11




 アンナが行きそうな場所は、大体想像がついていた。ビルに囲まれた公園や、人気も名前もない路地。誰も隣に座ろうとしないベンチ。他にも色々とあるが、今の彼女の精神状態で行きそうな場所は、多分あそこだろうと見当がついた。


 雑木林を抜けて歩いていくうちに、雨足は段々と弱まっていく。足元を包み込む泥は少しずつ緩くなり、殆ど液状になっていた。その泥を掻き分けるようにしながら進んでいくと、やがて林の中に、ぽっかりと空いた林のない空き地が見えてくる。


 その場所は、何を目的として作られたのか分かりずらい場所だった。あるのはこの都では非常に珍しい、錆びの浮いた電灯と、素っ気ないベンチが一脚。あるのはそれだけで、他にあるものと言えば、錆だらけで判読のできないかつての案内板が、少し離れた林の中に幽霊のように立っているのが見えるだけだった。


 濡れたベンチに座る彼女の後ろ姿が、まるで何年も前からそこにい続けていたかのように思え、人間というより、何かの銅像のように思えた。


 ここにいるって分かってたんだ。


 向こうを向いたままの、彼女の声が聞こえる。雨よりも薄い、モノトーンのような色の声。声には元気がなく、どこか震えている。


 私はフードを下ろし、彼女の隣に座る。「いると知ってた訳じゃない」


 彼女は私の顔を見ると、静かに目を見開く。


「……鬱陶しいなあ。リリィは」


「君には言われたくない」


 何も言わなくなった私達を取り込むように、雨だけが静かに降り続いている。


 彼女は何も言わなかった。


 私も何も言わなかった。ただ、二人で静かに降り続ける雨の音を聞くだけ。


 ねえ、と彼女が言った。まるで数年前のことを今、思い出したみたいに。


 何も言わずに私は先を待っていたが、彼女は口をつぐみ、そのまま動かなくなってしまった。彼女の方を見てみると、前髪が前に垂れて、水滴で肌に張り付いている。その先から雨の雫が垂れてきている。下を見てみると、私の緑色の傘が置かれている。


 彼女の唇は震えていた。


「叔母さんの手紙のこと、怒ってる?」


 いいや、と私は言う。自分でビリビリに破いた手紙と写真のことを思い出す。


「気にしてない」私は嘘をついた。


 彼女はそのことにも気づいている。気づいていながら、気づいていない振りを装っている。彼女が続ける。「リリィはずるいね」


「何?」


 アンナは俯いていた顔を上げて、私を見た。瞳は雨線を反射して、微かに潤んでいた。


 アンナの声は少し上擦っていた。慣れていない言葉を出すときのような感じで。


「初めて人を撃った時のことを、覚えている? それとも、覚えていない?」


 撃ったよ、と私は言った。撃った。二回ね。


「二回? なんで?」


 私は唇を舐める。地面を見て、そのぬかるみを帯びた地面は、奴隷の時の地面と同じ顔をしていた。


 私は言った。他人事のような口調で。


「一回目に撃った時は、即死じゃなかったんだ。スコープ越しに、相手が腹を抑えてもがいているのが見えたんだ。それで、隣にいた師匠が__もう一発、今度は『ちゃんと』頭に入れるんだと、そう言ったんだ。苦しめないように」


「あなたの『師匠』が、そう言ったの?」


 私はアンナの瞳を見返す。


「いや、本当は、私は撃たなくてもよかったんだ。……本当は。今考えれば、出血で遅かれ早かれ死ぬことは分かっていたし、近くに衛生兵みたいな人影もなかった。戦争じゃないから、そもそもそんな役割はいないも同然なんだけどね……それでも私は、撃った。師匠に言われたからじゃない。自分の意思で。なんでだろう。それが最初に人を撃った日。人を撃って初めて、人から褒められた日でもあった」


 私は空を見上げる。木のない開けた空間に、何もない空が広がっていた。彼女の声が聞こえる。


「『師匠』が褒めてくれたの?」


「そう」私は頷いた。「褒めてくれたよ。さすが、私が見込んだだけのことはある、てね」


「そう」


「……そう」


 雨が速さを増し、音が少しずつ大きくなっていく。体は冷えている。防寒、防水に優れたこのコートでも、生暖かい最後の『古い雨』とはいえ、何分も浴び続けていれば、自ずと熱は奪われてしまう。私は体を掻き抱くようにして、ベンチに両足を乗せ、身を縮めた。


 右半身に柔らかな感触があり、私はびくりと震えた。もたれかかってくる彼女の頭から、密やかな熱を感じる。彼女の長い髪が頬に触れ、私は鬱陶しいと感じている。彼女は囁くような、小さな笑い声を上げた。


「……可愛いね。リリィは」


 案内板は、雨と林の作る暗闇の中で沈みかけている。錆びつき、文字の失せた案内板は、誰のことも導くことはない。私は言った。


「もう帰ろう」


 彼女は返事をしなかったかもしれない。私は自然と電話を取り出して、カエデの番号へとかけていた。電話は繋がった。だが、呼び出し音だけが流れ続けた。プルルルル、プルルルル、プルルルル……。


 気づいたら、アンナの温もりは消えていた。そして、私から少し離れた先、雑木林の中に立って、振り返って私を見ている。彼女が私のことを呼んでいる。


「さあ、もう帰ろうか。いい時間だし」


 私に人が殺せるのだろうか、彼女が本当に聞きたかったのは、その質問だったはずだ。だが彼女は何も言わずに私の少し先を歩いていき、やがて林は終わりを迎えた。


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