10




 初めて人を撃ったのは、私が十四の時だ。


 人は撃たれると出来の悪い玩具のようにぎこちなく踊って、それからすぐ倒れる。撃たれた場所が悪いと、もう動かなくなる。私が撃ったのはそういう弾で、撃たれた人間は二度と動くことはなかった。


「よくやった」と言われ、頭を大きな手で撫でられる。傭兵団のリーダーである彼女の掌は、私の頭を覆い尽くさんばかりに大きかった。


「私の眼に狂いはなかった」


 そう言いながら、彼女は自分の標的に眼を細めて狙いを定め、的確に撃ち抜いた。撃ち抜かれた標的は、痙攣ひとつ起こさず、すぐに動かなくなった。まるで初めから動く物ではなかったかのように。


 彼女が私を買った日、私は自分がもう奴隷ではなく、独立した人格を保証されていると認識出来ないでいた。それは自分が生きていることの最も基本的な証明でもあり、誰に保証されるでもなく、私が私自身を承認する過程でもあった。


 後の師匠となる彼女は、傭兵団のリーダーを務めていた。通称を『牙狼』といい、荒くれ者揃いの傭兵団のリーダーとして、既に何年も前からその名前で活動していた。私は結局、最後まで彼女から本当の名前を教えてもらうことはできなかった。


 名前よりも生き方の方が重要だよ、と、木の棒の先端を小刀で削りながら、彼女は言った。木の先端は光る程磨き上げられ、彼女はその先端を、軽く息でふっと吹きかけていた。それは何かの証のように私には見えた。


 私を見る彼女の眼差しは、とても柔らかかった。そして私の頭を、またあの大きな手のひらで撫でてきて、燃える焚き火の方を見た。そして空を見上げた。空は夜の闇の底に沈んでおり、その中に数えきれない程の沢山の星々が、散りばめられたように浮かんでいた。彼女は焚き火を見ながら言った。


「人を殺すことも、生きることも、その本質に大差はないんだよ。誰かを守るために、誰かを殺すのだという、その一点において」


 その時の私は、彼女が何を言わんとしているのかを、理解することができなかった。その為、私は素直に頷くことが出来なかった。彼女の大きな手のひらが、私の頭から離れた。


 お前はまだ若い、と牙狼は言った。牙狼は二十代後半で、頑丈な筋肉に、肩まである非常に豊かな栗色の髪の毛を持っていた。髪の毛は美しかった。


 彼女は私を見ながら、その先に焚き火の炎の色を見、そしてその先にある筈の物を見ているように見えた。


 彼女は最後に続けて言った。


「お前も、誰かを殺し続けていくうちに、自然と分かってくる。この世界が、どういうカラクリで動いていて、どういう存在を必要としているのかを」


 彼女のその言葉は、確かに現実の物となった。私は誰かのことを殺し続け、何度も殺されかけた。ナイフで刺し、抉り殺したこともあり、誰かの血を浴びて、その汚れが中々取れない事も知った。色々な事を知った。血を浴びると、動物が嫌がるということも。


 時が経つにつれて、私がリコイルに苦労することはなくなった。いつの間にか銃やナイフ、戦闘服などが自分の肉体の一部に感じられるようにすらなっており、それらが傍にない時や、無造作に他者から触れられた時などには、心が激しくざわめいた。


 あの日、02号ではなく45号である私が選ばれた理由。私は新しく名前すら与えられた。彼女は、買い手の中で最も高い値段を提示した。そして私が付けられた名前は、リリィといった。聞いたことのない名前だった。名前の由来を彼女に聞くと、彼女は笑いながら、自分が今まで見た中で一番美しいと思った花だったからだそうだ。大分時間が経ってから、たまたま花言葉を調べることにハマっていたアンナから聞いた意味は、どれも私には勿体無く、綺麗すぎるように感じた。首を振る私に、アンナは言ったものだった。


「これを読む前から分かってはいたけど、確信したよ。あなたに新しく名前をつけてくれたその人は、あなたの事を世界で一番大事に想ってくれていたんだってこと。私、そういう勘だけは鋭いんだから」


 かつて、肉親からつけられた一番初めの名前を、私は思い出すことが出来ないでいる。


 雨が降っている、気がする。いや、違う。牙狼との日々は、その殆どが乾ききった荒野が舞台だった。雨が降る事など滅多になく、私はあの日に降った雨のことを、恋しく思っていた。


 傭兵団に入って、二年が経党としていた、そんなある日のこと。私は牙狼に呼び出された。とても風が強く、テントの布は音を立てて激しく揺れ動いていた。


 牙狼はテントの中にいた。背中をこちらに向け、何故か、布を畳むような不思議な動きをしている。私はその巨大な背中を見つめている。締まった筋肉に覆われた大きな背中の上に、綺麗な長い栗色の髪が流れるように落ちている。


 彼女は私の方を振り返り、柔らかい笑みを浮かべていた。その手にはとても長くて大きい銃が置かれていた。彼女はそれを、私のほうに差し出してきた。彼女が言った。


 ここに来て二周年の、少し早めのお祝いだ。今度の仕事で、使ってみるといい。


 黒く鈍色に光るそれは、既に私の為に幾つものカスタマイズが為されていた。それは軽く握るだけで、まるで初めから世界のどこかで私が握ることをずっと待っていた物であるかのように、深い感慨を私の中に起こさせた。引き金までの私の指との距離は近く、殆ど引き金に触れるだけで、どんな相手ですらも一瞬で吹き飛ばせそうな気すらした。


