二人の実力

 僕が最初の必殺技……「オーバースラッシュ」を会得してから数日。

 山籠もりは続いている。


「……オーバー……スラーッッシュ!!!」


 そして試行錯誤の末、僕の場合高々と叫ぶことで技を出しやすくなる、という経験則も掴んだ。

 アホっぽい?

 うん、僕もそう思うけど、ユーカさんは「どうせモンスターは技名聞いたって理解するわけじゃねーから」と、むしろ推奨してくれた。戦ってる最中に吠えて威嚇するのは向こうモンスターも良くやることだし。

 で。

「……お前、いいのソレだけな?」

 ユーカさんはため息をついて苦笑い。

 ……そう。

「オーバースラッシュ」を打つことにはどんどん慣れてきて、溜め時間は当初の数十秒からどんどん減らし、今は10秒未満で出せるようになっている。

 それ自体は驚異的な上達ペースらしいのだけど、並行して学んでいる剣の基本が全然ダメだった。

 僕は一丁前に剣を提げてはいるものの、実のところ戦いに関しては完全に我流……というか、素人だ。

 ユーカさんに構え方からして駄目出しされたように、何の訓練も受けていない。

 剣の振り方も敵の殺し方も、全部なんとなく、やれるようにやっているだけ。

 暇を見て素振りだけはやっているが、これは最初の冒険で慣れない白兵戦をガムシャラにやって手首をおかしくしてから(それ自体はすぐに治癒師に治してもらった)そこを鍛えることの必要性を痛感したからだ。

 これのおかげで、それ以降は冒険の終わりまで剣を握り続けることはできるようになった。

 ……でも、他の冒険者に教えを乞うことはできない。

 正しくは、誰も付き合ってなんかくれなかった。

 剣が駄目なら前衛以外のロールができるのかといえば別にそんなこともなく、ただただ能がないだけの新人冒険者に稽古をつけるほど、みんな暇じゃない。

 依頼で縁があるのも、壁貼り依頼しかできない無名の冒険者同士であるので、金もないし暇も余裕もない。他人の面倒を見ているほど余裕はないのだ。

 だからとにかく実戦をやるしかない。他の冒険者の振る舞いから見習えるものは見習いつつ、とにかく現場こそが一番の成長の場、という酒場の親父の頼りない助言を信じるしかなかった。

「踏み込みにはキレがいるんだよ、キレが! そんなニュッて感じじゃなくてシュバッといくんだ、シュバッと! それから手だけで振るな、腰を使え腰を! 跳ね返されるもんか! 一発でブッタ斬ってやる! っていう気合を込めて、前に出る要素を全部一緒に、同時に、本気で使うんだよ!」

「む、難しいですね」

「ん。……まー簡単かっていうと、これ教えるのに年単位かける武術とかもあったりするし、あんま簡単ではないんだけどな。でも、ちゃんと体重と腕力脚力、全部乗れば……ほっ!!」

 ユーカさんは木の棒を振り上げ、僕に向けて叩き込んでくる。

 とっさに僕も棒で受け止めたが……そこそこの太さだったのに、見事に叩き折られてしまった。

 当然、衝撃で手も痛い。

「いっつぅ…………!!」

「とまあ、こうなるわけだ。知っての通り、今のアタシのパワーは手足から何から全部一般人以下だぞ」

「……普通にちょっとしたモンスターならやっつけられますね」

「仮にも男で、一応大人で、しかも冒険者のお前が、これぐらい全身を活かして叩き込めるようになれば、ゴブリンごときが何匹いようと朝飯前だ。……でも普通は『オーバースラッシュ』の早出しの方が難易度高いんだぞ」

「そういうもんなんですか」

 僕としては、ちょっとコツを掴んだらどんどん捗ったというか……すごく馴染んだのは確か。

 これはもちろん、ユーカさんに貰った「強さレベル」の効能……だよな。

「変な具合だよなあ。アレがそんなに容易く思えるセンスが備わるんなら、運動センスも向上してていいはずだと思うんだけど……」

「……そんなに僕の運動センスってダメな方です?」

「まー今まで見てきた前衛の中ではミソッカスに近いな」

「…………」

 そんなかー……。

 自分では優秀な方……とまでは思ってなかったけど、多少は向いてる方だと思っていたのだけど。



「モンスター相手の剣の使い方ってのは、人間同士の剣術とは全然違う」

 へとへとになるまで剣の稽古をした後で、お茶を飲みながらユーカさんは言う。

「だからアタシが教えてる今のやり方を人間相手には使おうとするなよ。死ぬから。お前が」

「そんなに効かないんですか」

「いや、そういう意味じゃねー。性質が全然違えんだよ。モンスターは防御なんかしねえし人間の剣みたいな小賢しい小技も使ってこない。……そこらによくある人間用の剣術ってのは同じ人間を殺すための技術だから、そっちのフィールドでは対モンスター用の技は絶対敵わねえ」

