Play#5 体作りと侍女


「お嬢様……本当にされるのですか?」


その日、パレスフィア公爵家の令嬢付きの次女、レイは困惑した顔で庭にいた。

あの癇癪持ちで引きこもりのお嬢様が謎の高熱にうなされた翌日。

いつも通りエンドローズを起こしにいったレイは、ここ数日穏やかで人が変わったように礼儀正しい主人に油断していた。

このまま大人しくなってくれれば、もう使用人が辞めずに済むだろう、と思っていたのだ。

部屋に入ると、あの寝起きの悪い主人がぱっちりと目覚めていて、「起こしに来てくれてありがとう」と言ったものだから、驚いて返事に時間がかかってしまった。

レイはあまり裕福では無い下級貴族の末娘で、公爵家が元々募集していたような素養は身につけていなかった。

しかし、気難しく、癇癪を起こしやすい令嬢に誰もが手を焼いて辞めていき、最終的にレイのような者も採用されるまでになった。


その原因のお嬢様に、最初こそ、いやつい最近までレイも手を焼いていたのだが。

ここ数日で激変したエンドローズの態度に、レイは少し助かっていた。

そう、今日までは。


驚いて固まっているレイを他所に、今朝エンドローズは「運動をしたい」と言った。

運動嫌いだったはずのエンドローズの発言に驚きつつも、これ以上は無礼を働けないと思ったレイは、「では数日以内に乗馬の先生を手配致します」と言った。

しかしエンドローズの要求は予想の斜め上を言った。


『違います……じゃなくて、違うよ、レイ。私は今日、今運動しようと思って。朝ご飯を食べる前に、軽く走り込むだけだから』


走る?あのエンドローズお嬢様が?

敬語を辞めてくれたのは有難い限りだが、それ以上にありえないことだ。

信じられないと言う顔のレイに、エンドローズは更に続ける。


『だからこう……動きやすい服はないかな?ジャージみたいな、シンプルなズボンと半袖が欲しいんだ』


じゃーじなどという衣服は始めて耳にするが、それ以前にエンドローズの持つ服は全てきらびやかなドレスであり、乗馬用のキュロットやジョッパーズもこれから発注するつもりだった。

そのため、エンドローズの要求するものはここには無いのだが、「欲しい」と言ったものは早急に用意しなければ癇癪を起こすのが今までのエンドローズであり、レイの認識である。

