14



 アンナは舞踏会場に現れた。とてつもなく美しい姿だった。白粉と紅は均整のとれた顔立ちをより際立たせ、黒色と白色の見事な襞のついたドレスは、彼女の華奢な美しい輪郭に無駄なく沿い、静謐な優雅さを身に纏っていた。彼女の姿は、文字通り見る者を釘付けにした。彼女の工作は完璧だった。所作にしても、訓練の成果がしっかりと現れていた。どこからどう見ても、大資本家の大事な一人娘が、片田舎から都まで気まぐれに遊びに来たようにしか見えなかった。笑みを扇で隠す仕草だけでも、彼女が日頃から上流階級の者たちのみを相手にしてきたことは明白に見えた。


 私はその様子を液晶の青白いモニターで確認しながら、耳で無線を受け取る。


「やべえな、あいつ」


 ヘンリエッタの、驚きに喉が渇いた声が耳の中に響き渡る。今は嫉妬どころか、あまりの驚きで頭の処理が追いついていないように聞こえる。


 別の声が挟まってくる。


「……だから言ったじゃん。あの子はやれば出来る子なんだって。私は最初から分かっていたわ。他の隊員は信じようとはしなかったけど」


 ガトーの声だ。そして恐らく、ガトーがヒバナに頭を撫でられている、衣擦れの音。


 ヘンリエッタが舌打ちをする音が聞こえる。


「ま、あいつが努力してたのは知ってるからな。その努力を否定するつもりは更々ねえよ。でもな、俺を差し置いて主役になってるのだけは、絶対認めるつもりはねえからな」


 今度は、ハナビの声が響いた。「じゃあリーダーにそう言いなよ」


 ヘンリエッタがすぐに言い返す。


「もう言ったよ! でも、あいつは聞く耳持たねえんだ。全く気に入らねえぜ」


 暫く雑音が響いた後、ガトーの声が聞こえてくる。


「ねえ、都の住民なのに、ヘンリエッタはどうしてそんなにガサツでうるさいの? 他の人達は皆静かなのに」


 ヘンリエッタが怒気を滲ませながら言い返した。


「ああ? 何だとお前、今度会った時覚えてろよ。弓の練習で使ってやるからな」


「あら、怖い」


 モニターの中の彼女は、計画通り鷹派の議員に近づいて、乾杯を交わしている。彼女が都中の人間から愛される例の少女であることは、誰にも気づかれていないようだ。ここまでは計画通り。後は議員を誘惑し、二人きりになる。そして議員の携帯からデータを盗み、こちらへと送る。その後標的を毒で暗殺し、自殺工作をして終わりになる。


 会場の中央で、踊りが始まった。アンナは続々と押し寄せる男の群れを次々に断り、議員の傍から片時も離れなかった。明らかな上玉に傍に付かれて、標的の男も明らかに満更ではない様子を表情に浮かべている。グラスに付けられた口元は、次第にだらしなく緩んだものに変化しつつあり、酒とアンナは良い効果を生んでいた。


 私はアンナが順調に任務を進めているのをモニター越しに見ながら、内心は全く穏やかではなかった。ざわざわとしていて、落ち着かない。そんな自分を隠す為に、不毛な無線内のやり取りに耳を傾けているのだった。


 そんな時、トランシーバから専用の通信が入った。


 カエデだった。


「どうだい、首尾の方は」


 私は答えて言う。震える内心を悟られないように細心の注意を払いながら。


「順調そのものですね。彼女、楽しんですらいるように見えます」


 カエデは何故か、答える前に少し間を置いた。


 やがて声が聞こえる。


「そうか……君の眼にもそう映るか」


 私は言った。自分の心を斬るような気持ちだった。


「……それで、私がやるってことでいいんですよね」


 一瞬、沈黙が流れる。カエデの考えが、それだけで分かった。


 私は言う。「分かりました」


「私はまだ何も言っていないが」


 私は言う。


「じゃあ、なんで私がこんな所で、銃を構えてるんです?」


 カエデは沈黙を繰り返した。普段の彼女からすればあり得ない行動だ。彼女はいつも即断即決で、打てば響くとは彼女の為の言葉であり、それぐらい彼女は迷うという選択肢を持たない人間だった。


 暫くの沈黙の後、彼女は言った。呟くような大きさで。


「彼女は、とても良くやってくれている。実際、今の様子なら、情報を盗み出すぐらい、容易く成し遂げて見せるだろう。……だが……」


 隠そうとしないで下さい。私も隠したりなんかしませんから。そう心の中で思っていた。普段の自分ならば、彼女に対して絶対にそんなことは思わないのに、今は普通ではなかった。普段の自分とはかけ離れた精神状態だった。それはどうやら、カエデの方も同じらしいと、彼女の声音の様子から感じられた。


 暫くして、トランシーバから彼女の重たいため息が聞こえてきた。耳の中の無線機は、まだガトーとヘンリエッタの罵声の協奏が続いていて、私は無線機を耳から離した。


 暫くして、彼女が言った。


「彼女は、本当によくやってくれているんだよ。これは本当だ。私は嘘はつかない。ミーティングで私が言ったことを覚えているか? あれもどれも真実だ。私の心の底からの言葉だ。彼女は実際、訓練を実直にこなし、我々の望んだ通りの動きが出来るようになってくれたんだ……だが、……」


 私は彼女の代わりに、その先を付け足した。


「……だが、殺しはできそうにない、ということでしょうか」


 再びの沈黙の後、やがて彼女は、そうだ、と言った。


「……彼女は、人間を模したチャチな人形ですら、ナイフで刺すことが出来なかった。何度も挑戦していたのを私は見ている。その度に私は、彼女が少しずつ別の存在に成り代わろうとしているのをその背中から感じた。彼女は明らかに変わろうとしていた。それまでの自分から、人を殺すことを覚えた自分へと」


 私は、彼女の話す言葉を黙って聞き続けていた。彼女の恐らく最初で最後の、躊躇を帯びた言葉を。


 彼女は、とカエデは続けた。


「彼女は、やがて力尽きたようにぐったりとして、私のことを見上げたよ。ナイフを持ったまま。そして、何かを言おうとしていた。でも、私には何故か、その眼が、その唇から発せられる言葉が、耐えられそうになかった。私は彼女がいる場所から、逃げ出したんだ。彼女が独りで、今まで経験したことがない事柄に立ち向かっている、その場所から。私は独りにしてしまった」


 その言葉を最後まで聞き終えてから、私は口を開いた。唇を少し、舌で湿らせる必要があった。


「彼女を……」と私の声が私一人だけの部屋の中に響く。それを私は遠くから聞いている。


「彼女をこの任務の中心に据えたのは、あなた自身の為だったのですよね、カエデさん」


 カエデの沈黙は、既に余りにも多くのことを語りすぎていた。その沈黙の口何とかして閉じてしまいたかった。私は言った。「分かりました」


「私はまだ、何も言ってはいないよ、リリィ」


 リリィ……その言葉は、私にとっては今は何の意味も成さない、ただの記号と化している。私は傍の時計を見て、それから、腰を持ち上げて、銃を立てかけている窓の傍へと歩いていった。


「リリィ?」彼女の声が遠くから聞こえてくる。


 私は決められた部屋の窓へと据えられたスコープを覗き込みながら、彼女の最後の言葉を聞いていた。


 私を軽蔑するかね、リリィ。


 スコープの先には、既に、他人の男女のような二人が、唇を合わせて絡み合っている。私は己の唇を噛みながら、彼女の言葉に心の中で答えて言った。


 しませんよ、カエデさん。


 するわけがないでしょう。



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