百目のトーチカ
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顛末
「平穏なんてものは、容易く打ち壊せるんだ」那津がそう言ったとき、彼の額には大粒の汗が滲んでいた。
「どうした。学校に来ないと思ったら。一体何があった」駅はずれのの古びた喫茶店に呼び出された俺は、那津の変わりように驚きを隠せない。
「てきとうな脅迫文一枚、玄関に張り付ければ、すぐに平穏は終わるんだよ」那津はそう言って、震える手でコーヒーを飲んだ。
「ああ、ああ、そんな話がニュースになってたかもな。それで、なんて脅迫文が貼られてたんだ」俺の言葉を聞いた那津がコーヒーカップをテーブルに強くたたきつけた。その打音で舞い上がった埃のまなざしを断ち切って、那津は俺を睨む。
「勘違いしてんじゃねえぞ、ヤー。俺がやったんだよ」那津の鋭い眦から憤怒がまろび出る。
「ええ、そりゃまたなんで」俺は困惑して言う。
「理由なんてものはないさ」那津は嘲笑気味に言ったが、那津自身を嘲笑しているようでもあり、俺を嘲笑しているようでもある。
「山があるから登る、的なことか?」
「家があるから脅迫するってか。くくく」シニカルに笑う那津の口角が痙攣する。
「で、どんな脅迫文を貼っつけたんだよ」
「普通に『おまエ を 見てイ る』さ」
「普通って……ともかく、今すぐやめにゃいかんぜ」俺は強い口調で言った。しかし、那津は俺の忠告などは歯牙にもかけない。
「辞める?」と言って那津はけたたましく笑う。
「面白くなってきたところさ」
「楽しんでいるようには見えないぞ」那津は、俺が水を飲み終えるのを待ってから、まるで、壮大な物語を創るように喋りはじめた。
「事の顛末を聞け。俺はよ、ほら、高校の近くにあるプリン公園のそばを散歩してたんだ。六時には寒い夜が広がる冬、俺は掲示板に貼られた啓蒙、そう、啓蒙のポスターを見ていた。ギャルタレントが警察官の服を着て、ダーティローズの唇から、異常に白い歯を突き出して笑っているポスターを。確か、交通安全の啓蒙だったかな、まあ、そんなことはどうでもいい。冬の太陽が蒼穹を侍らせたことに嫉妬した冬の夜は深く濃淡な闇を示すだろう?俺はその闇の中で、街灯の寂光を頼りにギャルの異常なまでに白い歯を見たんだ。そうしてから背を向けると、俺はそのギャルに見られているという気がする。そうして、一つの五月蠅い妄想に取りつかれたのさ。つまり、家の扉にこのポスターがあれば、恐ろしいだろうってな。
そう考えたら、別にギャルである必要もない。もし扉に『お前を見ている』って張り紙があれば、俺は恐怖に震えて、生活を壊してしまうだろうね。そんでもって、張り紙を貼るなんてことは簡単に実行可能だろう。家と家の間、防犯カメラの合間を縫って、ポケットから紙を取り出し、扉に貼りつけてすぐ道へ戻れば誰にもバレやしない。俺は冬の空に鳥肌を立てたよ。急いで家に帰り、リビングの隅に積み上げられた新聞を数部古いのから取って、俺の部屋で『お前を見ている』の張り紙を作ったのさ。
平穏は容易に打ち壊せる。俺はそれを証明するために、めいっぱいの平穏を湛えた家を探して歩き回った。とある新築が俺のお眼鏡にかなったんだ。デカい新築ってのが良かった。それなりに金を持っていて生活に困っていない。そして、車庫の端には小さい自転車が一つあった。間違いなく子供もいる。最高の平穏だった。俺のために用意された平穏。打ち壊されるための平穏。新築ってことは、この土地で一生暮らすってことの証明だもんで、俺がその人生設計を台無しにしてやれたら、どれだけ最高かと思ったのさ」
那津の額はいつの間にか乾いて、青白い顔と唇を暖房の利いた喫茶店に晒した。那津は、語りゆく夜に回帰し、もう一度冬至の寒さを味わっているようだった。今年は厳冬である。
「新生活への熱い期待も紙切れ一つで簡単におじゃんさ。俺はその夜に
『おまエ を 見てイ る』
のイズムを貼っつけてやったのさ。最新の玄関は、鍵を差し込みやすくするために鍵穴が淡く光るんだなあ!くくく。
翌日の朝、何か変化でもないか確認しに行くと、本当に偶然さ、憔悴しきった男が丁度、スーツ姿で出かけていくところに遭遇したんだ。頭は禿げていたが、俺のせいかもしれんな。
中年男の顔面蒼白と言ったら最高だった。俺は大方満足したんだ。そうして満足した俺は、数日後、張り紙をしたことなんてすっかり忘れて散歩をかましてたんだ。偶然その家の前まできて、驚いた、扉の上に一つ、防犯カメラが取り付けられてたんだよ。絶頂したね。お先真っ暗の新生活。俺が寝ているときも、散歩しているときも、飯を食う時も、あの家族は「おまエ を 見てイ る」に震えてるんだ! 平穏は完全に打ち壊された。俺は正しい、いつも正しい」
