ねこのめ

sayaka

第1話

 青い目に見つめられていると胸の奥がギュッとする。

 この子はきっと妹の変化した姿なのだ。そんなふうに思い込もうとして、それはないと首を振る。みゃあ、と可愛い声が不安な心に応えてくれているかのようで、私はまた感傷的になってしまう。


 妹が家に帰って来なくなってもう五日になる。直前にした喧嘩が原因であろうことは想像に容易いのだけれども、こんなに長い間帰宅しないのは初めてのことで、更には連絡もつかないことが焦燥に拍車をかけていた。携帯電話のメッセージも既読がつかないし、通話も繋がらない。

 妹が通う大学に問い合わせても、校門で待ち伏せをしても、梨の礫だった。妹の交友関係はある程度把握しているものの、連絡先を知っている訳ではなく、私は途方に暮れていた。警察に連絡することも考えたが、それではますます帰って来なくなってしまうような気がする。かくなるうえは、実家に連絡をするしかない。それは私にとってはとても気が重たいことだった。

「早く帰ってきて」

 口からこぼれた言葉は本心だった。白くふわふわの毛が私の腕に身をすり寄せてくる。こんなところが妹によく似ている。私が落ち込んでいる時に、そっと寄り添っていてくれるところ。

「なつき」

 私は妹の名前を猫に命名することにして、そうして彼女の名前を呼ぶことでいくらか心は満たされていた。

 妹は夏月と漢字で書くので、ひらがな呼びをすることで変化をつけていたとしても、時折どちらのことを呼んでいるのかあやふやになってくる。

 そう、今は猫と対峙している。幾分気持ちを込めて名前を呼ぶと、みゃああんと可愛い返事をしてくれる。この方が幸せなのかもしれない。


 妹がいなくなった日、この猫に出会った。家のドアの前でたたずむ姿を見て、違うと分かっていても、彼女が存在しているかのように感じられて、私はとても驚いた。いくら何でも妹と猫を思い間違えるなんて。

 妹の捜索をして何の成果も得られず、ともすればずっと気落ちして沈んでいたくなるけれども、この子の世話をするという大義名分のおかげで、なんとか自分を保っていられる。そういう日常生活の支えが必要だった。今までも、これからもきっと。

 そういう私の過剰な部分が嫌で妹は出て行ったのかもしれない。そのことを考えるのは辛かった。妹のいない部屋はとても広く感じる。普段は狭いと散々文句を言っていたとしても、そんなことは綺麗に忘れてしまっていた。

 妹と二人暮しをするために選んだ部屋で、今は猫と静かに暮らしている。そんなふうに考えてみると、どこか詩的で、少しだけ不思議だった。なんとなく心に余裕を感じられる。妹が事故に遭ったり、事件に巻き込まれたりしているのではないかという心配は殆どしていないのが薄情だな、と自分でも思えた。


 更に日が過ぎた。

 妹からの連絡はない。私はもう諦めの境地に至ることを望んでいた。勤務中にふと、今、妹が自宅に帰ってきているような気がして職場を飛び出して行きたくなる。そんな衝動を抑えているのはひどく疲れる。たとえば休憩時間でも、就寝前でも、いつでも突然大きな悲しみに襲われてしまう。妹はもう帰って来ないのかもしれない。

 震える身体を両腕で抱いていると、猫のなつきが私を見つめていた。つぶらな瞳、その奥に吸い込まれそうなほどに綺麗な色をしていて、ああこれも妹によく似ている。そうっと撫でると白くて長い毛が指の間を通り、わずかなぬくもりを感じる。自分以外の生命体の存在に、私はとても救われる思いだった。

「ごめんね」

 妹の顔を思い浮かべて謝る。

「ごめんなさい」

 何度も繰り返しても、届かない。涙をこぼす私を不審に思っているのか、猫はそっと離れていってしまった。

 以前にもこんなことがあったと回想をする。私が悲しくて泣いていると妹は気を利かせてくれて、一人になれるようにその場を離れる。そういう所が好きなのだと本人に話したことがあった。えーなんで?と笑っていたような気がする。面倒なだけだよ、とか、お姉ちゃんって変わってるね、とも言っていたかもしれない。そういう所もとても好きなので黙っていたけれど。

 少しして気持ちが落ち着いてきたので、猫を探しに行く。あまり物音も立てない子なので、その辺にいるのかと思っていたけれども、見当たらない。死角になるような家具も置いていないので、ぐるりと部屋を一周する。