せっかく大人しくなってきてくれたのだ、ここで変な刺激を与えたくない、と急ごしらえで用意したのは、使用人用の作業着だった。

一番小さい作業着でもエンドローズには大きかったし、そもそも煌びやかなものが好きなエンドローズにこれは火に油だろう。


これは陶器の置物のひとつやふたつ、飛んでくるかもしれないとレイが身構えていると、エンドローズは目を輝かせた。


『あ~~!いい!すごくいい!こういうのが欲しかったの!うーん、でもちょこっと大きいかな……よし』


そしておもむろに大きなハサミを取り出すと、長くて余分な部分をジャキジャキと切り始めた。


『よし!こんな感じかな!早速着替えて庭に行きましょう、レイ!』


……と、ここまでが朝の出来事である。いや、正確にはまだ朝食の時間より早いのだが。

そして冒頭のレイの問いかけに戻るのだ。


「もちろんだよ。健康な体は良い食事と適度な運動から。

今日からきちんと朝昼晩食べるから、その、用意をお願いしてもいいかな?」


「それはもちろん。それが私共の仕事ですので」


何故か申し訳なさそうに告げる主人に、レイは慌ててフォローを入れた。

すると、エンドローズはそれは嬉しそうに「ありがとう」と笑う。

ここ数日の主人には、なんだか調子を狂わされる。

ポーカーフェイスで愛想がないために、これまで仕事が長く続かなかったレイだが、今の主人には驚き過ぎて、いつもの表情が保てない。


「よーし、やるぞ!」


そんなレイの心情を全く知らないエンドローズは、前世で行っていた準備運動をする。

正直、少し楽しみだった。

パレスフィア公爵家の庭はあまりにも広く、そして美しかった。

前世では母に言われて事務的に行っていたランニングだが、この美しい庭の中を走れると思うと気分も上がるというもの。


「お嬢様、やはり突然運動するのは難しいのではないでしょうか……」


「大丈夫大丈夫!私、結構運動は得意な方だったから!」


なのでエンドローズは忘れていた。

この体は6年間ろくに運動をしていなかったことを。

小さい頃から毎日運動するよう言われていた前世とは、体のつくりが違うということを。


――結果。


「ぜぇ……はぁ……っおえ、きもちわるい……」


「……はあ、だから申し上げましたのに」


レイは珍しく、少し苛立っていた。

こんな不格好で安物の、使用人用のつなぎを主人に着せた上、体の弱い主人を走らせたなんて知られたら、レイとしても立場が危うい。

侮辱罪でクビならまだ良い方で、最悪の場合レイの実家レベルの弱小貴族など、公爵家の手にかかれば潰されかねない。

故にさっさとこの思いつきに飽きて、いつも通り部屋に篭っていて欲しかった。


それに、レイにはもう後がない。

男ではない時点で実家にとってレイはさほど価値の無い存在であり、また姉達とは違って可愛げの無いレイには、縁談の話も無かった。

このまま婚期を逃してしまえば、望まない相手と無理矢理縁談を進められかねなかった。

だからレイは、実家から物理的に出られて、更に両親の文句の言えない立場の貴族の家に務める事を選んだ。

学も素養も無いなりに死に物狂いで勤め先を探し、幸運にもパレスフィア公爵家という最良物件を勝ち取ったのだ。

家を出る時、両親は文句を言うどころか、公爵家との繋がりやお零れを狙ってレイを最大限小綺麗にした。

そしてコネでも弱みでもなんでもいいから手に入れてこい、それまでは家の敷居を跨ぐな、と念を押した。

公爵家の一人娘とはいえ侍女程度に、しかも皆が嫌がった為にレイレベルの身分に回ってきたような仕事で、両親が望むようなものを手に入れられるとは思えなかったが、あの家を出られるなら何でも良かった。

レイとて、あの家の敷居をもう一度跨ぐ気などさらさら無かったのだ。


「無理だとお分かりになったのなら、もう辞めに致しましょう?辛いことを無理にする必要など、お嬢様には無いでしょうに」


この裕福で恵まれたお嬢様には、自分と違って何でもあるのだ。

なら恵まれているなりに、楽に生きていればいいのではないか。

辛さなどとは無縁に生きることもできるのだから。


「……ごめんね、レイ。それは聞けないの」


「え?」


「私、決めたんです。私に与えられた役割を果たすために、望まれた期待に応えるために。

誰が見ても立派な、そんな令嬢になりたいんです」


エンドローズはレイの目を真っ直ぐ見つめた。

まだ迷いも弱音もあるくせに、それでもエンドローズは目を逸らさない。

人の目を真っ直ぐ見て、真っ直ぐ気持ちをぶつける。

悪意も敵意もなく、限りなく正しいわけでもなく、ただ相手と対等に、嘘のない本音を告げる。


思えば、レイの周りにこんな人はいなかった。

心の内でレイの価値を測って、そして価値がないと烙印を押すものばかりだった。


「レイには、きっと迷惑をかけると思う。けど、掛けた迷惑を無駄にしないように頑張るから。

だから……だから、側にいてくれないでしょうか」


どうして、この少女といると調子が狂うのかが分かった気がする。

心からの「ありがとう」を言ってくれる相手が、レイには今までいなかったのだ。

高熱で魘された後から、常にレイを対等に扱い、感謝を伝えてくれていた主人。

そんな人に懇願されては、頼られては、断ることなど出来なかった。


「わかり……ました。私に、出来ることなら」


そう言うと、エンドローズはぱあっと花の舞うような笑顔を浮かべて、また「ありがとう」と言った。

レイにはいつしか、その美しい感謝に値する従者でありたいと、そんな気持ちが芽生え始めていた。


「よーし!そうと決まったら、めげずにもう一回走ろう!」


「お、お待ちくださいお嬢様!まずは、庭を散歩する事から始められてはいかがですか?まずは負担の少ない事から始めるのが良いかと」


レイがそう言うと、エンドローズは確かにそうね、と納得する。

つくづく、主人は人を疑うことを知らないらしい。

あまりの素直さにレイは不安になった。

そのうち、どこかのあくどい輩にだまされて、大切なものを奪われたりはしないだろうか。

純粋で信じやすい主人の変わりに、主人の分まで自分がエンドローズに近づく人間を疑い、警戒しよう。

自分はとっくにひねくれていて、主人のような美しい心は持てないが、捻くれ者なりに役に立つ事はできる。


レイは、すっかり変わった主人に向けて、こっそり敗北の笑みを浮かべた。

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