那津はそう言って、湯気の失せたコーヒーを一息に飲み干した。縮んだ血管を更に絞り、ありったけの意気をこめた彼の告白ないし勝利宣言は、そばだつ彼の肌の細やかな凹凸に吸い込まれ、その後は永らく重い沈黙か続いた。那津はその間、彼自身の怯懦と格闘していた。愚鈍な唇を叩き起こすように自分の頬を強く打つ。自傷行為による一瞬の安堵を頼りに、那津は重々しく、事の顛末を明らかにしようとする。
「俺はもう本当に満足していたから、そういう意味では忘れることはなかった。しかし、防犯カメラが付いた以上、毎日毎日その家の前を通るわけにはいかない。捕まりたくはない!俺は恐らくカメラを付けてから大分はじめのほうに映った、得体のしれぬ若者ってところだろうから、ずいぶん警戒して、一か月は間を空けたんだ。そしたら、そしたら」彼は寒がるように自分の腕をさすった。
「防犯カメラが増殖していたんだよ!扉のある面は全て防犯カメラで覆われて、無際限のレンズが俺を見ていた。直感的に理解した。この防犯カメラ群は、平穏を守るための防衛手段ではなく、むしろ凶悪な攻撃の手段、他人の平穏を破壊するための道具なんだよ!俺はなるたけ冷静を装って、何とか逃げようと思ったんだ、でも足が動かないんだ!俺が震えていると、扉が開いて、禿げ上がった男が今にも俺を殺しそうな顔をして『殺してやる』って、俺は脚を叩き起こして逃げたんだ!背の方から『お前の顔は覚えたぞ。必ず殺してやる、必ず殺してやる』って」
那津は目に涙を浮かべて、テーブルに突っ伏せた。俺は、この下品で滑稽なお話をご清聴していたが、内心は那津に対する蔑如の念と、カメラで家を囲った男への憐憫に溢れていた。
「お前のやったことは犯罪だ。自業自得じゃないか」俺は言い捨てた。
「そうさ!」那津は机に突っ伏したまま言う。
「まず、もう絶対その家には近付くな」俺が警告すると、那津は頭をあげて、そうじゃない、と涙目を振るった。
「その事件があってから数日後、あいつは校門の前で俺を待っていたんだよ。俺は教室の窓からあいつを見た!あの禿げ頭を見つけて、裏門から帰ったのさ。ヤー。わかるか。俺をとっ捕まえるってんなら、ご丁寧に校門で待つ必要なんかない。待ち伏せすりゃいいんだ。あいつは俺に見つかるために校門で立ってたんだ!俺をとっちめようってんじゃんなく、俺の平穏を一つ一つ潰していくつもりなんだろうね、奴さん。おかげさまで、俺は学校に近づくことすらできない。塾ももう潰された、お気に入りのラーメン屋もぺしゃんこさ。今日だって、この喫茶店に来ることが今の俺にとってどれだけ勇気のいることだった。後生だからさ、ヤー。俺の頼みを聞いてくれないか。お前に断られたら俺は死んでしまうよ」
「嫌だね」俺はけんもほろろに言う。
「頼むよ。なあ、頼む。一緒に謝ってくれ」那津は頭をテーブルに擦り付けた。
「謝る?」
「そうだ。ヤーの言う通り、今の状況は自業自得だ。だからこそ、俺が拗らせたこの結び目をほどく方法を唯一知っているのも俺自身なんだよ。あいつの精神状態は、張り紙を貼ったころの俺と同じだ。果てしの無い安堵を与えて、平穏へと押し込んでやれば、すべて元に戻る。俺が囚われた奸智について、全て素直に披歴して土下座して謝る。すべてを明らかにし、すべて謝る。俺はそうして捕まるかもしれない。けれど、それでいいんだ。無期懲役でもいい。時の流れが、あいつの憤怒や怯懦や敵愾心、すべてひっくるめて彼方に押しやってくれたらいい。そうして、俺とあいつは元の平穏に身を寄せることが出来るんだ」
「まさか、間に入れと?」俺は青ざめて言った。
「難しいのはわかってる。でもヤーにしか頼めない。お前は俺の唯一の友達なんだよ」
追い詰められた高校生と追い詰められた中年の仲介、凍てつく冬の風、刃立つ月光の繊維質……
那津の友人が俺しかいないというのはいささか誇張されていたが、確かに俺は那津の一番の友達だった。それに、その中年があまりにも不憫でならず、俺がもし中年とその家族を元通りの平穏、新生活への期待へと回帰させてやれるなら、そうすべきだと考えた。
「本気で謝るんだな。全て素直に自白して、もう二度と同じことをしないと誓うんだな。もし先方が出頭や自主退学を命じてきたら、絶対に従うんだな。いいんだな」
那津は涙目で頷いた。
「わかったよ。今日はもう遅い。明日、午前十一時。できる限り誠実な格好をして、お前の家の前で集合だ。OK?」
「ありがとう、ありがとう」那津は俺の両手を握ろうと手を差し出したが、俺は手はポケットの内に留めた。それでも那津はけなげに感謝を繰り返した。俺の善なる心は密やかな満足を得て喫茶店を後にしたが、冬風によって頬が痛むと、追い詰められた高校生と追い詰められた中年の仲介というイベントが、正当な憂鬱さをもって喚起されるのだった……
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