第6話

 五月を少し過ぎた頃、いよいよ校外学習が始まった。始まってしまえば、時間が経つのは意外と早く感じた。バスを降りて山登り。虫の鳴き声と二年生約百人の足音しか聞こえない。


 コツコツ、リィリィ

 コツコツ、リィリィ


誰も話さない理由は、学年主任の鬼塚が怒るからである。一度怒り出すと、三時間は怒り続ける。その辺の面倒くささは、一年生の時にみんな学んでいた。


 山の施設に着くと、集合写真を撮ると言う事を知らされた。こういった写真は卒業写真に残るものだ。撮る時は面倒くさいんだが、後から見るとこんな思い出もあったな。と思い出して少し、嬉しい気持ちになれる。


「橘。隣に来てくれ」

「ああ、いいぞ。涼平と瑠奈も誘うか?」


 一ノ瀬と隣で写真を撮ることになった。折角だし、二人も誘おうと思う。やっぱりこういうのは仲のいい奴らと撮りたいしな。


「……別にどっちでもいいけど」


 あれ? なんかどっちでも良くなさそうだな。言いたい事があるなら言ってくれればいいのに……そうだ、少しからかってみよう。


「そっか! じゃあ呼んでくるわ!」

「あ!」

「うん? どうした一ノ瀬」

「えっと、あのだな……その」


 何これ可愛い。もっとからかいたくなる。


「一ノ瀬、言いたい事があるなら言ってくれないと分からないぞー?」

「おい! 橘分かっててやってるだろ!」

「何の事か分からないなー? 一ノ瀬が何もいってくれないからさ」

「ぐぬぬ! ……橘と二人がいい。二人で撮りたい」

「めっちゃ恥ずかしいわ」

「お前が言わせたんだろ!」


 その通り自分で言わせて、勝手に俺が照れてしまっているだけ。自業自得だな。何やってんだ俺。でも、一ノ瀬とのツーショットは欲しいなと思った。


「あのさ、お二人さん。集合写真って知ってるか?」

「あんた達ぐらいよ、盛り上がってるの。二人で撮りたいなら後にしなさい」


 俺と一ノ瀬は手で顔を押さえて、下を向きながらクラスメイトに合流した。流石にお互い恥ずかし過ぎたので、俺と一ノ瀬の間に涼平と瑠奈に入ってもらった。

 

 集合写真を撮り終えた俺達は、山の施設のキャンプ場でカレー作りを始めていた。普段から料理をする俺筆頭に、着実に準備が行われていた。今は一ノ瀬が野菜を切ってみたいと言うので、俺がアドバイスしている所だ。涼平と瑠奈はご飯を炊いてくれている。瑠奈がいるからあっちも大丈夫だろう。


「まず、人参からいくか。人参とってくれ」

「分かった」


 一ノ瀬から人参を受け取る時に、手が少し当たった。一ノ瀬もそれに気づいたのか、指を見ている。気にしても恥ずかしいだけなので、そのまま続ける。


「……ありがと、じゃあこれをまな板に置いて、こんな感じに左手を猫の手にして切っていく」

「おー! 凄い速いな!」

「ゆっくりで良いからやってみようか」

「ああ!」


 一ノ瀬は髪の毛が邪魔だと言って、前もって後ろに髪を括っている。うなじが見えて、いつもと違う髪型に少しドキドキしながら包丁捌きを見る。


「ていや!」


 一ノ瀬は包丁を振りかぶり、人参を切った。その人参は真っ二つに割れ片方が地面に落ちてしまった。


「一ノ瀬。危ないから振りかぶるのはやめような」

「……私に料理は無理だ! 不器用なんだ。てか人参落としちまった」

「洗えば大丈夫だよ。それに頑張れば出来上がった時、もっと美味しく感じるぞ」

「そ、そうなのか。じゃあ頑張ってみる」


 一ノ瀬が頑張ろうと思ってくれたみたいなので、一ノ瀬の後ろに周り手を掴んで一緒に人参を切っていく。


「こんな風に優しくな。左手の猫の手は忘れると怪我に繋がるから気を付けてな」

「……」


 一ノ瀬が黙りこくって、人参を見つめている。どうかしたんだろうか?


