死を前にして
冒険者ってのは誰にでもなれる。
……本当は、この言葉には続きがある。
──命が惜しくなければ。
誰だって、目の前で今まで話していた相手が急に物言わぬ肉になってしまえば、死という現実の前に怖気づく。
冒険者には常にそれが有り得る。
一般の人々が冒険者に頼るのはモンスターの影がある時だ。そしてモンスターはただの動物と違って、明確に人を敵視し、命を狙う。
だから、冒険者である限りはそれに向き合う必要があり、いつ自分が……あるいは自分の隣にいる冒険者が、突如として命を奪われるかわかったものじゃない。
そして、まだ一年しか冒険者をやっていない僕も、幾度か目の前でパーティの仲間が死ぬのを見ている。
僕が死ななかったのは偶然みたいなものだろう。その場にいるうち、たまたま一番に狙われたら僕はその通りに死んでいた。
でも、まだ僕は冒険者をやっている。
……つまり、だ。
◇◇◇
突然落ちてきた巨大な魚のような、ワイバーンのようなモンスター。
その下敷きから僕を救うため蹴り飛ばしたユーカさんは、どうなったのか。
僕は転がり、身を起こしながら確かめようとして……奴の体の下から、編んだ覚えのある三つ編みが僅かに覗いているのを見て。
自分の顔から表情が消えるのを、感じる。
ストン、と表情筋から力が抜けて、メガネの位置を手が勝手に直す。
心が、体から遊離する。
僕は、独りだ。
独りで……死に向き合っている。
消えかけた夕焼けが空にグラデーションを作る中で、死を前にして全てが冷えていく。
◇◇◇
悲しむという気持ちが、僕にはもう、わからない。
眼前の死に怯え、絶望するという気持ちが、もう僕を襲うことはない。
可愛がっていた妹が死んだ日。
僕は泣いた。涙をいつまでも流し、号泣し続けた。
あの時、僕は妹だったものを抱き締めながら……心の中で何かが抜け落ちていくのを感じていた。
何を失ったのか、僕はその時はわからなかった。
それからしばらくして、近所に住んでいた顔見知りの農夫が、モンスターにやられて死んだ。
その死体にみんな怯えたけれど、僕は何も感じなかった。死んだんだな、と思った。それだけ。
皆お金もなくて冒険者への依頼料もろくに用意できず、実際大したことのないモンスターだったので、なかなか冒険者はやってきてくれない。
毎日怯えて暮らす近所の人たちを横目に、妹の死で泣き疲れた僕は、疲れた心のままでモンスターに出会い……気づけばその辺にあった石で殴り殺していた。
冒険者に向いている。僕は自分で、そう思った。
普段、別に死にたいわけじゃない。モンスターが怖くないわけでもない。
だけど、死が近づくほどに僕は「冒険者に向いている」ことを再確認する。
気持ちが揺れない。
近づけば近づくほど、心が凪ぐ。
もし、しくじれば死ぬだろう。僕だったものはただの肉になり、明日を見ることもない。
それがわかっているのに、あの日以来、何も感じない。
◇◇◇
右手に掴んでいた剣の鞘を左手に持ち替える。
右手は剣のグリップを握り、腰を落とし、鞘ごと地面に剣を立てる。
あの体勢からは、モンスターはこちらには動けないだろう。溜める時間は充分にある。
……流れるように考えがまとまり、幾度も繰り返したメソッドを実行する。
あいつが斬られると困る場所はどこだ。首か、翼か。それとも脚のように見える物か。
候補を見定め、比べて迷う心すら、どこか僕本来のものとは別に動いている。
本当の僕の心は既に体を離れ、少し遠くから高みの見物をしている。
アイン・ランダーズがここで死ぬのか、生き延びるのか。
それを、まるで赤の他人が遊んでいるゲームのように見下ろしている。
……本当なら、ユーカさんを案じ、焦り、叫び、怒るべきだろう。
僕にあんなに良くしてくれた人が、何の前触れもなく、何の意味もなく、踏み潰されたのだから。
しかし、僕はそれを何の感情もなく受け入れている。
どこまで非人間的なのか、と己に呆れる気持ちだけが、僅かにある。
しかしそんな思いとは全く関係なく、剣にモヤモヤを込め終える。
7秒。練習よりもさらにカウントが浅いが、これでもおそらく打てる。
「……オーバー、」
自分のものとは思えないほど低い声で、それでも僕は数時間前と同じように。
「……スラッシュ!!!」
剣を引き抜き、ユーカさんから教わった必殺技を放った。
◇◇◇
冒険者になったのは、向いていると思ったからだ。
僕の帰りを待つものはもう何もなかった。
守るものを失って、それでも残されているような将来なんてものは僕にはなかった。
それなら、やれることをやったらいい。
偶然のモンスター退治からしばらくして、僕はその直感に従って、誰も待つ者のいなくなった実家を出て、誰にも告げずに冒険者として旅立った。
生きるため、食べていくために悪戦苦闘の日々の中で。
ふと、他の冒険者たちと「自分が十年後に何をしているか」という雑談をしたことがある。
「俺はそれなりに名を上げたら、ここらに根を下ろすよ。嫁さんが簡単に見つかるくらいになったらな」
「はは、いくら有名になっても、縁もゆかりもない冒険者に嫁入りしたがる女がいるかよ。……俺は実家に無理言って出てきたんだ。だから、限界を感じたら帰って家を継ぐことになるだろうな」
「冒険者になった時点でもう死んだもんとして数えられちまってんじゃねえの?」
「約束で毎月手紙送ってんだよ。だから向こうだってちゃんと待ってるはず。多分!」
焚き火を前にそんなことを語る同業者たちに愛想笑いをしながら、僕は十年先のことをどうしても想像できずにいた。
多分、僕はその前に死ぬ。
全くありふれた冒険者として……僕が無感情に通り過ぎてきた、
大したことのないモンスター相手に満身創痍の苦闘を幾度も続けながら、明るい未来なんてどこにあると信じられる?
