ヘルハウンド討伐2

 周辺には、モンスターの潜める空間はさほど多くはない。

 峠なのだから高所であり、登り切ってしまえば周辺を見渡せる。そしてヘルハウンドはその特徴的な黒い巨体と威圧感で、そうそう隠れ潜んでもいられない。

 問題はそこまで行けば、もちろんこちらも見られ放題であることで、その巨体が馬より速い俊足で迫れば、こちらのオーバースラッシュが先に届いたとしても勢いを殺しきれない、ということ。

 さっきのように、いきなり初手で相手の目を奪うといったラッキーはそうそう期待はできない。

 そもそも狙い通りにピタリと切れるわけでもないのだ。

 僕の剣がほぼ剣術とすら呼べない我流だというのもあるが、だいたい10メートルも離れると、縦斬りを突っ立った人間に当てられるのは三割か四割……という程度にブレてしまう。

 それ自体は斜めや横斬りである程度はカバーできるが、この精度ではモンスターの特定部位、それも特によく動く顔に正確に当てるのは厳しい。

 ……できれば発見時、まっすぐ突っ込んでこられないような遮蔽物があるとベターだな。立ち木の一本程度でもいい。ストレートに突進されないだけでもかなり楽になる。

 できれば、あの巨体では追ってこられないような狭い岩の隙間とかあると助かるんだけど……と、横目で理想の避難場所を求めつつ、ヘルハウンドを探してゆっくりゆっくりと進むこと、しばし。

 ……峠の真ん中に差し掛かり、向こう側をそっと見渡し……そちら側がこっちよりずっと見晴らしがよく、黒い巨体が見えないことを確認してホッとしてしまい、いやいやつまり奴は峠を越えていないってことだ、と気を引き締める。

 つまり背後。峠のこちら側の、まばらな林のどこかにいる。

 思ったより行動範囲が広いということだろう。モンスターは主に人間を狙うので街道筋付近に必ずいるはず、と勝手に見当をつけていたけど、もっと道を外れた場所に餌をあさりに行ったのかもしれない。

 ……となると。

「ユーカさん、大丈夫かな」

 勝手に安全な場所と思って置いてきたユーカさん(と、荷物)の位置も怪しい。

 急に不安になって僕は剣を鞘に……いや、さすがに納めてしまうのは怖いので、逆手に握ってユーカさんの元に駆け戻る。


 果たして。

「……まさか」

 ユーカさんは、そこにいなかった。

 乱雑に暴かれた荷物袋は、しかし魔物の仕業ではない。おそらくはユーカさん本人が何かを取り出した跡だ。

 そして地面には木切れか何かで描かれたと思われる矢印。

 ……あの人。

「自分が弱くなったってことは自覚してるくせに……!」

 何のつもりなのかはわからないが、おそらく……ヘルハウンドが片方しか出てこなかったのは、あの人の仕業だ。

 僕を信用していなかったのか、あるいは暴れたかっただけなのかはわからない。

 でも、僕と違ってオーバースラッシュひとつに数分も溜めなければいけないのに、単身かつロクな武具もなしに、ヘルハウンドに挑むのは自殺行為だ。

 すぐに追わなきゃ、という思いと、もう手遅れかも、という思いが一瞬だけ拮抗して、それでも振り払って僕は矢印に従い、走る。

 荷物袋から何を抜かれたのかはわからないが、確かめている暇はない。


 そして、数百メートルも走ったところで、その光景が見えてきた。

 黒の巨体と、赤い髪の小さな影。

 その、背後に。

「……冒険者……いや、丸腰!? 旅人か!?」

 幾人かの旅装の人間が抱き合うように固まっている。

 ユーカさんはそれを守って……ナイフ一本、いや二本……僕の野営道具の、手のひらにも満たない長さのミニナイフを左手に握って、健気にヘルハウンドに対峙していた。

「ユー!!!」

 僕は逆手で携えてきた剣を両手で握り、必死で走る。それでもまだ遠い。

 せめて僕に向け、と思い大声で叫ぶが、ヘルハウンドは僕に一瞥もくれずにユーカさんめがけて躍りかかる。

 僕はそれを見つめて、それを止める必殺技はないのか、と場当たりすぎることを考えながら、何もできなくて。

 ユーカさんは食いつく化け物に……ミニナイフを握った左手を、正面から突っ込む!

 まさか腕を犠牲にして、喉を狙った……!?

