていて、でも娘が私に語った話のほとんどには不幸の気配が纏わりついていて、でも本当はそれだけではないことを私は知っている。具体的には、なにひとつ知らないけれど、今の娘の生活に不幸な出来事だけが、あるわけでないことは知っている。それは昔の私だって似たようなものだったのだから、今の娘だって一日のある一瞬には笑っていることもあるだろうことは想像に難くない。ただそれは私に話すほどのことではないと思っているから話さないのだろうし、実際にそれは話すほどのことではないのだろう。


 昨日の夕飯の食卓には、その前の日に私が作ったカボチャの煮物の残りが電子レンジで温め直されて載った。あとは娘の買ってきたデパートの総菜と、御御御付けとご飯と漬け物で、漬け物も娘がこの間、お歳暮で送ってきたものだ。娘は私の煮たカボチャを味が濃すぎると言いながら食べていた。味付けは昔から変わらない。きっと娘は昔から濃すぎると思いながら黙って食べていて今は黙って食べなくなったということなのだなと思う。

 血圧が高いんだからとも娘は言った。確かに私の血圧はやや高いらしい。でももうすぐ死ぬのはそんなことのせいとは思われない。

 食卓の上でデパートの総菜だけが浮いていて私はあまり手をつけなかった。もちろん美味しくないわけはないけれど、それはあまり私が食べるために作られたもののようには見受けられない。


 私の部屋には人形がある。赤ん坊ほどの大きさだ。もちろん赤ん坊の人形ではない。十歳くらいの女の子の人形だ。とても可愛らしい人形で、私は時々この子に話しかける。もちろん実際に口を動かすわけではない。心の中で喋る。そうすると向こうの返事も私の心の中で語られる。その喋る感じや声は十歳の頃の娘にそっくりで、そして私は三十数年前の、その頃を思い出しながら話す。人形には幸子という名が付けられている。もちろんそれは娘の名ではない。


 へえー、ふーん、そうなんだー。


 幸子は私の話にそんな風に相槌を打つことが、ほとんどで自分の話はあまりしない。時々、ほら「それは高木さんのことでしょう」みたいに、あるいは「それは九州に行った時だっけ」みたいに、私の曖昧な記憶の手助けをするくらい。

「もー、ボケちゃったの?」みたいに笑ったりすることもある。そんな時は一緒なって笑う。


 娘が帰ったあと、昼食を済ませた私は炬燵でうたた寝をして夢を見た。それは長い長い夢だった。夢は自分の寝室で寝ているところから始まり、そして目を覚まし、いつも通りに朝ご飯を作って食べて後片付けをしていると玄関の呼鈴が鳴る。ドアを開けると、そこには若い頃の夫が立っていて、私は夫を招き入れ、夫がコーヒー党だったことを思い出し、久しぶりにコーヒーを入れる。私はコーヒーを飲まない。だから今の私の家の台所にはコーヒーはないのだが、夢の中の私の家の台所にはコーヒーがあった。

 炬燵の上にコーヒーカップを置き、差し向かいになって話をする。語られるのは、かつて夫に語られることがなかった私の思い出だ。学生の頃の恋について。私と私の父との二人だけの思い出。忘れてしまいたいような、ありふれた若さ故の過ち。深く傷ついた友人との間の出来事。

 若い夫はただ黙ってそれを聞いている。時々、湯気の立つコーヒーカップを口元に運んでは目を細める。昔、うちでコーヒーを飲むのは夫だけだった。私は飲むことは出来ないけれど、その香りは好きだったことを思い出す。コーヒーを飲み終えると若い夫は無言のまま立ち上がり、出て行った。空になったコーヒーカップを流しに運ぶ。


 炬燵に戻りテレビをつけると兄のお嫁さんが出ている。いや、かつてお嫁さんだった人というのが正しい。兄は若くして亡くなってしまった。その後、未亡人となった彼女は再婚し、そして今ではテレビでも、おなじみの有名人となっていた。続いているのは年賀状のやりとりだけになっている。その彼女がテレビの向こうから話し始める。ただ私のみに向けて語りかける。私の知らない兄の話ばかりを話し続ける。私はいつもテレビを見ている時と同じように、ただぼんやりと眺め、そして聞いている。彼女の語る兄は私が知っている兄よりも少しだけ男らしい、あるいは粗雑な人物として語られる。私は昔、小さい頃、大きくなったら兄のお嫁さんになるのだと言っていたことを思い出す。それから私は彼女のことが、あまり好きではなかったことに初めて気付く。彼女の話は終わり、私はリモコンでテレビを消す。彼女は消える。