……そして僕は、それを辛いことだとも思えなかった。
もしもそう思えたのなら、冒険者なんていつでも辞めたらいい。だけど、そう思えなかった。
そうやって生きるのが僕の身の丈だ、と思うばかりで、日銭と痛みをただただ交換して……。
そんな時に、ユーカさんたちに出会った。
いや、出会った、というほど絵になることなんてなくて、酒場でいつも人の中心にいるユーカさんたちを僕は遠目に見るばかりで、あんな風に強かったら冒険も楽しいんだろうな、と羨んでいて。
……そんな時に酒場の店主が、
それに参加したら、僕もそこに近づけるのかな、なんて、何の根拠もない希望を抱いて。
◇◇◇
その末がこれだ。
少しくらいは未来が開けた、と思った。
強くなったら、未来を語れる人間になれるかと思っていた。
だけど、そんなことさえ許されはしないらしい。
悲しむことをやめた奴には、喜びなんて与えない……ってことだろうか。
……僕は冷たくなり続けながら、放った必殺技の成果を見る。
腹側の柔らかい皮膚に一直線に刻まれる、斬撃。
手傷にはなった、はず。
しかし、謎のワイバーンはそんなもの気にした様子もなく元気に動いている。
「……さすがにこれ一発で致命傷ってのはムシがいいか」
また剣を収める。もう一度だ。
ゴブリンさえ一発では倒せない僕が、普通に斬りかかってどうにかなる相手じゃない。
血は出たんだ。有効打ではあるはず。
なら、距離を取ってオーバースラッシュを打ちまくるしかない。
「それでも倒せなかったら……死ぬだけ、だな」
ワイバーンはごろりと身をよじり、起き上がろうとしている。
そこにもう一発。怯んだらその隙に溜めて、飛び掛かって来る前にもう一発くらいは打てるだろうか。
あいつがその歩幅でこっちに向かってくれば、ゆっくりとした歩き方でも逃げ切るのは難しいだろう。三発目までに戦意をくじけなければ、僕は終わりだ。
……ははは。
10メートルものワイバーンと、僕が戦ってる。
それだけでも褒めてもらいたいくらいだ。だって人間の半分の背丈のゴブリン二、三匹で精いっぱいの僕だぞ。
見上げるような、そして人間なんかひと噛みで半身齧り取ってしまえるような、化け物。
こんなのに一人で勝てたら、大金星もいいところだ。
……きっとそんな奇跡は起きない。
十中八九、僕は力及ばずに負けると思う。
だけど、ここで手を止めたら、ユーカさんは怒るだろう。
僕は奇妙なまでに正確に構え直して、溜める。
その時。
僕を次の殺戮対象と見定めたワイバーンの足元で、何かが動いた。
「……え」
冷え切りかけた心が、それを見た瞬間に、わずかに動く。
土埃の中で。
泥だらけになりながら。
少女が、立ち上がる。
そして。
「ぬ……おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっ!!」
自分の胴体より太いワイバーンの脚に組み付き……。
その体を、今一度地面に叩きつけた。
轟音。
「ゆ……ユーカ、さん!?」
「アインッッ!! ブッタ斬れ!!」
「っ!」
汚れ切った顔から鼻血を噴きながら、少女がそれでも強い瞳で叫ぶ。
僕は上げかけた腰を再び落として、剣に精神を集中。
いつのまにか、遊離したはずの心は再び肉体を取り戻している。
「オーバー!!」
ザッ、と、鞘を引くと同時に渾身の力で剣を引き抜き。
「スラーーッシュ!!!」
斬閃が夕闇を裂く。
闇の中では、空を裂く魔力は輝きを見せるのだ……と、初めて認識する。
ザグ、とワイバーンの喉に切れ込みが入る。
だが表皮だけだ。喉笛や動脈には届かない。
「ばっ……かやろ!! 何度も言わせんな!!」
暴れたワイバーンの脚に蹴飛ばされて数メートルも転げながら、少女は叫ぶ。
「本気でやれ!! 一瞬で、全力だ!! その技は、こんなの真っ二つにできんだよッ!!!」
「そん……な……!!」
昨日今日なんとか扱えるようになった技だ。ユーカさんならできても、僕にはできない。
「ソレだけは!! お前はアタシが思ってたよりずっと上手いはずだろうが!!!」
息を荒げながら、ユーカさんは絶叫する。
「やれないと思うんじゃねえ!! お前は、誰より!! アタシより!! そいつだけは上手くやれるって、今は信じろ!!!」
「…………!!」
もう一度。
剣を鞘に……いや。