 瞬間、ユーカさんは体から何か光を放ったように見えた……が。


「ガアアッッ!!」

 ヘルハウンドはその細腕に食らいつき……噛み、千切る。

 ユーカさんの顔が痛みに歪む。血しぶきが舞う。


「ユーッッ!!!」


 僕は叫ぶ。まだ遠い。この距離ではオーバースラッシュも届かない。

 間に合え、間に合ってくれ、と必死で念じながら、現実の足は無情なまでにいつも通り……いや、走り通してむしろもつれ始めていて。

 しかし、ユーカさんはそれでも、決してその目から力を失うことはなく。

「お代は……高ぇぞ、お客さんっっ!!」

 残った右手のナイフで、ヘルハウンドの左目に傷をつけて、後ろに転がって距離を取る。

 今、四肢の一本を失った少女の動きにはとても見えなかった。


 ミニナイフを喉に押し込まれ、目に刃傷をつけられたヘルハウンドは、いったん少女から距離を取る。

 噛み切られてもミニナイフを握り続けた左手首を吐き捨て、口の中から血を流してえずくような動作をしながら、それでも残った目に怒りを滾らせている。

 ユーカさんも受け身から身を起こし、失った左手からおびただしい出血をしながら、闘志は死んでいない。

 死闘。

 まさにそう言うにふさわしい戦いが、まだ続く。

 彼女は逃げない。背後に守るものを背負ってしまった。背負うべきではなかった。

 ようやくわかった。ユーカさんはこの人たちを見つけたから、非力を、敗勢を承知で飛び込まざるを得なかったんだ。

 ……その寸時の睨み合いの隙に、僕はようやく戦いの現場にたどり着く。

 ヘルハウンドを挟んでユーカさんたちはちょうど向こう。

 僕が普通の前衛なら絶好の挟み撃ち状態に喜んだはずだ。……が、僕は「オーバースラッシュ」頼り。

 この位置関係では、手が出せない。せめて打ち損じでユーカさんたちを斬らない位置まで行かなければ「オーバースラッシュ」で攻撃はできない。

 使うなら側面。出来ればユーカさんのそばまで行きたいが、ヘルハウンドはそれを待ってくれるのか?

 ……息を上げながら切っ先を向ける僕に、ヘルハウンドはゆっくりと顔を向ける。

 ユーカさんと僕を見比べて……僕の方が大きい刃物を持っていると察し、まずは僕から片づけようと向きを変える。

 う……っ。

 これは……よくないな。

 いや、僕に向くのはいいんだけど、タイミングが悪い。

 ユーカさんに大怪我を負わせる前か、あるいは僕が側面を取った後にこっちを向けば良かったのだ。

 このタイミングでは、僕は結局オーバースラッシュが打てない。

「はあ……はあ……っ」

 息が整わない。気持ちが焦る。

 いつもならこのくらいのピンチになると心が落ち着き、まるで虫のように反射的に戦えるのに。

 ……半端にやれることが増えてしまったせいか。死なずにやらなければいけないことができてしまったせいか。

 優先順位が混沌とし、敵の挙動への反応が遅れる。明らかに「いつも」より鈍くなっているのが自覚できる。

 あいつをこっちに向かせた。次は何だ。

 遮蔽物。いや、隠れたらまたユーカさんに向かうかもしれない。

 だけど隠れないで僕があれと切り結べるのか。飛び掛かられて何かできるのか。

 僕はどこまでやればいい。いや、僕が倒せなければ全員死ぬんだ。捨て身は駄目だ。

 ここから「オーバースプラッシュ」はどうだ。

 駄目だ。少しでも手元が狂えばユーカさんとその向こうの旅人たちも滅多斬りだ。

 ならどうする。敵はもうこちらを完全に仕留める気になっている。

 もう襲い掛かってくるまで何秒もない。遮蔽物もない。まずい。

 計算がなっていない。いつだって足し算と引き算なんだ。何をしたら何を諦めることになるのか。何を残すために何をするのか。

 僕は引け腰でも無様でも勝てるように戦うべきだった。遮蔽物を利用して敵にモタつかせる間に「オーバースラッシュ」でダメージを蓄積させるか、イチかバチかの「オーバースプラッシュ」で、背後のユーカさんたちは伏せるなり散るなりで食らわないことを祈るか。

