ここは夏休み最前線

木江 巽

ここは夏休み最前線

 梅雨晴れの空を仰ぐ。よし、という僕の、声に出さない小さな呟きを合図に、押し縮められていた空気が勢いよく水を吐き出した。その大きな流れに乗り損ね宙を舞うことになった小さな水滴は、やがて重力を思い出したものから順に地表へ戻る準備を始める。そんな、自分を推し進める代わりに落ちていった煌めきには目もくれず、僕のロケットはただ一心に、大空をめがけて飛んでいく。

 ちょっと美化され過ぎている、と妻は言う。

「私もそんなに覚えてはないけどさ。少なくともあまり晴れた日ではなかったし、あのペットボトルロケットも、たいして飛ばなかったよ」

 一緒に画面を眺めていた妻は、笑いながら身を起こしてベランダの手すりに腕を預けた。僕は肩をすくめ、再び空にかざしたスマートフォンを見上げる。画面の中ではいまだ、空中に散らばる水滴がキラキラと光っている。現実の空を背景として、どこまでも遠くへ飛んでいくペットボトルロケット。僕が趣味で作成したARアプリだ。

「まあ、今はこんなにドローンだらけだもんねえ」

 妻は頬杖をつき、配達ドローンの行き交う空を眺めている。

 僕のアプリが表示させる背景では、ドローンの姿は排除されている。妻にならって現実の空を見上げていると、接近しそうになった二つのドローンが軌道を変更したのが見えた。それぞれが、近赤外線や可視光、紫外線などのあらゆる反射光を測定して距離をはかり、衝突を避けているのだ。

 画面の中と現実の空とを見比べる。いくつかのドローンの進行方向に無遠慮に割り入って飛んでいるだろう僕のARペットボトルロケットは、どれほど接近しようとも、ドローンたちにそんな挙動を取られることはない。ドローンたちのレーダーには感知されっこない、ステルスロケットなのだった。

「パパまたロケットで遊んでるの」

 カラカラと窓を開け、娘がベランダにあらわれた。子供じみた空想にひたっていた自覚があったことと、妻の口調をまねる娘のませた様子がおかしくて、僕は声を上げて笑ってしまう。

「晴れた空には、誰しもイマジナリーペットボトルロケットを飛ばすものだよ」

 ニヤニヤしながら適当なことを言う父親にも慣れたもので、娘は言葉の意味も分からないくせにハイハイと受け流すような返事をした。

「パパのイマジナリーペットボトルロケットには興味なくても、本物のペットボトルロケットは楽しいかも知れないよ?」

 妻が娘に笑いかけ、ちらりと挑発するように僕を見た。

「どうかな。でも、本物を飛ばしてみたら、もっとがっかりするかも」

 僕の否定的な言葉がかえって娘の興味をひいたらしい。鮮やかなオレンジ色の小さなスリッパを履いてベランダに出てきた娘は、ロケットが見たいと僕の持つスマートフォンに手を伸ばしてきた。

「ここにうつってるのはね、パパがあの日みたペットボトルロケットだから。本物とは違うんだよ。本物はもっと速いし、すぐに落ちるし。これはパパが、こんなに綺麗だったなって思い出しながら作ったやつだから」