「なつき?」

 返事はなかった。何度呼んでも。

 玄関は施錠しているし、窓もきっちりと閉まっている。外に出た訳ではなさそう。それなのに、室内から忽然と姿を消していた。

 もしかして、今までのこれは幻覚が見えていただけだったのかもしれない。猫が居た形跡なんてどこにもない。そう思いながら、ここ最近で買い集めた猫のためのグッズたちをひとつひとつ見回していく。

 どれも使い込んだ跡があり、夢じゃなかったのだと思おうとして、くらくらしてきた。私は猫に帰って来て欲しいのか、妹に帰って来て欲しいのか、その気持ちがぐちゃぐちゃになっていてよく分からない。視界が歪む。力がだんだん抜けてきて、そのままへたりと床に座り込んでしまった。

 とてつもない絶望感に襲われて、どうしていいのか分からない。前のめりの姿勢になっていると床に雫が落ちる。汗なのか、涙なのか判別つかなくなったそれをただひたすら見つめていて、やがて染みのように大きくなっていく。まるで小さな水たまりのように。


 その時、玄関が開く音がした。

 私以外の人間が鍵を開けて、ドアを開く。それはずっと待ち望んでいたもの。


「お姉ちゃん?」

「夏月………、お」

 おかえりと続けようとして一瞬言い淀む。でもそれが正しい言葉のような気がした。

「おかえり」

「……ただいま」

 真っ直ぐに私の目を見てそう返す妹は、少しだけ痩せたように見えて、幾分元気がなさそうだった。元気いっぱいに帰って来てもそれはそれで驚くけれど。

 妹からはいい匂いがしていて、手にはビニール袋を提げていた。

「親子丼買って来たから一緒に食べよう」

 猫の目のようなきらきらした瞳で見つめられると、頷くことしか出来ない。

 私は七味をたっぷりかけて、妹は冷蔵庫から生卵を取り出して黄身だけを器用にトッピングしていた。普段全くといっていい程料理をしないのに、卵を割るのが上手い。そんなどうでもいいことを考えながら、二人で向かい合って親子丼を食べた。トロリとした卵の味がしてとても美味しい。

「ごちそうさまでした」

 食べ終わったのでお茶でも淹れようかと立ち上がる。妹はそんな私を不思議そうに見上げていた。

「どうだった?」

「美味しかったです」

「そうじゃなくて、今まで、どうしてたかなって」

 それは私が聞いた方がいいような質問にも思えるけれど、こうやって話を切り出すタイミングを作ってくれているのかもしれない。私は妹が帰って来たことでやや浮かれていた。

「猫と暮らしていた」

「ねこぉ?」

 妙な発音でびっくりした。

「そんなことより、夏月は」

「いやいやそんなことってないよ」

「はあ?」

「お姉ちゃん猫好きだったの? 急に猫なんて飼ってどうしたの。しかも過去形なの?」

 何故か話題が猫に持って行かれてしまう。私の方こそ、今は猫のことより、と思ってそのまま言いそうになり自分でも驚く。

 私は猫のことを今更どうでもいいと思っているのだろうか。そんなことはないはず、でも先程までの気持ちがすっぽり抜けていた。

 あの目。猫の目を思い出そうとして、夏月の目をじっと見る。

 猫なんていない、どこにも。

 目の奥にも、私の心の中にも。それまでの日々が丸ごとなかったかのように、それを全て埋め尽くすかのように、そこには妹の姿があった。

 猫のようにいなくならないで欲しい。でも、そう言ったらきっと遠からずそうなってしまう。私はどう説明したらいいのか分からなくなっていた。

 猫を妹の代用品として愛でていただけなのだとしても、どうオブラートに包んでも、きっと伝わってしまう。

「猫が好きっていうか、夏月みたいな猫だったから」

「あたしは犬系だよ」

 そうなのだろうか。言われてみればそうかもしれないと思おうとして考え直す。

「絶対に猫」

「ええ、そんなの初めて言われたにゃ」

「語尾が余計」

「にゃん、にゃんにゃんにゃーん、にゃ?」

「猫語で喋られても分からない」

 妹は猫の鳴き真似がとても下手だった。そのことを初めて知る。

 あの子の声を思い出して口に乗せてみる。にゃあ、やっぱりここにいるのかもしれない。


 

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