第45話 殺す
* * *
「まずは軽めのものから試してみましょう。ティリアは右利き? なら、左腕を出して。肘まで見えるように」
ファリスの指示に従って、ティリアは袖をまくる。
ファリスは持っていた鞄から黒インクを取り出し、指先でティリアの腕に何かの模様を描き始める。何を描いているのかは、ティリアにはわからない。どこか禍々しいものを感じるのは確か。
「ただのインクで描けば、後で消すこともできる。でも、一度描くと一時間は消えなくて、その間はずっと左腕が痛む。それは覚悟して」
「大丈夫。痛いだけで強くなれるなら、見返りは十分。逆に、消えないようにすることもできるの?」
「特別に調合した消えないインクを使えば、自然には消えない。消すには解呪の力とかが必要。でも、消えないって地獄だよ? 痛みで夜もまともに眠れなくなる。いくら強くなれたとしても、一月もせずに衰弱死したら意味がないでしょ」
「それは意味ないなぁ……」
「準備には時間がかかるけど、この呪いの付与は一時的にした方がいい」
「そっか……」
ティリアとしては残念な話。毎回ファリスに頼まないといけないのは手間だし、突然の戦いでは使えない。
それから十五分ほどして、ティリアの左腕は禍々しく不気味な模様で埋め尽くされた。
「覚悟はいい?」
「うん」
「……呪い付与。鬼姫の呪い」
「ふぐ……っ」
呪いが付与された途端、左腕から黒い
「う……ああ……っ」
今まで感じたことのない痛み。全身に嫌な汗をかき、目に涙が滲んでしまう。
「……痛いでしょう? こんなの、とても何日も耐えられるものじゃない」
「……い、痛い……。けど、カエンの力になれるなら……平気……っ」
「全然平気そうじゃないよ……。カエン、この子を止めてよ」
「俺が言ってもティリアは聞かないだろうな。好きにさせてやってくれ」
「もう……。あんたたちって一体なんの……?」
ティリアはひたすら激痛に耐える。安静にしてても、この痛みが消えることはない。
「痛むだけで体に異常がないなら、こんなの、無視すればいい……っ」
カエンとリシャルが戦っているときの無力感を、ティリアは思い出す。痛みに耐えるだけで二人と肩を並べられるなら、どんな痛みだって耐えられる。
腰に差していた魔剣を、ティリアは鞘に納めたまま左手で持つ。
(軽い……)
以前は、剣一本でもかなり重く感じていた。
今は小枝のように軽く感じる。
(これが呪い付与。激痛と引き替えにするだけの能力向上はあるんだ……)
ティリアは椅子から立ち上がり、剣を振り回してみる。左腕だけの強化なので急に全ての動きが良くなるわけではないのだが、とにかく剣は軽く振り回せた。
「すごい。これなら、わたしも戦えるかもしれない」
「でも、ずっと痛むでしょ? 耐えられる?」
ファリスはずっと心配そうにティリアを見ている。
「……平気。う……っ」
左腕が一際痛み、剣をその場に落としてしまう。
「ほら、無茶でしょ? この呪い付与、とても人間が耐えられるものじゃないんだよ。あたしも何度か試したことはあるけど、使いこなせなかった」
「……ファリスとわたしは、違う。わたしは、カエンと一緒に戦うんだ。一人だけただ見てるなんて、嫌なんだ」
ティリアは剣を拾い、もう一度振り回す。
「それ、放り投げないでよ?」
「うん……」
痛い。痛い。痛い。
痛すぎて何も感じなくなるなどということはない。ただずっと痛い。
(負けるな。強くなるんだ。カエンと一緒に、戦うんだ。カエンのために、戦うんだ)
カエンは、お情けで自分を守ってくれている。
一緒にいてもデメリットが多いはずなのに、それでも側に置いてくれる。
話し相手になれても、きっと、本当の意味で仲間にはなれていない。
黒剣のあの四人のような深い絆は、全くない。
守られるだけの存在じゃなくて、対等な仲間になりたい。
(わたしはカエンが好き。男の子としても、仲間としても。恋の成就なんてどうでもいい。わたしとカエンの関係を、そういう安っぽい繋がりにしたくない。もっと深く、恋よりも愛よりも深く、カエンと結びつきたい。いっそ一つの生き物になるくらいに、強く、深く)
ティリアは
痛みは消えない。
今にも剣を手放してしまいそう。
もう嫌だと、叫んでしまいたい弱い気持ちが覗く。
でも、そんなのはねじ伏せる。
そして。
心の奥底から、ふつふつと黒い怒りがわいてくる。
己のふがいなさや弱さにも苛立って。
世の中の理不尽さにも苛立って。
痛みばかり訴えてくる呪いにも、苛立って。
「……お前、いい加減にしろよ。たかが呪いの分際で、いつまでもわたしを煩わせるな」
元々、闇属性なんて称号を持っていた。
殺すと決めた相手に対して、戦闘力を増すのだとか。
だったら、呪いも殺せるだろうか?
「……大人しくわたしに従え。痛みはいらない。力だけ、貸せ」
剣を強く強く握りしめて、痛みを限界まで高める。そして、それを精神力で押さえ込む。
体は何も傷ついていない。この痛みはいわば幻覚。
ならば、消せる。
殺せる。
「死ね」
痛みがすっと引いていく。
全く痛みがなるわけではなかったが、せいぜい針を刺される程度の痛み。耐えられないものではない。
「あははっ。ようやく大人しくなったね。いい子いい子……っ」
ティリアは左腕の模様を撫でる。
剣を振り回してみるが、身体能力は向上したまま。
鬼姫の呪いは、ティリアに下った。
力が沸いてきて、気分も高揚する。
「……ティリア、大丈夫?」
ファリスが眉をひそめながらティリアに尋ねてきた。
「なニがァ? わたシは大丈夫ダよぉ? 痛みもモう平気ィ」
「……目っていうか、口も……黒いし……何か出てる、よ?」
ティリアは自身の体を確認してみる。左腕だけから立ち上っていた黒い
「アれぇ? こレ、ナんだロぉ?」
「……あたしも、こんなの知らない。あんた、一体何をしたの?」
「んー? 呪いヲ殺シた? 自分でモよくわカんなぁイ。あハははっ」
「あ、あたし……もしかしてとんでもない怪物を生み出しちゃったんじゃ……」
「ふふフふ? だいじョぉぶダヨ。ワたしはいツもどぉりだカらァ」
左腕は痛む。でも、何故か気分は良い。
カエンのために戦えるし、人だって殺せる。
何も怖くない。
なんでもできる。
「アははははははハははハははハはははハハ!」
気分の高揚と万能感は、呪いの効果が消えるまで続いた。
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