 どうせ僕の「オーバースラッシュ」じゃ、怪我はしても一発で死ぬことはない。割り切って振っても良かったんじゃないか。

 いや、走り通して疲れ果てた僕じゃ剣のメッタ振りは長続きしない。ヘルハウンドを倒しきる前に、魔力以前に息切れする。

 やっぱり隠れながら戦うしかなかったんじゃないか。でも、もう


「バカ野郎!! 腰落とせ!! しっかり構えろ!!」


 ユーカさんの叫びが、僕の迷いを一時断ち切ってくれた。

 反射的に、あの山籠もりでユーカさんに叩き込まれた構えを取る。

 視線が下がり、足腰に改めて力が落ちる。

 ……腹が、決まる。

「……ちぇっ。そうだった」


 ……一瞬前の僕を嗤う。


 何を迷う。お前は誰だ。一丁前に「邪神殺しの後継者」のつもりか。

 ただの剣一本持った冒険者。それだけじゃないか。

 手に入れた技に振り回されて、何もかも見失っている。


「殺すのに、大した技術も資格もいらないだろ……!」


 手の中の剣を、もう一度確かめる。

 あの飛翔鮫シャークワイバーンの時は敵が大きすぎ、僕の剣は凡以下だった。

 普通に斬っていたら殺すまでに朝までかかってしまうから、「オーバースラッシュ」に頼るしかなかった。

 僕が握っているこの剣は、一発でこの猛獣の首を斬り落とすこともできる。

 それができればこの勝負には勝てるだろう。簡単な話じゃないか。

 思考がクリアになる。すべきことがひとつになる。

 心配する事なんか何もない。

 殺し合おう。残るのは死体ひとつ。

 お前の死体だ、ヘルハウンド。


「グル……ル……!!」

「来い」


 切れ味鋭い、真新しい剣を手にして。

 敵も僕も、相手を一撃で殺すことができる。なら先に殺すだけだ。

 力を溜めたまま踏み出す気配を見せないヘルハウンドに、僕はじりじりと距離を詰め……踏み込む!

