雨が上がったような気がした。そんな気がしたのだ。


 瞼を持ち上げる。とても重い瞼。ゆっくりと持ち上げていくにつれて、鈍い色の世界が取り戻され始めていく。私は干からびたコウロギのような気分で、身を何とか起こし、自分の上に掛かっている何かを見た。外套だった。


 聞き取れない程小さな声が、傍でして、私は目を向ける。


 アンナが横に座り、私と同じように頭を寝かしていた。


「やっと起きたんだ、リリィ。ねえ、うなされてたよ」


 私は、彼女が横になることで目立つ、胸に出来た小さな膨らみを見た。ワンピースが黒色に変わっている。私は言った。


「服、着替えたの?」


 彼女ははにかむように微笑った。


「まあ、ね。気分かな。で、そっちはどうだった? 次は面白い仕事になりそう?」


 補給班のアンナには、原則として任務の内容が話されることはない。情報漏洩を防ぐためでもあるが、そもそも、彼女に話しても意味がないということも理由の中にはある。


 私は深く息を吐いてから、何気ない口調を装いながら言った。下手な芝居だと思った。


「次の仕事は……うん、まあ、とりあえずは爆弾とか銃は使えないかな。いや、使わないと言った方が正確か。それで、そう……うん。アンナに用があるって、皆」


 アンナが息を呑んだのが分かった。


 彼女の呼吸が整うのを待って、私は黙っていた。


 やがて彼女の囁くような声が聞こえてくる。


「うん……、それで?」


「うん、それで」と私は言う。


 彼女は身を起こした。黒くて長い髪が、視界の隅で林のように揺らぐのが見える。


 彼女は待っている。私が次に言う言葉を。私はそれを拒否したかった。光を見るのが怖い悪魔の子供のように、今は彼女の事が恐ろしかった。


 意を決して、私は口を開いて言った。彼女がゆっくりと咀嚼できるようにと、心の中で祈りながら。


「実は、次の仕事は、君の担当なんだよ、アンナ」


 彼女が纏っていた輝きが、その私の一言によって、急速に淀みを帯びていったのが分かった。彼女の瞳は焦点を失い、床のどこでもない場所を彷徨っている。


 大丈夫、と声をかけようとしたら、突然彼女は、傘もささずに椅子から飛び降りた。


 その顔は微笑んでいた。だが、口の端は歪んでいて、私はそんな彼女の姿を見ていられなかった。私が顔を逸らすと、彼女の強がっている声が聞こえ、私は静かに息を吐いた。


「じゃあ、さ。せいぜい頑張らないとね、私」


 私は何を言えばいいのか分からず、ただ雨に打たれて踊るように回っている彼女の、強がっている微笑みを眺めていた。私は何も言えなかった。彼女に言える事は何もないような気がした。


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