「ユーカさんほどの人でも……ですか?」

 最強の冒険者っていうぐらいだから、こうもあっさり「敵わない」と言うとは思わなかった。

 が、ユーカさんは首を振る。

「アタシならそもそも相手のやり方に合わせねーよ。……人間相手にやるなら、まず向き合っての勝負をしちゃ駄目だ。こっちは騎士じゃねえんだからそこは勘違いしちゃいけない」

「えー……」

「まず見極めるのは『殺し合い』か『喧嘩』かだ。『喧嘩』なら重視するのは細かい技術じゃねえ、オドシだ。できるだけ相手が驚くような一発をド派手に最速でブチ込んで、様子を見る。いきなり椅子で殴るとか、叫びながら殴るとかな」

 ニヤニヤしながらチンピラ丸出しのことを語るちっちゃい女の子。シュール。

「んで、相手が引いたらそこで終わりだ。……喧嘩にガチの殺しの技術を持ち込もうとする奴は臆病者だ。相手のやる気が失せたのに続けようとする奴は阿呆だ。暴力は暴力だが、そこは間違えちゃいけねえ。終わればシャレで済むのを喧嘩っていうんだ。テメェには屈しねーぞ、ってのが伝わったらそこで終わりだ。その空気を読むのが下手だと、相手に勝ってもいろいろ失うぞ」

「はあ……」

「で、『殺し合い』。おそらくお前が考えてる人間同士の剣術の使い所はここなんだが……はっきり言うが、殺し合いを正々堂々なんて馬鹿のやることだ。だって死ぬんだぞ。終わった後に残るのは人間と人間じゃねえ、死体一つ、たったそれだけだ。死体になりたくないのなら、相手の押し付けてくる『平等なルール』でやり取りする必要はどこにもねえ。騙して逃げて後ろから殺せ。構えてない人間はどこ切ったって簡単に壊れる。そのあと首を切ればいい」

「……マジで言ってます?」

「当たり前だ。……ウチのパーティでこれに異論ある奴、誰もいなかったぞ」

 ずず、と銅のカップからお茶を啜るユーカさん。

「剣で正々堂々とやろう、なんて言ってくる奴は、騙されちゃいけねえ、モンスターと同じだ。こっちを殺せる武器を振り回して、殺せると見込んで襲ってくる怪物だ。そういう状況になったら冒険者の戦術ルールで狩るだけだ」

「…………」

「人間の中にもどうしようもねえ奴はいる。相手のルールに付き合うな。アタシの教え、その3だ。死ぬ奴が三流で殺す奴が一流。相手がモンスターでも人間でも同じだ。殺し合いをすると決めたのなら、相手より先に殺せ」

「恐ろしいな……」

 そういう考え方はなかった。

 僕は、去年までは剣なんか使ったこともない普通の人間だった。

 知り合いに剣術を習っている人もいたし、世のため人のため、と言いながら堂々と剣を握る彼らの精神を、純粋で爽やかだとさえ思っていた。

 思っていた、じゃないな。今でも思っている。

 彼らの姿があったからこそ、武器としてファーストチョイスに剣を選んだと言ってもいい。

「……強い、って、そういうことなんですかね」

 少し寂しくなって呟く。

 ユーカさんは目を閉じて。

「違う強さ、なんてのも世の中にはあるかもしれないが。……それはアタシには教えられねえ。冒険者の強さは、少なくともそうじゃねえ。アタシらの相手はロクに言葉も喋らねえ、手足が二本ずつとも限らねえ、大きさが10メートルか20メートルかもわからねえ……そういう相手に勝つための力が、アタシらの持つ強さだ。それに殺し合いを挑んでくるってことがどういうことか、だろ」

「…………」

「そして!」

 ビシ、と僕に木の棒を向ける。

「何より、お前は全然弱い!」

「は、はい」

「だからこそ、ゴリゴリした世界のことを聞いて引いてるわけだが! 今からその調子じゃ、中途半端に力をつけたところで勝手に余裕こいた目線でものを見て、油断して死ぬことになるぞ!」

