ポイントはシーソーゲームのように行ったり来たりした。その中心は奴隷45号と02号という、痩せぎすの少女二人だった。


 何人もの少年少女達が、いつの間にか降り始めた雨によってぬかるんだ地面に投げ飛ばされ、そこには厳密なファールなど存在せず、ただただ互いのゴール目掛けて突進し合い、そして数十ポイントを重ねる内に誰もが気がついた。ボールを、最もシュートの上手い奴隷へと渡す方が効率的なのだと。最初は皆、結局は自分が誰よりも抜きん出る必要があるのだと思い、一度ボールが自分の元に渡ったら、中々他の奴隷には渡そうとしなかった。だが、奴隷達はポイントが重なるにつれて、明らかに競技性を深く理解し始め、勝つために合理的な選択を行うようになっていった。彼らは明らかに勝ちたがっていた。勝利を得るための選択を選ぶようになっていた。


 次第に雨が強まっていった。ポイントは互角。互いに目を向けあえば、肘をつき、隙があれば投げ飛ばし、泥の跡が付いていない者は、私と2号以外にはいなくなっていた。2号が駆け出した。フリーになる。私はディフェンスの為に食らいついていく。


 どこでそんな俊敏性を備えたのだろうと思うような、細かいステップで2号は私を翻弄する。その度に、裸足の足にドロドロの土が絡まり合い、細かな泥の飛沫が上がった。


 2号にボールが渡る。私は間一髪の所でそのボールを遮ることが出来なかった。2号が悠然とボールを数回ドリブルし、私達に余裕を見せつけるかのようにゆったりとボールを放した。そしてボールがネットの中に吸い込まれていった。


「審判!」


 と私は言った。いつの間にか笛の男は、私達の中で正式な審判とされていた。


 男は黙って私の顔を見つめ、先を促すような眼をしていた。私は続けて言った。


「今、一番点を取ってるのは誰?」


 男が答えた。


「02号だ」


 私が言った。


「何点差?」


 男が答えた。


「五点だ」


 私は最後に頷いて、言った。


「わかった」


 試合が終わるまでに、残りの猶予ポイントがそうないことは承知していた。私の中で、何かが目覚めようとしていた。それは自分が奴隷であることであるとか、実の親から金貸しに売り飛ばされたことからくる悲しみや驚きであるとか、世界が持つ残酷さであるとか、自分以外のもの達全てに対する恨みであるとか、ふと空を見上げた時に思いがけず胸に去来してしまう感情や現象達とは無縁の何かだった。


 ただただ私は興奮していた。ただただ目の前に聳え立つ難敵を打ち負かしてしまいたかった。その為にはボールが要る。ボールと、自分の為に動く仲間と、そして、自分の身体だ。この世界でひとつしかない、唯一の寄る辺となる己の為の動く巣だ。


 私は走り始めた。02号の姿を視界の隅で常に捉えながら。私にボールが渡る。すかさずドリブルを開始する。02号の前に他の奴隷達が立ち塞がり、私を転かそうと腕を持ち上げている、その脇をするすると通り抜けていく。歓声が上がる。顧客達が自分達の競技の行方を注視しているのが見なくても伝わってくる。私がスリーポイントが狙える位置まで立とうとすると、目の前に彼女の姿が立ち現れた。


 彼女が、私にだけ聞こえる声量で何かを言った。


「……ねえ45号。あなた、何か欲しい物でもあるわけ?」


 私は無視して、ドリブルで彼女を剥がしにかかる。彼女は話しながら、余裕のある声で話し続けてくる。


「私はあるよ。さっき男から殴られた時、私の心の底で何かが目覚めたんだ……おかしいでしょう? でも、本当なんだ。私が欲しいものは、あんたがいると手に入らないんだ。私がここから抜け出して、仮初でも良い、束の間の自由を手にする為には。……ねえ、聞いてる?」


 私はドリブルを繰り出しながら、02号の間でシュートが出来そうな隙を伺う。私は息を整えながら言う。ちら、と2号の翠玉の瞳を見つめながら。


「君は綺麗な顔立ちをしているから、多分娼婦になると思うよ。私は違うけど」


 02号は歯のない笑顔を見せる。カラカラと笑う。


「何、それ? ねえ、これまで売られていった他の奴隷達のことでも気にしてるの? 選ばれた奴はそんな他の選ばれなかった奴らのことなんて気にする必要なんてないんだよ。たとえば私とかね……ねえ、あなたの目的は何? いい加減教えて欲しいなあ。さっきから鬱陶しいんだよ。こそこそ動き回っててさ」