「一ノ瀬、自分一人でやってみるか?」

「……ウ」

「う?」

「ウガー!!!」


 急に振り払われて、一ノ瀬が訳のわからない言葉を発していた。


「どうした一ノ瀬、取り敢えず危ないから包丁は置こうな」

「危ないのはお前だ! 付き合ってもないのに、は……ハグなんてしやがって!」


 それを言われてさっきの状況を思い出す。確かに見ようによってはハグしてはいるが、そこまで身体を寄せたつもりはない。


「誤解だ一ノ瀬、俺は人参の切り方を教えようとだな」

「分かってるけど! 好きなやつからハグされて、耳元で囁かれたら私の心臓が持たないから!」

「お、おう。すまん」

「……」


 恥ずかしさのあまり、妙な沈黙が流れる。最近こんな事が多くて少し困る。どう会話を持っていけば良いのか分からないのだ。こういう時涼平と瑠奈がいればな良いのにな。


「よーやってるなー。バカップルー。先生も若い時は恋愛したもんだ」


 救いが来たと思ったら、宮前先生が来た。


「先生と一ノ瀬じゃ、全然違うでしょ」

「おい、橘誰がババアだ」

「そんな事言ってませんからね!」

「一ノ瀬ちょっと」


 宮前先生が一ノ瀬に耳打ちしている。一体この先生は何を考えてるんだ。


「む、無理!」

「良いからやれ、いつまで経っても野菜が切れないだろ」

「……橘。さっきのもう一回してくれ」


 さっきあんな事があったから流石にやり辛い。あぁ、宮前先生がニヤニヤしてこっちを見ている。お前は良い加減仕事しろよ!


「分かった」


 宮前先生に逃げたと思われるのは、癪に障る。ここは敢えて毅然とした態度でやり過ごしてやる。


「じゃあ行くぞ」

「うん」


 俺が後ろから一ノ瀬の手を掴むと、一ノ瀬が俺に体重を掛けてくっついて来た。しまいに顔を少しこっちに向けて、俺の胸に顔を当てている状態だ。


「橘、ドキドキしてる?」

「流石にこんな事されると」

「そっかー、橘私にドキドキするのか」


 一ノ瀬は包丁を離し、こちらを向いて胸に飛び込んできた。完全にただのハグである。柔らかい物が当たりラッキーだなと思う俺もいるが、それ以上に恥ずかしい。凄く良い匂いがしてドキドキする。身体が熱くなって来た。どうしたもんかと悩んでいると、一ノ瀬が顔を上げて言った。


「……橘のエッチ」


 そう言って、走って瑠奈達がいる方に逃げていった。


「何で?」

「まぁ、色々と理由はあるだろうが……お前、元気な下半身だな」

「え?」


 自分の下半身を見てみると、一カ所盛り上がっている所があった。立派なテントである。一ノ瀬はこれを見て逃げたのだ。


「橘、校外学習で何を想像してたんだ?」


 宮前先生が俺の肩に手を置き、ニヤニヤしながら言ってくる。コイツ調子に乗りやがって!