 それから簡単に昼食を作り、食べる。空いた皿を下げ、朝食の器と一緒に洗う。

「ただいま」と言って娘が家に帰ってくる。娘は制服を着ている。私の髪は昔みたいに短くなっている。「おかえりなさい」と私は言う。

 娘は自分の部屋へ行き、着替えて戻ってくると炬燵に入り「なんかなーい?」と聞く。

 私はミカンを盛ったカゴを炬燵の上に置く。

「なんかお菓子はないの?」と娘は言う。

「甘いわよ」と私は言い、自分の分と娘の分、お茶を入れて湯飲みを二つ、炬燵に運ぶ。

「チョコレートとか食べたい気分なんだけど」と言いながら娘はミカンの皮をむき、白い筋を睨みつけながら丹念に取り除いていく。

 私は日本茶をすすりながら話を始める。夫の話を、つまり娘にとっての父親の話を話す。それから娘が生まれるより先に若くして死んだ私の兄の話を、そしてその兄の妻の話を語る。

 娘は黙って、聞いているのかいないのかわからないような態でミカンをせっせと口に運んでいる。ミカンの房はいくら分けても欠けることがなく、娘はいつまででもミカンを口に運び続けている。

 一通り話が済み、そんなに食べると晩ご飯が入らなくなるよ、と私が言うと、ミカンを食べ終えて娘は宿題しなきゃ、と言いながら立ち上がって自分の部屋へ戻っていった。


 窓の外を見ると日が暮れている。いつの間にか、点けた覚えもないのに部屋には蛍光管が灯っていて明るい。晩ご飯の支度をしなきゃと思って台所に立ち、冷蔵庫を開けると中は空っぽで困ったなと思っていると電話がかかってくる。電話を取ると夫からで今日は遅くなるから晩飯はいらないと言う。助かったなと思う。それから夫が死んでからの色々のことを話す。夫の葬式で大騒ぎをして迷惑をかけ通しだった夫の弟のことなどを話す。さっきまでうちにいた娘のことなどを話す。娘からさっき聞いたばかりの娘の別れた夫やら受験に失敗した娘の息子の話をする。それは大変だったなあ、などと言いながら「じゃあ、また」と夫は電話を切って、私も受話器を電話機に戻す。戻した途端に電話が鳴った。


 その音にびっくりして目が覚めた。部屋は、すでに暗い。炬燵から這い出て慌てて照明のスイッチを入れてから電話に駆け寄る。電話は夢の中のような黒電話ではない。受話器を取り上げると娘からで、今、帰って家に着いたところだという。娘はそれだけ伝えて電話を切りそうな気配がして、私はなんか言わなきゃと思って「困ったことがあったらなんでも言いなさいよ」と言ってしまう。

「なに?突然」娘は含み笑いをしながら言う。

「なんか今日、あんたいろいろ話していったから」と私は言い訳を言う。

「なによ。ただの愚痴じゃない」と娘は笑いながら言う。

「そうね。ただの愚痴よね」と私は繰り返す。

「じゃあ、またね」

「おやすみなさい」私は言う。

「なあに、もう寝るの?ちょっと早いんじゃない」娘が電話口でまた笑っている。

 時計を見る。確かにまだ寝るには早い時刻だ。それにそもそも私は、さっきまで寝ていたのだ。私もつられて笑う。

「本当は、さっきまで寝てたの。あんたの電話で目が覚めたわ」

「もー、まったく」呆れたように言って娘はまだケラケラと笑っている。

「晩ご飯どうしようかしら」独り言みたいに呟く。

「勝手にしてよ、ああ栄養失調とかで死なないでよね、恥ずかしいから」娘は自分で自分の冗談に笑いながら「じゃあ、おやすみなさい」と言って電話を切った。


 受話器を置く。とりあえず、お風呂にでも入ろうと考えて風呂場へ行って蛇口をひねる。どばどば水が落ちていって、それがだんだん湯に変わっていって湯気が立つ。そうして浴槽が湯でいっぱいになっていく様子を私はそこに屈んで、十五分か二十分の間、ずっと眺めていた。

「今日は寒いなあ」独り言を呟いて湯を止める。いつか昔、同じセリフを呟いたような、そんな気分に囚われる。それから立ち上がって着替えの用意をして服を脱ぐ。洗面場の鏡に映った裸のお婆さんを目に止めて、ああ、これがもうすぐ死ぬ女の身体かと思う。

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