「……はい」

 言われるまでもなく、なんかそうなりそうだな、とも思った。

「お前が死んだらアタシも丸損なのはわかるな?」

「……ええ、一応」

「ならばよし」

 いきなり押し付けられたものではあるけれど。

 ユーカさんなりに、ちゃんとした「流れ」を成立させようとはしてくれているんだ。

 僕がつまらない死に方をしたら、それは当然大失敗で終わる。

 そうなってはいけないんだ。彼女のためにも、僕のためにも。



「よし、続けるぞ。今んとこお前がマトモなのは『オーバースラッシュ』ひとつだ。基礎を育てつつ、当面はこれを軸に戦いを組み立てろ。他の技はそれが形になってから教える」

「もう一つくらい、技、あってもいいんじゃないかなー……と思いますけど……」

 僕がそう言ったのには一応計算がある。

 いざという時の選択肢があるに越したことはないし、それに、同じように「必殺技」だけ上手く扱えるというラッキーもあるかもしれない。

 が。

「駄目」

 ユーカさん、即答で切って捨てた。

「あれを最初に教えたのは、使いどころが広いからだ。高所を取った時に一方的にブチ込むこともできるし、逆に空飛んでる奴とかの手が届かない敵に弓矢がわりに打つこともできる。デカい奴にも小さい奴にも当てやすいし、もし山賊とか相手にするなら、一見飛び道具持ってないようにも見えるから相手の油断を突ける。何より、打つリスクが小さい」

「……長時間の納刀よりもリスク高いんですか、他の必殺技」

「うん。例えば『必殺ユーカバスター』なんて、前のアタシですら使ったら拳と肘がブッ壊れたぞ。マードがいなかったら打てねえ」

「なんですかその技は」

「『フルプレキャノン』なんて打ったら最低50メートルは上空に飛ぶから、着地できないとやっぱり大惨事だし」

「待って、フルプレさんそんな謎の技あったんです!?」

「元はアタシが編み出したんだけど、名前つける前にフルプレに真似パクられて、ワイバーン災害でやたら乱発されてからそういう名前になっちゃったんだよ……」

 名前の感じと「リスク」、それにワイバーン災害というシチュエーションで考えて……空中に一気にジャンプして体当たりする感じの技だろうか。

 そんな軽快に跳ねまくる全身鎧という光景は、どう想像してもギャグだった。

「そういうのを覚えても多分お前だと自滅するじゃん?」

「自滅しそうにないマイルドなやつは他にないんですか……?」

「他にローリスクなやつだと投げ技とか防御技とか、フィジカル前提になるし。とにかくまずはこの流儀だな」

「……はい」

 投げ技。……あれほど「人間相手の技術とは違う」と力説するユーカさんが言うからには、最低でも熊ぐらいは投げるやつだろう。

 防御にしたって、普通に腕や剣で受け止められないようなものに対する何かだろうし……習得するのが簡単、という線はまずないと思う。

 地道に頑張るしか……ないか。



 鍛錬中にいつの間にかゴリラパワーが目覚めている、という展開を期待したのだけど、そんなことはなく、ユーカさんの課した訓練メニューを終えると、疲労困憊。

 ……そしてユーカさんも一緒になって体を鍛えたが、その弱体ぶりに驚いているばかりだった。

「マジでこんだけしかできねーんだな、アタシ……子供の頃でもここまでダメダメだったのなんて思い出せないわ」

「……大の男と同じトレーニングしてそういう感想になりますか」

 だいたいはユーカさんと僕、自重トレーニングや走り込み、素振りなどの限界は同じくらい。

 これは僕の貧弱さが際立つと考えるべきか、体の使い方や限界を心得てそこまでできるユーカさんの底力が凄いと考えるべきか。

 ……まあこの場合、前者だよね。

 本当に僕、平凡以下の体しかできてなかったんだなあ……多少はやれてるつもりだったのに。

「しかしこういうのって、人里離れてやらないといけないもんですかね」

 疲れた体に鞭打って、夕食の支度をしながら呟く。

 今のところ、トレーニングとしてはそこまで凄いことはしていない。

「オーバースラッシュ」だけは……まあ下手なところで放つと困ることになりそうだけど、それだって大したことはない。射程はともかく見た目は地味だし。

 こうなると、快適な寝床と食事を我慢してまで遠出をした意味はあるんだろうか、と考えてしまう。

「街の近くでもいいんじゃないですか?」

「……あー、いや、正直な」

 寝転がったまま、ユーカさんは少し気まずげに口ごもり。

「……今、人に見られたくねえ……ってのはアタシの都合だ」

「え」

「正確には、自分の性能がわかんねえうちに変な奴に嗅ぎつけられたくねえ……ってのが、半分。お前の特訓はもう半分だ」

「……ま、まあ、それは……わからなくもない、かな?」

「弱いっつってもどれだけ弱くなったのか……ホントにどうしようもねえのか、ハッキリさせとかないとさ。例えば弱くなったアタシを小突いてやりたい奴が絡んできたら、困るじゃねーか」