 牙狼は私の様子を見てか、とても嬉しそうな表情を浮かべていた。私がその銃を、どのように捉えているのかも知っているようだった。


 彼女は言った。


「それなら、何人でも殺せるだろうな」


 それは、お前の手の届く範囲であれば、お前が救いたいと思う人を救う事もできる、その為の道具でもあるという意味にも私にはとれた。その時には既に私は、彼女が何を感じ、何をどう思っているのか、そして次に何をしようと思っているのか、手に取るように分かるようになっていた。それはあまりにも長く濃密な時間を、彼女と共に過ごしてきた証とも言えた。それは一種の悲しみにも似ていた。


 彼女には、私が人間として生きていくために必要な、あらゆることを教えてもらった。読み書きを教えてもらい、物を愛することを学ばせてもらい、そして、本当の自由とは何かということを、最後に教えて貰えた。それら全てを惜しげも無く与えても、何一つ失う物など持たない、世界で唯一無二の、傭兵団の頭。牙狼。いや、人生の師匠であり、本当の親。


 その日、私は彼女のテントへと向かっていた。ある目的を果たすために。とても底冷えのする、怖いほどに星が瞬いている、深い夜だった。テントは残り12歩もない程だというのに、私の足は、ホルスターの重みばかりを気にして、それ以上先に歩こうとはしてくれなかった。


 風が私を後押しした。何故か不気味にも、私ばかりを狙って吹いてきているような、一直線の追い風。私はその風に押される形で、彼女の眠っているテントの中へと向かっていった。


 テントに入った時、彼女は仰向けになって、眠っていた。大きな体だった。肩まで筋肉で覆われていて、太ももは太く硬そうに見え、ただ胸も巨大で、今は扁平に横に流れそうになっていた。寝顔はまるで少女のように幼く、無防備に見えた。


 私はホルスターから真新しい銃を抜き出し、彼女に向けた。彼女は尚も眠っている。私の気配にも気づかずに。牙狼が、そんなことがあるだろうか? 彼女が女性で、男ばかりの傭兵団で頭を張っていられるのは、その天性の危機察知能力があるからだった。どんな人間でも動物であっても、彼女の半径十五メートルに彼女に全く気付かれずに侵入することは不可能だった。そしてその膂力と戦闘能力の前に、あらゆる敵は打ち負かされることになる。私も含めて、そうである筈だった。そうである筈なのだ。だが、彼女は今、何故か警戒もせず、私の前で、無防備な仰向けの姿で、私の手によって殺されようとしている。人は、動物は、頭に一発鉛玉を打ち込まれるだけで、全ての意識を消失し、生命としての歴史を終える。その理に例外はない。誰一人として、その理から外れることは許されない。それが例え、傭兵団一、いや、世界で一番強力な人間であったとしても。


 私の銃口は、自分でも分かるほど、震えていた。他の傭兵団から渡された、暗殺用の特別な拳銃は、私の手に全く馴染んではいなかった。それは他人の手を握っているようなものだった。私の手はぎこちなくグリップの上を彷徨い、そして、人差し指はいつまでも引き金の後ろ側に置かれていた。まるで引き金に指を置くことを怯えているかのように。


 彼女は寝相を打った。大きな体が横向きになり、少女のような幼い顔つきが側面を向く。私は彼女に銃を向けたまま、思う。


 今から私は、あなたの事を殺すつもりでいます。あなたがどんなに抵抗しようとも、最早私には選択肢というものが存在していません。私はあなたを殺す事でしか、私自身をこの世界から解放させることができないのです。


 牙狼。あなたは後悔するでしょうか。私が、他でもないあなたから惜しげもない愛を頂いた私が、仮初の自由を手に入れるために、あなたを殺そうとすることを。


 私は、私は……。


 ……私は……。


 その時、一陣の風が吹き付けた。私の背中を押した。そして、前のめりになった私の手のひらの人差し指は、引き金の位置に置かれていた。銃は、彼女の頭に真っ直ぐに向けられていた。牙狼は起きていた。起きていて、今、彼女はいつものように例の底知れない微笑みを浮かべて、挑戦的な瞳で私の顔を見つめてきていながら、私の持っている銃を、その銃口を、自分の額へと押し付けている。


 彼女は微笑っていた。私のことを見て、慈愛の表情を浮かべて。そして、乾いた唇が上下に動く。私はその唇の動きを、最後まで目で追っていた。


 そして彼女は、最期の言葉を、私に託した。


「いいんだ、リリィ。お前は、自由を見るだけの権利を持っている。かつての私と同じように。さあ、撃て。リリィ。お前が、自由というものを自分の手で手に入れる為に」


 次の瞬間には、彼女の頭は、ガクンと後ろへと下がっていた。彼女の額には、真ん中に穴が空いており、その穴から赤くて濃厚な液体が、音もなく流れ続けていた。彼女の瞳は虚空を見つめ、彼女の表情は微笑っていた。


 彼女の大きな指は、私の上から重ねられ、引き金を握っていた。



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