蝙蝠たち

  那津は制服を着て家の前に立っていた。俺を見かけると駆け寄ってきて、ありがとうありがとう、と感謝を拵えた麗しき眼で媚びる。俺は都合のいい野郎だと思いつつ、真白な曇天の曖昧な翳りによって間延びした路の消失点を恐れていた。

「落ち着いて歩くんだ。しかしカメラから目を背けてはならない。ゆっくり歩いて、そいつの家の前に着いたら、道路の真中で土下座しろ。お前の話を聞く限り、そいつは普段からモニターとにらめっこしているに違いない。家にいるなら、お前を見つけた瞬間に、出てくるだろうよ。まず俺たちが謝罪しに来たことをアピールしにゃいかんぜ」

「ああ」那津は頷く。

「そいつが家から出てきたら、なんて言うか決めてるな?」

「ああ。誠心誠意謝るさ」

俺は那津の後ろについて路を進んだ。俺が進むことを恐れるよりもっと、那津は恐れているようで、時々立ち止まっては振り返り、もうやめにしようという目で俺を見た。俺はその気持ちが十分理解できたわけだが、震える手ではたいて前に進むよう促した。黒いダッフルコートの質量を貫通して、俺の内部が凍えを示すシバリングの無頼さといったら。

「この角を曲がったらすぐそこだ!」那津は小声で慄いた。

「カメラに映るんだな」俺はカメラ群への想像を膨らませる。

「ああ。ああ」

「お前が先に行け、カメラから目を離さず、誠意を示せよ」

「わかってる。わかってる。ちょっと待ってくれ」那津は深呼吸を繰り返した。そして、四度目の深呼吸の途中、胸をせり上げて息を止めるところで突然「よっしゃ。清算といこう」と独り言ちて急に角を曲がったので、俺は焦って後に続いた。

 そのようにして、私の心は動揺のままに、無際限のカメラレンズに映ったのである。壁一面に、軍隊のような正確さをもって整列するカメラ群が、四方八方をランダムに監視し、無秩序と秩序の入り混じった気持ち悪さを惹起する。一見百はあるだろうそのカメラの中には、空を監視するように顔をもたげたカメラもあったし、地を監視するように俯くカメラもあった。隣家の壁を見つめるカメラもいれば、隣の空き地を呆然自失と見つめるカメラもあった。扉を中心として欅の病葉のように広がるカメラ群は、軒の高さのところまで同じ種類のカメラ、黒い躯体に丸い覗目のそれ一種類だったが、軒を越えると類もまばらになり、角張ったものや、丸くしなやかなもの、黒色がほとんどの中、いくつかの暖色のカメラもあり、特に際立つ赤色のそれは、生物が自己の毒性を表現するっために体を赤くするのと一緒で、極めて激しい攻撃性を示していた。もはや、防犯カメラと呼ぶには相応しくない。攻撃カメラ?俺は、監視カメラと防犯カメラという言葉の些末な違いに心細くなる。

 とにかく、那津が、防犯カメラの群を見て「凶悪な攻撃の手段」だと言ったことには合点がいった。目の前を慎重に歩く那津は何度かバランスを崩しつつも、どうにか家の前に立ち、監視カメラの大群の前に胸を開いて、すぐに土下座した。俺は頭を深く下げた。

 それから数秒してからドアがゆっくりと開いた。それは、新聞の集金に出るような穏やかさをもっていために、私は土下座の効果を確認して安堵した。しかしそのあとすぐに、彼の憂鬱な目に沈む、怒りのその先を目の当たりにし、肺に雪崩れ込む冬の空気が凍てつく。