「そんな人いるんですか」

「いるよ。……確実にいる」

 はぁ、と起き上がって溜め息。

「仮にもあんだけ名が売れりゃ、見比べられちまう奴だっている。アタシが最強だって言われてたのなら、それに比べりゃ見劣りする……なんて言われてた奴らもいるわけさ。そいつらが、凡人以下になったアタシを見つけて、行儀よく手を振って見過ごしてくれると思うか?」

「……それは」

 僕だって冒険者だ。彼らの気質ってのは実感でわかる。

 名誉欲にギラギラしている彼らは、特に自分たちのポジション認知度に敏感で、上位に対し嫉妬深くもある。

 そんな中で大陸最強候補にもよく挙がるユーカさんがなってしまった、と知れば、嘲り笑うなんて可愛い方だろう。

 マウンティング行為が勢い余って、こんなユーカさん相手に本気の暴力、なんて展開さえ想像できてしまう。

 冒険者というのは本当に誰でもなれる。決して、マトモな奴ばかりではないんだ。

「……で、こうして確かめてみた感じ……本当、トラブったら話になんねーな、と再確認したわけでな」

 軽く膝を抱えて、膝小僧に顎を乗せて。

「どうしたもんかねぇ……」

 わりと途方に暮れた顔をしている。

 ……この人そういうの全然気にしそうにないな、と思っていたので、ちゃんと考えていたことにびっくりした。

 だって、こんなナリでも普通にそういう奴と喧嘩しちゃいそうだし。

 でも、それならそれで、わざわざ近づかなければいい。

「ユーカさんは可愛い人生を生きるのに専念する、ってことで……リリエイラさんに世話してもらって、もっと安全な界隈で生活するっていうのが一番じゃないかな」

「あ、それはパスで」

「即!?」

「そんなセコい奴らに怯えて引き篭もるって馬鹿みてーじゃん。それに、面白そうじゃねーし」

「そりゃあ可愛い人生ですから……」

 スリルやワクワクを追求して生きていた人にとって「面白い」といえるかは、なかなか難しいところだと思う。

「だいたい、冒険者引退するってのが名目だったじゃないですかユーカさん」

「そりゃそーだが、だからってつまんねー奴らにコソコソして生きてくってのも気に入らん。こっちに非があるわけでもねえし」

 ……や、非もゼロでもない、とは思う。

 あの魔導書を使うにしても、あんな何も準備のないタイミングでなくても良かったと思うし。

 軽率さは否めない。……まあ逆にそれくらいの思い付きでやるのでなければ、僕なんか選ばれるはずもなかったとも思うけど。

 きっと僕には、こんなチャンスはもう巡って来ることはないだろう。

 まだまだわからないことばかりでも、何かのチャンスを貰えた。それ自体にはとても感謝している。

 だからこそ、ユーカさんがそれを理由に危険にさらされるというのは後味が悪いし、避けたい。

「考えられる対策……といっても、そういうのに絡まれそうな時には誰か強い人に守ってもらうか、あるいはユーカさんだってバレないようにするか……ぐらいですかねぇ」

「あとは隠し球だな。つまんねー因縁吹っ掛けられても一発で黙らすような、派手な魔導具とか用意しとくの」

「そういうのって余計にトラブル起きそうな……」

「この業界はハッタリだぜ、ハッタリ。直接の殴り合いが弱くなっても手はいくらでもあんだぜ、って思わせれば勝ちだ」

「……手、あるんですか?」

「…………リリーに用意してもらえば」

 つまり今はないんですね。

 ……まあ、ユーカさんの場合、いざとなったら全然考えずにトラブルに突っ込んでいきそうな性格だし……いくらか用意があるに越したことはないと思うけど。

 頼みのリリエイラさんだって、前のパーティを解散してから自分の進路を見つけているはずだ。

 頼ってすぐに何でも用意してくれるものでもないだろうし、それまでの間はやっぱり人目を避けて大人しくするか……他の二案のどちらか、あるいは両方を準備すべきだと思う。

 さしあたって……強い仲間、というのは僕にはどうにもできない。

 弱い冒険者に近づくのは同じく弱い冒険者しかいない。だから今のところは僕から声をかけて相手にしてもらえる中に強い人なんかいない。