 言い連ねながら娘に見せた画面はしかし、アプリ内のロケットはもう随分と遠くへ行ってしまっていて、姿が見えなくなっている。

「パパが見たのっていつ見たの?」

 何もない偽物の空を見せられた娘が不満そうに僕を見上げた。

「パパたちが夏休みのときにね、一緒に飛ばしたんだ。もう子供じゃなかったけどね」

「ママもロケット飛ばしたの?」

「うん、パパの手伝いだったけどね。まあまあ楽しかったよ」

 当時はそんなに乗り気でなかったはずの妻が悪戯っぽく笑うので、僕はなんだかむず痒い気持ちになってしまう。

「ずるい。やっぱりまーちゃんも夏休みにロケット飛ばしたい」

 僕と妻の間で交わされた感情の機微を敏感に感じ取ったらしく、娘がむくれている。

「もうだね。もうすぐ、まーちゃんの夏休みだ」

 妻がとりなすように大袈裟に言う。

「それっていつ? なんようび?」

「もう来週でしょ。今日が水曜日で、来週また水曜日が来たら、そしたら明日から夏休みだよ」

「来週が水曜日になっても、まだ明日にならないと夏休みにならないの?」

 大人と子供とでは流れている時間が違う。娘にとって、明日というのがどれほど遠い約束なのかを思い知らされて、おかしかった。

「よし、まーちゃんの夏休みが始まったら、本物のペットボトルロケット作ろうか」

 妻がやけに張り切っている。僕は戸惑いが次々に浮かんでくるのをこらえきれず、二人をなだめにかかった。

「どうだろう、野球どころかキャッチボールをするのにも許可が必要な時代だからね。ペットボトルロケットを飛ばすのなんて、どこなら許されるのかわかんないな」

「おじいちゃん家のあたりとかダメかな」

「田舎こそ、ドローンが活躍するイメージだけどね」

 僕の生まれ育った町の花火大会も、もう数年も前から本物の花火は使用されておらず、光るドローンの群舞ショーと化してしまっていた。

「やっぱりドローンが邪魔だよね」

 妻がおどけて小さく手を動かした。小さな虫を追い払うような仕草だ。

「仕方がない。飛行機を邪魔しない高さでクルマが飛び、クルマを邪魔しない高さでドローンが行き来するんだから。人間はドローンを邪魔しない縦幅で生きていくしかない」

「なんだかなあ、もういっそ、ぜんぶ撃ち落としちゃおうか」

 妻が親指と人差し指以外の指を折り曲げ娘に見せたあと、空に照準を向けた。ママの言うことはすべて現実になると思っている娘が、大慌てで腰のあたりに飛びついている。

「ダメだってママ! 捕まっちゃうよ!」

「だってこれから、まーちゃんの最強の夏休みが始まるっていうのに。夏休みはね、やりたいことは何だってやらなくちゃ」

 妻のこの挑発的な気性はどこからやってきたのだろう。僕は圧倒されていた。少なくとも、娘が生まれるまでは、僕の方が思い切りが良く冒険的であったと思う。この妻の茶目っ気は、娘を介してでしか僕は手に入れることができない。

「まーちゃん別にロケット飛ばさなくていい」

 娘が必死に妻を引き留めている。妻はひとしきり笑ったあと、じゃあやめとくかと言って手を引っ込めた。

「まあ確かに、お母さんも今度は違うもの飛ばしたいかなあ。皆で気球に乗って散歩するとかさ、いいよね」

 娘は再び銃の形になることを警戒してか、解かれた妻の手を両手で握っている。

「それで言うと、まーちゃんが飛ばすのは、イマジナリークジラ雲だよねえ」

 妻はつないだ手をぶんぶん振りながら娘の顔を覗き込んだ。娘は目を輝かせたようだが、僕には何のことだかわからない。

「クジラ雲? 入道雲のこと?」

「違うよ。一年生で習うくじらぐもって、知らない? 国語の教科書に載ってるんだけど、まーちゃんまだ習ってないのに勝手に読んじゃって、ドはまり中なの」

 へぇとだけ返すと、娘がしたり顔でうなずいた。

「パパもまだ習ってないんだね」

 苦笑する妻と目が合い、こっそりと笑いあった。

「まーちゃん覚えちゃってるもんね。もうご飯作ってるあいだずーっと隣で言ってるから、お母さんも覚えちゃったよ。でもまだお友達にはこの話しないでよ?」

 わかってるって、と返事をして得意げに始まった娘の朗読は、ところどころ妻の声にリードを奪われつつ進んでいく。子供たちがクジラの形の雲に乗るという話で、皆で雲までジャンプするために繰り返される号令が、次第に力強くなっていくようだ。

 妻と娘のいち、に、さんという掛け声に合わせて、僕は再び空に向き直りロケットを発射させた。画面の中で噴射された水しぶきは、急速にどんよりし始めた雲に蓋をされたこの鈍色の空でも、変わらず煌めいている。

 飛んでいくロケットを思い描きながら顔を上げた。現実の空には、相変わらず似通ったドローンがいくつも行き交っている。風が出てくればどこかで待避するのだろうが、霧のような細かな雨程度では、まだまだそんな気配はない。それでもこのロケットは、何がどれだけ立ちふさがろうとも、雲の向こうめがけて動じることなく進んでいく。

 妻と娘の朗読は、うろ覚えの場所を誤魔化しながら笑いあう声に変わってる。それを背中で聞きながら、そろそろ部屋に戻るよう促そうとしたその時、ふと、いくつかのドローンの、何かを避けたような挙動が目に入った。まるで接近した別のドローンを感知して避けたかのようにも、自分より速いものに遠慮して道を譲り、それが通り過ぎるのを避けて待っていたかのようにも思える。

 もちろん偶然だろう、でも。

 もしかしたら、本当に何かがこの空を飛んでいったのかもしれない。

 子供たちの未来とか、明日の約束とか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ここは夏休み最前線 木江 巽 @kinoeta

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