「待っていたよ」男がそうつぶやくと、那津は頭をあげた。那津に聞いていたより、ずいぶん若いように見えたし、自分で丸刈りにしたようだった。それに、眉がなかった。

「申し訳ございませんでした」那津は土下座のまま上目遣いで言った。

「紙を貼ったのは僕です。僕が一人でやりました。ほんの出来心でした。本当にすみませんでした」那津はコンクリートに額を擦り付ける。

「俺は彼、那津の友人で矢根と言います。今回は那津が本当に申し訳ありませんでした。友人として、謝らせてください」俺は深く頭を下げた。

男は車庫の横を通って俺たちのすぐ前に来た。そして、那津を見下ろしたままごく冷静に言った。

「妻は実家で鬱。娘も実家で不登校。私は休職」男は、自分の状況を整理するように言う。機械的な声色。カメラ群を光背にして立つ男にはやはり眉がない。曇り空では影も曖昧で立つ瀬がない。

「どう責任を取るんだ」

男は那津を見下ろしたまま言う。那津は叫ぶ。

「警察に行きます。僕は捕まって、高校は退学になります。どうにか許してください」

「本当にすみませんでした」俺は深く深く頭を下げた。

男はその言葉を直立不動で受け止めると、やがてゆっくりかぶりを振った。

「ダメだな」男は静かに言う。

「妻も娘も、お前が地上に存在する限りはこの家に帰ってこれない。無論、私にも安心は訪れない」男は那津の眼を見つめた。

「自殺しろ」男の言葉を聞いて、那津は膝をついたまま震えあがった。

「無理です」那津は先よりももっと遠くに向かって叫ぶ。

「自殺しろ」那津は拒絶するように正座のまま後退する。

「今すぐ死ぬんだ。ここで割腹しろよ。包丁渡してやるから」と言って男はズボンの内側から包丁を取り出し、那津の膝元に向かって投げた。コンクリートに弾かれた包丁が短く高い金属音を放つ。

「できないです。できないです」

「なぜできない?」男はナイーブな目をして問う。

「怖いんです。怖いんです」那津は涙目で懇願する。

「貴様がそれを言うのか!」男は怒髪冠を衝いた。那津も俺もひるんで小さな悲鳴を上げた。

「貴様のせいで私たちは、私たちは」ギョロギョロと剥かれた双眸が、眉のない顔で狼藉を働く。

「まあ、貴様は死ぬ方が安心なんだ。これは寛大な処置だ」男は冷静さを取り戻して言った。

「私は貴様の学校、そしてクラスだって知っているぞ。今日来たお友達の矢根未希君だって、名前は知ってたよ」 俺はそら寒い思いをする。

「塾『ONE』、よく行くラーメン屋『丸屋』、両親『佳子』と『塔矢』姉『郁美』それから、山根君、高橋君、それから―――」

 彼はねっとりとした口調で、数多の固有名詞を歌うように言った。それらの固有名詞の意味は、彼の光背、カメラ群の跋扈する伏魔殿へとかどわかされていくようだった。この感覚はひとえに、俺の名前を呼ばれた瞬間に、俺の意味がかどわかされたと感じたことに起因する。俺は彼に名前を呼ばれたとき、自分が全く意味のない人間になったような気がしたのだ。

 那津は全てを暴かれて生気を失っていた。那津は自分と関連するものの意味を奪われて形骸化し、「自殺しろ」と言われれば、すぐにでもコンクリートで寝ころぶ包丁を手に握りしめるだろう

「私は、貴様のことをすべて把握している。これ以降だってそう。貴様がこれ以降何かを手にするなら、私はそれを一つ一つ壊して回ろう。なあ、もう君は死ぬのが安心なんだよ。今すぐ自殺しなさい」

男は諭すように那津を死へと追い詰める。俺は何も言えない。俺はこの男に対して言葉を持っていない。

 那津は正座の体制から、恐る恐る前かがみになって包丁を拾い上げた。両手で握りしめ、刃先を自分の腹に向ける。体が揺れる。

「ああ……」那津は気息奄々として、弱弱しく音を漏らした。俺は自分がこの二人に対して言葉を持っていないことを強く自覚していたが、それでいても、友人が自殺することは耐え難い。止めようとした瞬間だった。那津がからだを大きく揺らすと、右手で包丁を振り上げ、見下ろす男の脚に振り下ろした。男は咄嗟に引いて、那津は勢いのままコンクリートに包丁を突き立てて倒れた。すると、男がうめき声をあげ、脚を見ると、膝ちかくのズボンが裂かれ、大きな切り傷と共に出血していた。

