13



 廃ビルに雨が打ち付け、全体がひっそりと不気味な程に静まり返っている。雨教会の鐘の音が聞こえた気がするが、聞き違いかも知れない。私は中へと入っていった。


 扉を閉めると、雨の音が瞬時に消えた。部屋を見渡してみても、誰の姿も見えなかった。


 気晴らしに来たはずの私だったが、仕方なく傘を傘入れに差し、靴を脱いで部屋へと上がる。誰もいないアジトは雨の音すらせず、よそよそしくすら感じられる。


 いつもヘンリエッタが座る場所に座って、何気なくテレビをつけた。都営放送局は、雨に降られている都の各地の映像を、BGMもなく映し続けている。


 何を考えるでもなく、雨の底に沈む街の様子をただ眺める。雨の底に沈む街々は、私が行ったことのある場所やそうでない場所も含めて、ここではない異国の場所であるかのように感じられる。私が良く行くゲームセンターや、パブも映った。そしてまた、知らない景色へと戻った。


 少し眠くなってくる。瞼を閉じかけたその時、部屋の奥で何かの音が聞こえた。虫のさざめきのような、黒く濁った音が。


 男が顔を見せ、こちらを伺うような素振りを見せていた。


「なんだ、君か」


 カウンターの後ろにいたのは、例のバーテンの男だった。いつも隊員の為に、酒や軽食を作っている、名前も知らない存在。知る必要がないのだから、気にすることはないのだが、何故だか今は、この男が、いつもは被っている匿名の殻を破って、一人の独立した個人として私に向かってきているように感じられる。


 男の目は曇り空のような鈍色で、底の知れない光を湛えていた。


 私は身を起こし、自然とホルスターの拳銃の位置を確かめ、それから手を頭の後ろに回し、男を見据えて言った。


「それはこちらの台詞。いたの」


 男は肩をすくめて、曖昧な笑みを口元に浮かべた。何故か左手に、緑色の酒瓶を持っている。


「ガスの調子が悪くてね。点検してたんだ。どうも雨で錆びついちゃった所があるみたいなんだよねえ。最初から、都の業者の人達に頼めば良かったと、心の底からそう思うよ。防錆加工に関しちゃ、この都の人達の右に出る人はいないからねえ」


「そんなに古いの? ここって」


 男は何故か天井の辺りを見つめた。


「まあ、ねえ。それなりかな。少なくとも、リリィちゃんがいるよりは長いね。初めに作られた時は、私しかいなかったし。何度か爆発したりして、その度に改装してるから、表面は綺麗なんだけど、中身の方がねえ……。まあ、今大丈夫なら、それで良いんだけどさ。


 あ、酒、飲む?」


 酒瓶を持ちながら、男が言う。私は首を振る。


 あ、そう、と男は言うと、男は酒瓶をカウンターの上に置き、再びしゃがみ、カウンターの陰に姿を消した。耳を澄ますと、確かに何かに触れて確かめているような物音が聞こえてくる。だがとても微かだ。


 陰から、男の声が聞こえてくる。


「ねえ、リリィちゃん」


 この男にリリィちゃんと呼ばれることを許した覚えはないが、私は今は置いておいて、とりあえず答えて言った。


「なんだよ」


 テレビの中の景色は、相変わらず雨の底に沈み、BGMも流れていない。当たり前だ。人生にBGMなど流れない。当たり前のことだ。


 一つ聞きたいことがあるんだけど。と、男が言う。私は肩をすくめて、何も言わない。それから少し、長い沈黙が互いの間に流れる。男が出すガサゴソという物音。テレビから出る雨音の中に、雷の音が混じり始める。


 唐突に、男の声が聞こえた。


「あの子に人が殺せると思う?」


 再び、沈黙。テレビから流れ出る雨音は無機質で、冷たく聞こえてくる。雨はもっと、静かで、柔らかく、全てを包み込むかのような音を出す。これは偽物だと私は思った。この都の雨の音なのに。