「私は」


 私は2号の鳩尾に勢い良く蹴りを喰らわせて、泥のぬかるみの中に横たわらせてやった。02号が、初めて泥の中から屈辱に堪えた眼で私のことを見上げている。


 私は言った。スリーポイントを狙い、最後のシュートを放ちながら。


「……私は、ただ、目の前にあるものを諦めたくないだけよ」


「ふざけるな! そんなしょうもない理由で、私の前に立ち塞がるな! 糞女が!」


 02号の叫びを背中に帯びながら、私の放ったボールは相手のゴールへと音もなく吸い込まれていった。金網の向こうで一際大きな歓声が上がり、そして、笛が鳴らされた。


 長い長い試合が終わったのだ。




 私と2号は、力尽き横たわっている泥の中の他の奴隷達を肩を貸して起こしてやりながら、男の前に横並びに整列した。死屍累々とまではいかないまでも、ここ数日の間に供された豪勢な食事がもたらしたエネルギーを全て使い果たしたのは間違いなかった。誰も口を利こうとはしなかった。そして男が言った。


「勝者、赤チーム。得点王、02号。赤チームはシャワーと食事が与えられる。そして顧客のために、後で金網の前に整列するように。青チームの者たちは地下へと戻れ。以上だ」


 02号が、肩を貸していた奴隷を地面に落としながら、請いたげな目で男を見つめて言う。


「審判、褒賞は? 私、MVPになったんでしょ」


 男が02号の方を向いて、何故か何度か瞬きをした。いや、そんなことはなかったかもしれない。いずれにしろ、男は間を置かずに彼女の質問に答えて言った。


「MVPに選ばれたものには、特別に鎖を解かれ、自身で優先的に顧客を選択する権利が与えられる」


「やった!」


 02号が両手を上げて子供のようにはしゃいでいる。私は体が動かしたくても動かせない。信じられない思いで、飛び上がり喜びを全身で表している02号の背中を私は見つめた。


 だが、男は言った。


「MVPは、45号、お前だ。後で足の鎖も解いてやる。それからシャワーを浴びて、服を着替えて金網の前に並べ。以上だ」


 先程まで朗らかな空気に包まれていた02号の周りの空気が、急激に萎み始め、どす黒い色を帯び始めたのが私には分かった。それは重みを帯び、私を含めたここにある全ての物、いや、世界全てに対して向けられている感情のように私には思えた。


 02号の押し殺されたか細い声が、小さく開けられた唇の間から漏れ出ていた。


 彼女は言っていた。殆ど泣き出さんばかりだった。


「……どうして……どうして?」


 男は無表情で彼女の様子を観察するように見ている。どこか退屈そうな目で。


 彼女はついに叫び始めた。


「どうして! どうして、私じゃないの? こんな奴より私は沢山点を決めた! 誰よりも活躍した! なのに、どうして? 他の使えない奴隷達抜きで、私だけで成し遂げたのに! 私がMVPじゃないなんて、おかしい。おかしいよ!」


 男の声音の中に、その時初めて冷淡さと呼べるような感情が含まれているのを私は感じ取った。だが男は至って冷静な口調で続けていた。


「おかしいのはお前の方だ、02号。奴隷の分際で、顧客達の評価にケチをつけるな。これは彼らの総意だ。文句があるなら、顧客達に対して言え。もっとも、彼らはお前の言葉など聞く耳を持たんだろうがな」


 男はそう言うと、漸く面倒な仕事が終わったとでも言うように、肩を回しながら奥にある施設の方へと歩いていった。恐らくそこにシャワー室があるのだろう。


 私も歩き出そうかと、思案していると、負けた青チームの奴隷達が従順に地下牢へと歩いていく中、彼女の姿だけはそこから動くことがなかった。彼女はじっと俯き、そこにある筈の物を見つめていた。真っ赤な充血した瞳が、ここからでも見えるかのようだった。私は歩き始めた。雨は既に上がり、終わりかけている太陽の弱々しい日差しが、地面のぬかるみの滴を静かに光らせていた。そこに音はなかった。ただ世界は沈黙していた。


 私はその日を最後に、奴隷の名前である45号という名前を捨てることができた。


 買い手が運転する車の荷台に揺られながら、私は過ぎゆく何もない荒野を見つめていた。02号の後ろ姿が、まだ瞳の奥に焼き付いて、離れようとしなかった。私は荒野を見つめて、それが薄まればいいと思った。だが最後までその願いは果たされることがなかった。今でも私は、彼女の後ろ姿の夢を見る。そこには何もなかった。計り知ることの出来ないほどの、憎悪以外は。



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