 こういう場合はユーカさんの元々の仲間やその知り合いから当たるべきだろう。

 冒険者を続けるか不明のフルプレさんや、高位の魔術師とはいえ女性のリリエイラさんを護衛にするのは望み薄として……残りの三人、か。

 あと、あの後詰冒険隊サポートパーティリーダーの人なんかどうかな、と思う。……いや、恨まれてるかもなー。稼ぎ口潰しちゃったわけだし。

 誰に頼むにしろ、ユーカさんが一度頭を下げてくれないと話になりそうにないよなー。

 これは保留。

 あとの一案……ユーカさんだということを隠す策。

 こっちはそんなに難しくないだろう。

 ユーカさんがこんな姿になったことを知っているのは、当時の現場にいた本隊と後詰合わせて十数人ほど。あとはせいぜい、あの龍酔亭の案内店員くらいか。

 それ以外の人は、まず同一人物と信じられないはずだ。筋肉量の差を度外視しても、元のユーカさん、180センチは余裕であったしな。それが40センチ近くも縮んでる。

 知ってる人たちへの口止めは改めてする必要があるかもしれないけど、とりあえずユーカさんが改めて顔を隠す必要はない。

「偽名……というか、僕が呼び方変えるだけでいいのかな」

 それでひとまず絡まれる可能性はなくなると思う。

「ねえユーカさん。とりあえず街では……」

「…………」

「ユーカさん?」

 ふと気づくと、ユーカさんは膝を抱えた座り方をやめ、片膝をついて真剣な顔をしている。

 そして、何もわかっていない僕に向かい、シッ、と人差し指を立てた。

「……何か、雰囲気がおかしい。近くにモンスターがいるかもしれねえ。剣、用意しとけ」

「雰囲気……」

 見回す。普通の日暮れの風景にしか見えない。

 ……いや。

 鳥の声も、虫の声も、止まっている。

 急に、シルエットになった木々の陰影が不吉に見えてくる。

 慌てて足元にあった剣を……いや、これは剣じゃなくて練習用のただの棒。

 それは放り出して、テントの入り口近くに放り出してある剣を鞘ごと引っ掴む。

 そして、それだけの動きでも、トレーニングで既に全身が疲れ果てていることを改めて実感する。

「……め、めちゃくちゃ疲れてるんですけど……大丈夫ですかね」

「いい訓練だと思うしかねーな。本番の冒険でもよくあることだろ?」

「……そりゃそうですけど……!」

 疲れ果ててるからって、モンスターが待ってくれるわけじゃない。激戦の後に増援が現れて、体力を使い果たした奴がやられてしまう……というのも、普通にあり得る。

 だけど、訓練といっても……今、ここにいるのは僕とユーカさんだけ。

 呆れるほど基本がなってない新米と、呆れるほど能力が落ちているベテラン。

 これは、訓練なんかじゃない。誰も安全を保障なんかしてくれない。

「……ご、ゴブリン三匹ぐらいだといいなあ」

 今の僕とユーカさんが大過なく倒せる敵と言えば、そんなものだろう。

 普通の熊や狼でさえ、今出てきたら危ない。

 しかし、ユーカさんは首を振る。

「そんなもんでこんなに雰囲気変わることなんかねーよ。……いいか、教えたことをきちんと頭に置いとけよ」

「え……」

「まずは自分の命だ。その後に仲間、次が他人で最後に法。……順番を間違えるなよ。そして……」

 ユーカさんは、何かを言おうとして……。


 次の瞬間、湖が爆発した。


 いや。

 湖の中から、何かが飛び出したんだ。

 薄暗い夕映えを映す湖水が空に弾け、そしてその上に……冗談みたいに、体の長い魚のような、しかしどこかワイバーンにも似た何かが、舞い上がっている。

 それは正確な放物線を描き……。


「ッ、避けろォォォッ!!!」


 ユーカさんの小さな体に見合わない重い蹴りが、僕を大きく吹き飛ばす。

 そして、僕のいた場所に……ユーカさんが僕を蹴るために飛び込んだはずの場所に。

 空を舞った何かは、10メートルはありそうなその巨体を、叩きつけてきた。 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る