「さぁ、何でしょうね。先生もそろそろ真面目に働かないと鬼塚先生に言いますよ」

「フッ残念だったな。既にさっきのお前らのハグを写真に収めた。これを鬼塚に見せれば、不純異性交遊を注意してたと嘘を付けると言ったもんだ。アッハッハ!」


 バカ笑いしている宮前先生の後ろを一人の男性が通りかけ、止まった。


「ちなみに先生。仕事しないで何してたんですか?」

「あ? 少し寝てから委員長の所で白ご飯つまみ食いして、女子のグループにおやつ貰って、煙草吸ってからお前ら二人をからかいに来たって所だな」

「相変わらず仕事はしてないんですね」

「ヘヘッ、サボるのは私の得意分野だからな。私のサボりスポットに気付けない鬼塚ざまあみろってんだ。アッハッハ!」

「そうですか。ちなみに先生」

「なんだ? そろそろ勃起は治ったか?」


 本当に失礼な先生である。しかし、俺の意図を汲んで今まで黙ってくれていた人にバトンタッチをしようと思った。


「後ろ見てください」

「あ? 後ろ? ……さーって仕事仕事」


 鬼塚先生に気が付いた宮前先生が焦りだした。凄い汗をかいている。


「待ちなさい宮前君」


 鬼塚先生の鬼激怒である。


「君には教師としての自覚が足りないようですね。来なさい」

「い、いやーーー!!! 橘覚えてろよーーー!!!」


 宮前先生は首根っこを捕まえられて、鬼塚先生に連れ去られていった。初めて鬼塚先生の事を好きになった瞬間でもある。悪は滅びた、ありがとう鬼塚先生。それにしても、宮前先生は俺達の名前を覚えたのだろうか? 俺の名前も一ノ瀬の名前も呼んでくれていた。この前の事を意外と気にしているのかも知れない。

 

 一ノ瀬が逃げてしまったので、一人でカレーを作っていた。待ってあげようかと思いもしたが、あの状態の一ノ瀬だとまともに会話出来ない。俺自身も恥ずかしいから仕方なく一人で作った。カレーのルーは甘口だ。これは学校側が、辛い物が苦手な人もいるという配慮である。甘口は嫌いじゃないんだが、男としては少し物足りなさを感じてしまう。やっぱりもう少し刺激がある方が美味しい。


 一人で考え事をしながら作っているが、一向に三人が戻って来ない。カレーを作っている反対側に炊飯組が居るので、行ってみることにした。


「やっば! シャバシャバじゃん」


 涼平の声が聞こえた。シャバシャバという事は、水を入れ過ぎたのか。まぁ少しくらい柔らかくてもカレーだし大丈夫だろう。


「これはおかゆか?」


 一ノ瀬の戸惑ったような声。何だか嫌な予感がするなと思い覗き込むと、瑠奈が項垂れていた。


「どうしてこんなにシャバシャバなの? 訳がわからないわ」

「おーい、カレー作り終わったけど何かあったのか?」

「お! 来たか変態。瑠奈の言う通りにやってみたんだけど、なんかご飯がおかゆみたいになっちまってよ」


 ん? 聞き間違いかな?


「ああ、まぁ少しくらい大丈夫だって。瑠奈もそんなに落ち込むなよ」


 俺は瑠奈の肩に手を置いた。そしてその手を瑠奈が掴んで言った。


「ありがとう。変態」


 ん? なんかおかしいな。


「変態がそう言うなら大丈夫だな!」


 一ノ瀬にトドメを刺される。


「おい! 流石に傷付くぞ!」

「はは! 悪い悪い」

「でも実際、椿ちゃんに変な事したんでしょ」

「いやしたというか、勝手に起きたというか。ていうか一ノ瀬から聞いてないのか?」


 ふとした疑問だ。こんな冗談かましてくるぐらいだ。さっきの出来事を聞かれてもおかしくはない。


「椿ちゃんが橘は変態だー! って言って走って来たから。それ以外は聞いてないわよ。それに椿ちゃん、恥ずかしがって何も話してくれなかったし」

「翔太がなんかした事は確定だと思ったぞ」

「……さっきは悪かったな橘。私も動揺し過ぎた」

「いや、俺の方こそごめん」

「じゃあ仲直りって事でカレー食べようぜ!」


 カレーと言われて思い出した。


「そういえばご飯シャバシャバなのか?」

「それ嘘よ。翔太を引きつけるための作戦だもの。私がいて失敗するはずないでしょう」

「そうですかい」


 瑠奈の高スペックぶりを忘れていた。確かに頭のいい瑠奈が水の分量を間違えるとは思えないもんな。


「翔太へのドッキリって所だ。椿に何かしたのは分かってたし、椿もノッてくれたからな」

「早く食べるぞ。橘!」


 一ノ瀬は俺の手を取って、カレーの方へ走っていった。ご飯を持って行くのを忘れている一ノ瀬に、敢えて言うのは野暮だと思ったから言わないでおいた。それに、この手の感触を楽しみたいと思ってしまったのだ。その後、涼平と瑠奈にからかわれたのは言うまでもない。

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