 ヘルハウンドは真新しい剣の無慈悲な煌きに怯えたように斜め後ろに飛びのき、そこから改めて飛んでくる。

 僕はそれを迎撃する。

 ヘルハウンドの顔への一撃を叩き込みつつ、向こうの前足に突き飛ばされて後ろに転がり、跳ね起きる。

 鼻面を斬られてヘルハウンドは明らかに怯んでいる。喉をやられ鼻面をやられ、呼吸がそろそろ苦しいのかもしれない。

「なんだ、大したことないな、お前……!」

 あえて虚勢を口に出す。ユーカさんが先にダメージを入れてくれていたおかげだ……と、わかってはいる。

 だが、ユーカさんやその背後に守られている人たちはそれを聞いて絶望を手放すだろう。

 早くユーカさんを止血してもらわないといけない。

 そして僕自身を鼓舞する意図もある。

 相変わらず、いつもの冷え切った心理状態モードには程遠い。次の残虐行為に至るためには己を追い立ててやる必要がある。

「こっちの番だ!!」

 剣を翻すように横に構え、振り抜く。

 ヘルハウンドは飛びのいて反撃……しようとして、その巨体から血を噴く。

「!?」

 怯んだ喉声を漏らすヘルハウンド。

 ……至近距離なら外れる心配はない。遠慮なく「オーバースラッシュ」も使わせてもらうぞ。

「このっ!! 犬っ!! 如きがっ!! 人様の!! 腕に!! なんてことしやがるっ!!」

 振り抜く。振り切る。切り裂く。振り上げ、振り下ろし、叩きつける。

 剛刃と裂空の入り混じる、回避を許さない斬撃を次々に叩き込む。

 ヘルハウンドは一撃が決まるたびに殺気を失い、四肢は折れ、腹は裂け、ついには逃げ出そうとするが僕はそれを見送る道理はない。

 その背に、今こそ、とばかり渾身の「オーバースラッシュ」を、叩きつける。

 背骨を深々と断ち折られて魔獣は動かなくなり、凄惨な戦いはようやく終わりを告げた。



「……ユー!! そこの人たち、誰か止血を手伝って!!」

 僕はヘルハウンドが起きてこないのを確認すると、剣をその場に投げ出してユーカさんに駆け寄る。

 ユーカさんは腕を握りしめてなんとか血を止めているが、早く手当てをして街の治癒師に見せないといけない。

「あ、あの……ありがとうございます、冒険者様……是非お名前を」

「そんなのはどうでもいいから! 腕をもがれたんだぞ!! 何考えてるんだ!!」

 恐怖の連続ですっかり気持ちがぐちゃぐちゃになっているだろう旅人たちだが、いくらなんでも今まさに手を失って顔面蒼白の女の子がいるのにそりゃないだろう。

 旅人のうち、女の人が二人ほど手当てに手を貸してくれた。

 こういう時に立ち直るのは女性の方が早いよね、何故だか。

 そしてひとまず傷口を綺麗な布で縛り上げたユーカさんを背負い、僕はゼメカイトに急いで戻ることにする。

 荷物袋は旅人の一人に取りに行ってもらい、冒険者の酒場に後で届けてもらうように頼んだ。

 ……最悪、手元に戻らなくてもいい。ユーカさんが生きていればロゼッタさんがなんとでも用立ててくれるだろう、と思っておく。


「なんでこんな無茶をしたんだよ……大事なものの順番は自分、仲間、他人、法って言ってたじゃないか」

「はは。よく覚えてるな……ああ、その通りだ。……他人の命は三番目に大事だ。優先順位はそうだが、見捨てていいもんだとは教えてねーぞ」

「…………」

 怪我のせいか、いつもより語気が弱いユーカさん。

 とはいえ。

「あのままだったら死んでた」

「あのままじゃなかっただろ? アタシはアインが、もう片方をさっさと片づけてくれると思ってたぞ。それでこっちを助けに来てくれるって」

「かなりラッキーですぐに勝てたおかげなんだ。……きっと、一手目の運が悪ければ随分泥仕合になってた」

「んなこたいいんだよ。結局、アタシは自分の命も仲間の命も、他人の命も守れた」

「……ユー」

「ははは。……大丈夫だよこんなの。初めてじゃねーし」

「前のゴリラアームも千切る奴いたの……?」

「いるいる。ヘルハウンドなんて雑魚ばっかりじゃねーぞ、世界は。……あー、でも街に戻っても見せるのってこの前の治癒師だろ? 大丈夫かな」

「あの人、ゼメカイトでは五本の指に入るって自称してるんだけど……」

「マードの奴なら秒で治る程度の怪我に一時間もかけてたからなー」

「それはマードさんがすごいだけだと思う……」

 ポツポツと話しながら、彼女の言葉が途切れてしまわないか心配になる。

 それくらい、背負ったユーカさんは軽くて、儚い感触だった。

 本当に……こんな小さい体で、あのバケモノに一歩も引かず戦ったんだな。

 僕は戦う前からオロオロしていた自分が少し恥ずかしくなった。いや、本当にこの人が例外すぎるのは間違いないんだけど。



 そして。

「私じゃ無理だ。ちぎれた腕を元に戻すなんて」

 馴染みの治癒師は早々に匙を投げた。

 一応、前腕の途中で千切れた方の手も拾ってはきたのだけど、ゼメカイトまでの数時間の間にすっかり死肉の色になってしまっている。

 斬ってすぐなら、そして切り口が綺麗ならまだしも、これをくっつけるのは無理、とのことだった。

「それにしてもまた死にかけか。どれだけその子に無茶させるんだ、アイン」

「してほしくはないんですけどね……」

「笑って済ますな。この調子では本当に長くないぞ、あの子は。自分の命を軽視しているとしか思えない」

「…………」

 ……命を軽視、か。

 僕を差し置いてユーカさんがそう言われるとは。


 それから依頼完了報告ついでにユーカさんをロゼッタ商店に連れて行くと、出迎えたロゼッタさんは卒倒しかけた。

「……なんてこと」

「なんだよロゼッタ。ここに来るよりずっと前から分かってんだろ」

「遠くから視えるものと直接見るのでは話が違います……まさかヘルハウンドなど相手に、本当に腕を失って帰って来るなんて……」

 ヘルハウンド「など」扱い。

 基準がぶっ壊れているのではないだろうか。

 というか。

「視える……?」

「あー、こいつな。デコの目でわりと遠くの出来事も感じ取れるんだわ。目玉自体が結構レアなダンジョン産魔導具なんだよ」

「え、三つ目に生まれたわけじゃなく?」

「違う違う。元々生まれつき目が見えなかったんで不憫だからって、八方手を尽くしてアーバインが探してきたのをマードに埋め込んでもらったんだよ。こいつ下の二つは今でも見えてないぞ」

 改めてロゼッタさんを見る。

 ……言われてみると、普通の目の方は焦点が合ってない感じがする。

「で、そのマードの居場所が知りてーんだよ。探してくれねーか、その目で」

「追っていくには時間差もあります。視えたからといって会えるとは限りませんよ」

「手がかりがねーんだからしょーがねーだろ。このままだとアインが気にするし」

 ロゼッタさんは溜め息をついて、僕とユーカさんに渡す報酬を机に出しながら、下の目を閉じて第三の目だけを見開く。

 ちょっと怖い。

「……祖父やクリスさんと一緒に、フィルニアの近くにいるようです」

「フィルニアかー。まだ近いな。よし行くぞアイン」

「いや少し待って。荷物戻ってくるかもしれないから待たないと。あとリリエイラさんにも挨拶に行かないと」

「いいだろ挨拶なんてよー。リリーのことだからうんざりした顔するだけだよ絶対」

 親友に酷いよねユーカさん。

 というかさすがにこれだけの大怪我は報告しておかないと後々怒られそうだし。


 ちなみに後で聞いたが、ロゼッタさんの「祖父」というのはアーバインさんのことらしい。

 ……ロゼッタさんの方が年上に見えるんですが。

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