鞘を投げ捨てる。
僕は、ユーカさんよりもこれだけは上手い。
その言葉は信じるに足る。だって、他のことはあんなにヘボなのに、これはすぐに上達したんだから。
そして彼女より上手いなら。
他にもたくさん必殺技を編み出した彼女よりも、この技の素質だけはあるのなら。
「……オーバー……!!」
こっちの方がしっくりくる。
鞘の中でモヤモヤを押し固めるんじゃない。
噴射し、乱射だ。
このイメージが、実現できるはずだ。
心が燃え上がる。
ユーカさんが見ている。見ていてくれる。
目の前に依然として迫る死と踊りながら、僕はいつの間にか笑い、剣を振り上げ……滅多やたらに振り回す。
「スプラッシュ!!!!」
斬閃が怒涛になる。
自分でも数えきれないほどの斬撃が、そのまま波しぶきのようにワイバーンに全て殺到する。
ユーカさんの言う「全身の筋力と体重を集中させた一撃」は、僕にはまだ使えない。
その才能はないんだ。だったら、こっちだけで押し切る。
一点勝負。
それでも……一撃一撃は皮一枚、肉数センチでも、何十発と叩き込めば!
モンスターが吠える。
魚のくせに吠えるんじゃない。魚のくせにボディプレスなんかするんじゃない。
魚のくせに……ユーカさんを傷つけるんじゃない!!
「っ……おおおおおおおおおおおお!!!」
腕が続く限り、剣を振り回す。
斬閃は淡い光を放ってワイバーンに届き続けるが、ガムシャラに剣を振り回す僕の姿は型も何もあったものじゃない。
それでも、僕の乱撃はワイバーンに再び立ち上がることを許さない。
巨大な首に斬撃は刻まれ続け……やがて、血を吹きだして、巨獣は動きを止め、地に沈んだ。
「……死ぬかと思ったわ」
「むしろ……なんで生きてるんですかアレで……」
僕とユーカさんは再び静寂を取り戻した岸辺で、ほとんど同時に倒れ伏す。
寄り添って怪我の確認をしてあげたかったが、ぶっつけ本番の即興技で思った以上に消耗して、動くのがしんどすぎる。
倒れたままユーカさんはしばらく黙って息を整えていたが、やがて種明かしをしてくれる。
「……あれが防御の必殺技……『メタルマッスル』。……ちょっとしくじったけど」
「またパワーゴリラな名前ですね……」
「読んで字の如しだ。うまいことタイミング合わせればどんな攻撃も数秒だけは受け付けねえ。実際ヘルハウンドに食いつかれて牙を折り返したことがある。……が、この体だと秒どころじゃねえ、一瞬で切れちまった」
……一瞬だけでも、体重が10トン以上は余裕でありそうなワイバーンのボディプレスに耐えられるって……。
やっぱりこの人、このままでもそう簡単には死なない。
「で、ついでに『旋風投げ』。この二つはそのうち教えてやる……ローリスクだからな」
「……習っても僕じゃ使えそうにないのだけはわかりました」
本当に
……そして、あの激震にもかかわらず消えていなかった焚き火の炎に、わずかに照らされるモンスターの巨体を、改めて眺めて。
「はー……なんだろうなこいつ」
「ユーカさんも知らないんですか……?」
「特にモンスターの鑑別はリリーや
「頭だけでも荷車に乗りそうにないんですが……」
「いやー乗るだろ。……無理か?」
夕空が闇に閉ざされていく。
大の字に寝返って見上げたその空は、やけに綺麗で。
きっとずっと忘れないな、と思った。
しばらく焚き火が爆ぜる音だけが響く。
ふと、気になって。
「そういえば……潰される前、何て言おうとしたんです?」
問う。
ユーカさんは黙って起き上がり、鼻血を何度か拭いて、僕の視線を避けるように空を見て。
「……教えねー」
「なんですかそれは……」
「そういうタイミングでねーとカッコ悪い台詞ってあんだろよ! 気が抜けてから聞くもんじゃねーよ!」
「えー」
だったら多分、かっこいいことを言おうとしたんだろうな、と。
それだけ理解して、僕は何だか笑ってしまった。
いつもナチュラルにかっこいい人に思えていたけど、やっぱりちょっとはカッコつけたりするんだな、なんて。
結局、山籠もりキャンプはこれで終了。
一応生き残ったとはいえズタボロのユーカさんを荷車に乗せ、ワイバーンの死骸は諦めてそこに置き残し、翌日にはゼメカイトに戻ることになった。
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