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『拝啓 リリィ様
今日も日差しが強く、晴れ渡った空模様です。水や炭酸で割ったジュースがとても美味しい、晴れ晴れとした陽気です。そちらはお変わりありませんか。私はとても元気です。久しぶりにあなたの顔が見たいと思って、アルバムを開いて、あなたの子供の頃の姿などを見ていました。あなたは幼い頃から、左頬の上に小さな泣き黒子があるのですね。今も変わらないのかしら。とっても気になります。
私ばかり、毎日遊び歩いていていいのかしら、と、私は気になっています。あなたはどうですか。最後にお手紙を送って頂いたのが、二、三ヶ月前になるでしょうか。何もお変わりなく、健康でいて下さってくれているのであれば、本当に幸いです。
プランターに巣を作ろうとしていたカワキドリが、毎日夫婦で時間を共にしています。最近、夫のほうが留守がちになっているなと思っていたら、どうやら卵を産み落とした奥様のために餌を探しに行っているみたいです。あと少しで可愛い雛の姿が見られそうです。雛がかえったら、また写真に撮って一緒に入れておきますね。
仲のいい姿というのは、とてもいいものですね。
あなたの立派になった、元気な姿を瞼の裏に描きながら。
敬具
追伸
そちらでは雨の季節が移り変わる時、街全体でお祭りが開催されると知人から聞きました。あなたも見に行かれるのでしょうか。その時はどうかお気をつけて。もしよければ、お祭りの写真も入れてもらえたらとっても嬉しいです。厚かましいお願いをしてしまって、本当に駄目な叔母ですね。あなたの健康をいつもお祈りしています。』
アンナが次の仕事の担当に決まってから、丸三週間が経っていた。そして、古い雨が終わりに近づき、新しい雨に備えた祭りの準備が都で静かに進められる中、私は毎日任務の細かなすり合わせの会合の他にやることもなく、今日はこうして叔母から届いた手紙と写真を見、珍しく返事を書こうとしていたのだった。
手紙と一緒に同封されていた写真は、叔母が知らない高齢の女性と頭をくっつけ合いそうにしながら笑顔でピースを向けている写真と、例のプランターに巣を作りだした鳥の、恐らく雌と思われる鳥の斜め後ろから撮った凛とした佇まいの写真の二枚があった。この鳥がカワキドリか、と私は思い、鉛筆を頭にゴリゴリと押し付けながら、何も書くことが思いつけずにいる自分に少し苛立っていた。
コーヒーでも淹れよう。気分も変わるだろう。
写真の中の叔母は、送ってもらう度に、本当にどこの誰だか分からなくなる。
コーヒーメーカーのスイッチを入れる。壁の中でタービンが回る音がする。
この叔母は、一緒に暮らしていたことは恐らく一度もない。ただ、幼い頃の写真を持っているということは、まだ私の家が借金まみれになる前にうち両親と交流があったということなのだろう。彼女の顔は朧げにしか覚えていない。短く刈り込まれたカールした銀色の髪、丸い貝のような大きなピアス、こけた頬の目立つ細面な顔の中に無造作に置かれたような、異様に力強い瞳。彼女はお金持ちだった。確かそんなような記憶がある。
夫が資産家で、ただ私の家が借金まみれになり始める前から、金銭的に助けようとはしてくれなかったみたいだった。母の愚痴からの推測でしかないが、彼女は事あるごとに「誰も助けてくれない」と言っていたから。今はどうしているのか全く分からない。私を売った人。
コーヒーが入った。カフェインとアルコールの摂取で心が浮き立ってしまう私は、うずうずする身の内側を抑えながら、冷静にコーヒーをテーブルの上に置き、それからカップに移し、一杯飲んだ。
アンナはうまくやれているだろうか。
ミーティングによれば、アンナは雨転祭に合わせた大きなパーティに外国の投資家の娘として参加する。そして、その出席者の中の鷹派政党の中心人物、Nに接触し、彼が影で麻薬事業や人身売買で儲けを出している噂を確定させる為、現場を映像に収めるというものだった。聞けば聞くほど、アンナには荷が重い。パンを配ることすら満足にできないというのに、パーティか。
荷が重い。叔母宛ての手紙を嘘でも良いというのに一行も書けない気持ちと、どちらが重いだろうか。