「てめえが死ね!」那津は全身を大きく躍動させて立ち上がる。男は脚を庇って立膝を付いていた。那津はもう一度刺そうと男に接近したところで、俺は那津の両腕を後ろから掴んで叫ぶ。

「殺しちゃダメだ」

「離せよ。これは俺とこいつの問題だ」鼻水の垂れた那津は、俺の腕を振り払おうともがく。

「取り返しがつかないぞ」俺が那津を拘束している間に、男はどうにか立つと、その手にはもう一本の包丁を持っていた。足を庇いながら今にも切りかかろうとする男を見て、俺は那津の拘束をほどいた。すると、那津は刺されることへのリスクを恐れたか、元来た道の方へと全速力で走り出した。

「貴様!」男は那津の後を追って脚を引きずりながら道をじりじりと進んだ。角を曲がった先で「家だって知ってるんだ。必ず全部壊してやる!」という怒鳴り声が聞こえた。それから、なんどか怒鳴り声が聞こえたが、次第に遠くなっていって消えた。

俺は結局、無際限のカメラを前にしてこの悲劇の結末を担っていた。




 結局、その後俺はもうあの二人と関りたくないと思って、那津にも連絡しなかったし、二人の家の前の道はおろか、その三本隣の道を歩くことすら拒絶した。私はあの事件以降警察沙汰に巻き込まることを懸念していたが、それはなかった。無論、こちらから問題にすることは考えなかった。

 実はあの事件から三か月だったころに、那津が退学したこと、先生から説明があった。理由は家庭の事情だという話で、クラスの皆はもう気にも留めていなかった。俺だけが那津の恐れを知っていた。だからこそ、もう清算することは叶わないにしても、この退学のタイミングで俺が那津を訪れなければ、もはや那津は永遠に孤立してしまうだろうと悟る。

 退学を知った学校帰り、那津の家に向かった。もう行かなくなった公園の遊具を、夕焼け空が照らして、私は幼き日々の再来に感動していた。迫り来る夏の気配と消えゆく落日の香りがした。

 駆け足で那津の家へ向かう。額から春の汗が滴る。まっすぐ道を進んで、那津の家が見える角まできたところで、翳る岩壁に苔が群生し、薄ら寒いのを感じとった俺は急に不安に潰されて歩みを止めた。しかし、進まなければならない。俺は角から身を出した。そして、あの男の家と同様に、無際限の防犯カメラが群が猖獗を極める那津の家を目の当たりにして、にわかに疲れが押し寄せた、歩を進めた俺は那津の家の前に立つ。俺はしばらくそこで、無際限のカメラ群が俺を映すままにしていた。低く鳴る心臓を握りしめて、那津が扉を開けることを願って待っていた、が、やはり、いくらまっても那津は出てこなかった。

 たぶん、二人とも、互いの全てを潰して、壊して回ったんだろう?二人に残されたことは防犯カメラ群に囲まれて、提供され続ける虚無の道路を覗くことだけだ。近隣住民は今日も眠れない。

 俺の町には二つ、百目のトーチカがある。それぞれ孤独な男が、百目の視神経と繋がったモニターを見張っている。影の濃い部屋で、互いが互いのことを恐れ、警戒し、蝙蝠のように。モニターに待ち人は映らない。そのために、那津が言ったような防犯カメラ群の攻撃性は意味を持たず、全身に恐怖の鳥肌を立て、壊れた平穏を守り続けようとする百目のトーチカ。二人はこれからもその内側で、外の世界を監視して、決して来ることのない待ち人を恨み続けるのである。

 俺は無際限のカメラ群に映されながらそんなことを考えていた。夏が来る。悪いが俺は生活に戻らなければならない。


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