第230話 イヴァン

 

 ──夕日が沈んで、木々に覆われた山は夜闇に包まれた。

 次第に雨風が強まってきて、嵐の到来を予感させる。


「イヴァンさんっ、待って!! 逃げてもいいですけどっ、ポテトくんを返して!! マリアさんが悲しんでますよーーーっ!!」


 私がマリアさんの名前を出しても、イヴァンさんは苦しまなくなった。

 強まった雨風の音が原因で、私の声が届かなくなったんだ。

 彼は私とティラから逃げるために、木々を薙ぎ倒して山中を駆け抜ける。


「タ、タタタ、タテ!! 盾ノ!! 曲ゲテエエエエエエェェェェッ!! バケツウウウウウウウウウウウアハハハハハハハハッ!!」


「な、なんて……? どうしよう、本格的におかしくなっちゃったのかな……」


 イヴァンさんが意味不明な言葉を羅列しながら、次々と木や岩を後方に投げ付けてきた。

 ティラは危なげなく躱しているけど、流石に全速力を維持することは出来ない。

 一向に追い付けないまま、私たちは盆地の村から遠ざかっていく。


「オ、オ、オォ、オレレレハ、逃ゲナイ!! 立派ニ、ナ、ア、マリアセンセエエエエエエエエエエエエッ!! アーシャ怖イイイイイィィィィッ!! ウチ逃ゲルウウアアアアアアアアアアアアアア!!」


 途中、イヴァンさんは一瞬だけ足を止めて、ティラを迎え撃とうとしたけど、私と目を合わせた途端に再び逃げ始めた。

 言動が支離滅裂だ。あの歪な脳味噌の中に、イヴァンさん以外の誰かの思考が、混ざっているのかもしれない。

 どう見ても、複数人の脳味噌が複合しているので、十分にあり得るよ。


 ……だとしたら、私を恐れる思考は、誰のモノなの?