窓ガラスの向こうに沈む早朝の街の陰から、強い横風に煽られた雨が勢いよくガラスを打ち付け、雫を垂らしている。遙か彼方から雷の音が聞こえてくる。今日は酷く荒れた天気だ。珍しく雨の都が騒がしい。
ピン、ポーン……。
インターフォンが鳴った。「誰?」と聞くと、聞き知った声で、「私。アンナ」と返ってきた。
私は立ち上がりながら、静かに息を吐いた。それから扉を引いた。
見ると、彼女のようなものがそこに立っていた。
「……誰?」
その女性は、真っ白なスリットの入ったドレスを着ていて、髪を左で団子型に纏めている。宝石のような輝きを放つ髪留めに、上品にはたかれた白粉、そして蠱惑的なまでの真っ赤なルージュ。ただ、高いピンヒールの分を差し引いた身長だけはどこか慣れ親しんだものだった。
「アンナだよ。失礼ね」と女性が口を開いた。真っ赤なルージュが小さく蠢く。
かろうじて私は言い返す。動揺が声音に表れていた。
「……化粧で変わるって言われない?」
彼女は微笑んだ。
「言われる。というか、他の隊員全員から言われた。ねえ、入っていい? 化粧落としたいし、ずぶ濡れなんだ」
「どうしてウチに来たの?」
私がそう言う間に、彼女は私の傍をすり抜けて真っ直ぐバスルームへと向かっていく。射出するように脱ぎ散らされたピンヒールの真っ白な靴が、コトコトと音を立てて裏返った。私は外に首を出し、周囲を確認してから扉を閉め、鍵を閉めた。
振り返ると、アンナのドレスが既にバスルームの外にぞんざいに脱ぎ捨てられていた。
私はたまらず口を開いた。
「これ、任務で使うやつじゃないの?」
「え、なに?」
私は少し声を大きくする。彼女が浴びるシャワーの音と、タービンの回転する音が壁から聞こえてくる。
「これ、任務で使うんじゃないの? 脱ぎ捨ててるけど。汚れるよ」
彼女の声がシャワーの音の間から返ってくる。
「どうせクリーニングするから。靴も掃除するし。でも練習用だし、本番で着るかどうかも分からないの。まあでも、多分着ない」
彼女の軽い声音はどこかいつもよりも大胆で、高揚しているように感じられた。私は床の上でぐったりとしている真っ白なドレスを拾い上げると、衣装箪笥の中から余っているハンガーを一本抜き取って、その中に掛けた。
始め、絹だけと思っていたそのドレスは、近くでよく見てみると明らかに名のある職人芸と分かる緻密な刺繍が隅々に施されている。加えてとても小さな宝石達がビーズのように贅沢に襟や裾の周りに散りばめられていた。
彼女がこのドレスを余りにも自然に着こなしていたことを思い出し、その自然さに私は驚いていた。彼女が立っている間も、そのドレスは彼女の纏う淡い穏やかな雰囲気を崩さぬようにと気を配りながら、輝きを内に秘めているようにすら感じられたのだった。
バスルームから音が止んだ。彼女がタオルで体を拭いている気配が伝わってくる。
そしてその時、私は気づいたことがあった。それを口にする。
「……ねえ、代えの服持って来てるの?」
ピタ、と部屋の中から音が止んだ。どこかで雷が落ちた。雨がびしゃびしゃと窓を叩き、バスルームの下から漂ってくる湯気の熱が、音もなく室内を満たしていく。
私は頭を掻いた。
二人とも何も言わない無言の時間が暫く続いた後、漸く彼女の控え目なくぐもった声が聞こえてきた。
「服、貸してくれない?」
私は何も言わずに、箪笥から下着と上着を抜き出した。
私の服を着て、アンナはバスルームから出てきた。どこか落ち着かなげに、Tシャツの襟の辺りを引っ張ったりしながら。私の部屋着のホットパンツと大きめの白いTシャツが、彼女の華奢な体にピッタリと沿っているように見える。私は言う。
「似合わないね」
やっぱり? とでもいうように、彼女は自分の体を見下ろし、後ろを気にするような素振りを見せる。穏やかな混乱、といった風情で。
「短すぎない? このパンツ」
「あるだけありがたいと思って。というか、初めから私の事を当てにするつもりで来たでしょう。ありえないから。私もそんなに沢山代えの服を持ってるわけじゃないから、すぐに洗って返してよね」
アンナは少し不貞腐れたような瞳を私に向けた。
「まあ、返すけど。でも意外。リリィって戦闘服しか持ってないのかと思ってたから。結構年相応の女の子の服って感じ」
「それ、男用のだけどね。この都で買ったのじゃないけど」