 私は口を開く。先ほどより、唇が乾いているのを感じる。


「それは、さ、あんたが殺せるわけないって思ってるようにしか聞こえないんだけど」


 男が唐突に顔を上げ、私と目を合わせた。そしてニヤッと微笑んだ。不気味な笑みだった。こういう笑顔を浮かべるある種の人間達がいる。相手を巧妙に選び、苦しめる状況を作り上げ、逃げ場を無くし、ただ被害者が泣き叫ぶだけしかできない環境に置かせ、最後にその断末魔を自分の為だけに浴びせて楽しむような人種が。


 男が言った。牙狼とは似ても似つかない、朗らかな作り笑いを浮かべた顔で。


「そもそも、そうしなくて済むように、君たちみたいな部隊がいるんでしょう?」


 意味がわからず、私は少し時間を置いてから言った。


「どういうこと?」


 いや、ね。と、男はカウンターの陰に再び姿を消し、続ける。点検はまだ終わらないのか? やけに長いように感じる。


 男の粘つくような声が部屋に響き渡る。


「あの子だけじゃない。人を殺したことがないっていうのは。それはさ、あなた達みたいな人殺しを専門とする部隊からすれば、異常ってことなんじゃないの? 補給係なんていう、取って付けたような役職を、わざわざ作って放し飼いみたいにしているのは、自分たちみたいな人殺しの集団でも、誰かに証明できるような善良な人間である証みたいなものを、都の人達に証明したがってるんじゃないか、と不意に思ってね。それがあの子の存在理由なんじゃないか、と。何の汚れも知らない、永遠の雨の都の処女。そうする事で、救われる人間がいないと、彼女みたいな私らみたいな人間にとっての異分子が存在している理由が分からないなって、そう思うんだけど、さ」


 私はカウンターに向けて言う。少し呆れた表情を声に滲ませながら。


「あんたがそんなにお喋りだって知ったら、皆驚くだろうね」


 声音で、男が微笑んだのが分かった。だってね、と男が続けて言う。


「私も、それなりに長いことこの仕事をしてきたんだけど、さ。アンナちゃんみたいな子は、初めてなんだよ。聞いたよ? 補給班として、物資という名の惣菜パンを、皆に配ってるんだってね。でも、受け取らない子もいるみたいじゃない? 趣味じゃないとか、何とかって。まあ、他にも理由があるのかも知れないけどさ。でね、私はそれを聞いて思ったの。あの子、必要じゃないんじゃん、て。誰があの子の役割を作って、擁護しているのかは知らないけどさ、君達だって、本気で彼女の事を排除しようとはしていない訳じゃない? 今回の機密事項の多い難度の高い仕事にあたってもさ。あんなに使えない子が、贔屓されていて、やっぱり私の感覚からすれば、それは無駄な物のように目に映るね。こういう仕事ってさ、一歩間違えばこっちの命が消されるような、そういうデリケートな物な訳じゃない? 色々な物を仕方なく削ぎ落としていって、出来る限り成功の確率を上げていくっていう仕事の内容なのに、その中にやけに悠長な役割の存在がいるなあ、と思ってね。彼女、本当にこの組織に必要なのかな? 私はそうは信じられないんだけど」


 男の言葉を聞いていくうちに、私の胸の底に何か、名状しがたい感情の何かが沈殿していくような気がした。それが一体、何を表すのかは今の私には分からない。だが私は、何かを言わなくてはならないと思った。他の時間ではない、この時間、今の時間に。それが誰のためなのか、分からなくても。


 私は、一度開きかけた口を閉じて、また開けかける。そして、私のことを観察するように見つめてきているいやらしい微笑みを浮かべているバーテンの男を鋭く見据えて、最終的に私は言った。


「私は、そうは思わない」


 男は一瞬、意外な出来事に出会ったかのような表情を浮かべていたが、すぐに例のニヤニヤ笑いを浮かべて、私に言った。


「へえ、そうなんだ」



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