「まぁ、誰でもいいや。今はとにかく、この状況を打開しないと! リリィっ、力を貸して!!」


 私は硝子のペンで魔法陣を描き、ウーシャの身体から出ている状態のリリィを召喚した。


「呼ばれて飛び出てっ、オホホのホーですわーーーっ!!」


「変な掛け声で出てきた!?」


「ずっと温めていた召喚ボイスですわ!! それよりっ、アーシャさん!! わたくしは何をすればいいんですの!?」


「ポテトくんに憑依してから、『助けてマリアさん!』って、何度も叫んで!!」


 ポテトくんはイヴァンさんの胸部に捕らわれているので、その至近距離から叫べば、彼の耳に届くはず……。


「どうして、とは問いませんの!! わたくしっ、やってやりますわ!!」


 切羽詰まっている状況で、余計な問答を挟むことなく、リリィは私の指示に従ってくれることになった。

 しかし、リリィが愚直に追い掛けても、イヴァンさんに追い付くことは出来ない。

 今のリリィは私の衣服に、自分の身体を半分ほど憑依させている。だから、一緒に猛スピードで移動出来ているけど、本来は移動が速い子じゃないんだ。


 そんな訳で、私はスラ丸の中から仮面を取り出して、幸運の髪飾りと付け替えた。

 これは、猫を模しているお洒落な仮面で、認識阻害の効果が付いているマジックアイテムだよ。 

 イヴァンさんが私を認識出来なくなったら、逃げずに立ち止まってくれるかもしれない。


「アアアアアアアアッ!! オレハ逃ゲナイイイイイイイィィィィッ!!」


 次にイヴァンさんが振り向いたとき、彼は私の思惑通りに足を止めた。

 そして、再びティラとの激闘が始まり、私はブロ丸に乗り換えて距離を取る。


「ひぃぃっ!? わ、わたくしっ、どうやって憑依しに行けばいいんですの!? あの拳が当たったら、ミンチになってしまいますわよ!?」


「リリィは幽霊でしょ!? 物理攻撃は効かないんじゃないの!?」


「ハッ!? そ、そうでしたわ!!」


 幽霊であるリリィは、イヴァンさんの拳を悠々と擦り抜けて、そのままポテトくんの身体に憑依した。

 ポテトくんの頭に金髪縦ロールが出現して、絵面は完全にギャグパートだけど、私たちは頗る必死だよ。

 ここから、リリィがポテトくんの身体を使って、『助けてマリアさん!!』という魔法の言葉を唱えまくる。


「アア、アァアァアアアアアッ!? マ、マリアセンセエエエエエエエエ!!」


 イヴァンさんは再び悶え苦しみ、自分の脳味噌を掻きむしり始めた。

 こんな状態でも、結界は欠かさず使ってくるので、このまま自滅してくれるのを待つしかない。

 手透きになった私は、イヴァンさんがどうしてこんな姿になったのか、【過去視】を使って確かめることにした。




 ──イヴァンさんは八歳で孤児院を卒業してから、すぐに冒険者として活動を始めた。

 まずは奴隷商で自分自身を担保にして、支度金を借りる。

 それから、装備を整えて、孤児仲間とパーティーを組み、一緒に流水海域へ挑んだり、簡単な依頼を熟して、職業レベルを上げながら生活費を稼いだ。


 孤児から冒険者になるのであれば、定番のルートだね。

 イヴァンさんの生活は順調そのもので、十代半ばの頃には借金も返し終わり、レベル20が目前というところまできていた。


 そこから転落したのは、凡そ二年後。

 ポーションを節約して、些細な怪我を放置したら、化膿して重症化したんだ。

 それは彼の利き足で、切断するか中級ポーションを使うか、選択を迫られた。


「治すしかないが、金がないな……。また借金か……」


 イヴァンさんは後者を選ぶも、お金がなかったので、再び借金を背負う。

 完治さえすれば、幾らでも再起は可能だったはず……。

 しかし、ポーションの品質が低くて、痺れるような後遺症が残ってしまった。


 切断こそ免れたものの、適正レベルの魔物との戦闘は、思うようにいかなくなる。

 そんなイヴァンさんを仲間たちは気に病んだけど、彼らにも自分の生活があるため、一人、また一人と、イヴァンさんのもとから離れていった。


「──クソっ!! 俺は、これからどうしたら……!?」


「足のことは残念ですが、貸した金は返していただかなければ、困りますな。期日までに返済出来ない場合、貴方は奴隷になることをお忘れなく」


 行き詰まったイヴァンさんのもとに、金貸しの奴隷商人がやってきた。

 彼の残酷な言葉を聞いて、イヴァンさんは盛大に狼狽える。


「ま、待ってくれ……!! 奴隷だけは嫌だ……っ!! そんなの、マリア先生に顔向け出来なくなる……!!」


「貴方の事情など、知ったことではありません。では、またお伺いします」


 イヴァンさんは、自分の育ての親であるマリアさんに、胸を張れる人間になりたかった。

 街中で彼女とすれ違ったときに、『立派になったじゃないか』と声を掛けて貰えるような、そんな人間になりたかったんだ。

 この国では、一度奴隷に落ちれば、まず這い上がることは出来ない。


 そんなのは絶対に御免だと、イヴァンさんは街の中から逃げ出した。

 すると、翌日にはステホが使えなくなって、王国中の街に入れなくなってしまう。

 こうなると、スラム街の住人になるか、盗賊になるか、二つに一つしかない。


 立派な人間になりたいイヴァンさんにとって、盗賊になることは論外だった。


「俺は諦めないぞ……ッ!! マリア先生……っ、俺は必ず、立派になってみせるから……ッ!!」


 こうして、彼はスラム街の住人となり、再起を図ることになった。

 しかし、彼の転落はまだ続く。不衛生な環境で病気を患い、怪しげな薬に頼って、快楽に依存するようになってしまったんだ。

 立派な人間になるという目標は、薬の中毒性によってドロドロに溶かされ、イヴァンさんは犯罪に手を染め始める。


 闇市へと赴けば、闇ギルドから幾らでも仕事を斡旋して貰えた。

 どれもこれも、真っ当な仕事ではなかったけど、彼は怪しげな薬を求めて精力的に働く。

 そうして、瞬く間に歳月が過ぎ去り──怪しげな薬の副作用によって、脳がボロボロになった頃、スラム街でマリアさんとの再会を果たす。


「うわあぁぁああぁぁあぁああぁああああッ!!」


 合わせる顔がなかった。すぐに踵を返して逃げ出した。

 立派な人間になる。その目標を思い出して、絶望した。

 今更どうやって、立派な人間になれるというのか……。

 もう、何をやっても遅い。自分の所業が知られたら、マリアさんは酷く悲しむ。


 ──死のう、死ぬべきだ。心の底から、そう思った。

 でも、最後に一つだけ。天上から地獄の底に垂れた、蜘蛛の糸のような話が、イヴァンさんの耳に届く。


「闇商人のノワールは、なんでも売り買いしてくれる」


 白い瞳、黒い肌、切られた耳、スキンヘッドという、異色の女性──ノワール。

 イヴァンさんは最後の希望に縋り、彼女のもとを訪れる。

 ボロボロの脳には、既にまともな言語機能は備わっていない。

 それでも、ノワールは根気強く、誠心誠意、取引相手となる彼の話に耳を傾けた。


「なるほど、委細承知しました。貴方は当方に『自分の全てを差し出す』、当方は貴方を『立派な人間にする』──これで、取引成立です」


 この取引によって、イヴァンさんは更に転落する。

 地獄の底だと思っていた場所には、まだまだ下があった。

 

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