「ホットパンツも?」
私は溜息をつく。
「それは結構古いかもね。コーヒー淹れるわ。飲む?」
アンナは玩具のように勢い良く頷く。「飲む」
コーヒーを淹れている間、雨音はますます激しさを増していき、時折訪れる雷の音と壁の中のタービンが回る音の他に、部屋には音がなかった。平たく言えば、二人とも何も話さず、アンナの方を振り返って見てみれば、ピンと伸ばした自分の生白い脚を、まるで他人の物であるかのように珍しげに見つめている。
ふ、と息を吐く。コトコトとコーヒーメーカーがお湯を落としていく音。壁の中でゴロゴロと蠢くタービンの音。窓に打ち付けるパラパラ、サーサーという、激しい雨足の音。彼女の呼吸。時折つかれる、溜息の音。
そうした音の協奏曲が何周か過ぎた後で、とても自然に、私は口を開いていた。
「最近、どうなの? 上手くいってるの?」
無論、任務の話だ。
だが彼女は、これから恋人の話でもするかのように、目を爛々と輝かせて、見ていた私と視線を合わせた。
「うん、十分過ぎるほどにね。十分過ぎるほどって自分では解ってるつもりなんだけど、最近なんだか変な感じなんだ。なんか、自分の中の別の自分が、私の中を乗っ取ろうと頑張ってるみたいな感じで。変かな」
変だよ、と言いそうになるが、私は堪える。密かに、気づかれないように。
君は補給班のアンナなんだ。か弱い、頭の弱い女性。都の民衆から天使のような扱いを受ける、特別な女の子。でも、そうは言わない。目の前で頬を紅潮させ、瞳を輝かる彼の少女に、わざわざそんな氷のように冷えた水をぶっかける勇気は、私にはなかった。
返事の代わりに私は言った。
「その服は似合ってないけど、さっきの服は似合ってた。あれならどんな男だって落とせそう」
「ほんと?」
彼女の声がワンオクターブ上がる。色調が変化し、明るくなり、空の色を取り戻す。
私は義務のように感じながら、返事を絞り出す。「ほんとだよ」
「リリィがそう言ってくれるなら、どんな仕事だって上手くやれそうな気がする」
的を誘惑し、その携帯からデータを盗み、最終的に自殺を装った暗殺をする。そんなことが本当に、彼女に可能なのだろうか。カエデの判断は間違ってはいないのだろうか。
コーヒーが入り終わり、私は透明なカップを持ってアンナの元へ向かう。冷蔵庫から牛乳を乗り出す。頭の中で、呪文のように言葉を繰り返す。砂糖二杯、牛乳約百ミリリットル、砂糖二杯、ミルク約百ミリリットル⋯⋯。
「あ、砂糖いらない。牛乳も少しでいいから」
変わって行こうとする女性が今、目の前にいる気がした。彼女はいつの間にか私の座っていた椅子に腰掛け、私の叔母からの手紙と写真を眺めていた。
「これが、例の叔母さん?」
彼女の言葉を聞き、姿を目にした瞬間、私の中に理由の分からない何かの感情が怒涛のように湧き上がった。そして私は、その感情に促されるままに、勢いよくカップとミルクの入った容器を置き、それから彼女のいる机の方へと歩いていく。
そして、彼女が目を輝かせながら読んでいる手紙をひったくると、その場で細切れになるまで破り捨てた。ついでに、机の上に並んでいた、叔母の映った写真も。
「何してるの!」と彼女が言った気がする。そして、私はそれに答える形で、自分の記憶に残らない言葉の数々を、彼女の心にぶつけていった。切り刻むような言葉を選び、そういう口調で。
彼女は暫く、目を丸くして、何を言われたか分かっていないような表情を浮かべていた。だが、やがて淡い美しい翠色の瞳の縁に水滴が静かに盛り上がり、満たされていくのが見えた。私は目を逸らし、コーヒーの方を向いた。頭の中で、呪文の残滓が鳴り響いている。砂糖二杯、ミルク約百ミリリットル……。
彼女はホットパンツとTシャツの姿のまま、裸足で部屋から出ていった。扉がけたたましい音を立てて閉まり、後に意味のない静寂だけが残った。
独りになり、私は呟く。
なにやってんだ。
師匠が笑う声が聞こえた気がした。遮る物がない、ただただ純粋に喜びを語る笑い。空を笑うような声。
ビリビリに破かれた手紙と写真を見つめながら、私の呟きは雨滴のようにポツリとどこかに染み込み、音もなく消えていった。
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