ゾンビ的存在と人間の狭間で

@bagu

悪あがきの狂想曲

 もはやゾンビを食べる他ない。

 グラグラと音を立てる鍋の中で、大量の肉が踊っている。湯気と共に、下処理をしていない肉の臭みが鼻腔を刺激し、思わず顔を顰めた。

 しかし。

「腐敗臭は無いな……?」

 打ち捨てられた一軒家の台所で、暗がりの中、鍋を煮る僅かな火の灯りが、憔悴した太朗の顔を照らしていた。

 ゾンビパンデミックから5年、太朗は都市コミュニティの回収屋として生きていた。人類の生存権外、ゾンビの跋扈する地帯から、様々な物資を回収する仕事だ。

 そして今、太朗は餓死の危機に瀕していた。

 何でも良いから……例えゾンビの肉でも良いから口に入れたい。それ程までに追い詰められていた。

『腹に入れば何でも同じだ』

 世界がこんな事になる前日、太朗は妻にそのようなこと言った。当たり前のように、喧嘩になった。妻はのんびりした気質で、恋人時代、そして結婚当初はそれが好ましかった。

 それが鈍くさく映り始めたのは、何時の事だっただろう。一番苛立ったのは、食事の支度が遅い事だった。腹を空かせて帰宅しても、2時間は待たされる。他の家事が逼迫して、支度が遅くなってしまうらしい。

 一度なら良い。それが毎日となると、物申したくもなる。

 そうして始まった喧嘩が、妻との最後だった。次に妻を目にした時は、裂けた腹から大腸をぶら下げて、虚ろな瞳でリビングを蠢いていた。

 それを見て、太朗は恐怖に震えながら逃げ出していた。以来、一度も戻っていない。今でも彼女は、あのマンションの一室で徘徊しているのだろう。

 食料が尽きたのは、想定外の足止めが原因だった。

 路地に立ち並ぶ住宅街を探索中、無法者連中の襲撃に逢ったのだ。

 無法者は都市コミュニティに寄らず生きている。何も生み出さず、略奪や放置された物資を都市コミュニティの闇市に流すなどして生計を立てている。

 太朗はこのような連中を唾棄していた。ゾンビパンデミック初期、生存者の集まったコミュニティがこのような連中に因って崩壊させられた事例は多い。太朗の最初の避難先も、そうした者達の横暴で崩壊した。太朗自身も被害に合っていた。以来、太朗の中で倫理観の欠如は許されざる悪となった。

 今回、太朗を襲撃した無法者は4人。金属バットやスリングショットで武装していた。

 彼等に追い立てられ、逃げた先でロープの罠に掛かったのだ。電柱にロープを括りつけておき、その地点を通り抜けようとしたら、隠れていた一人がロープを引っ張る。

 単純な罠だが、慌てていたために気が付かなかった。盛大に転倒し、手や肩、膝に裂傷を追いつつも立ち上がると、そのまま駆けだしていた。幸い、逃げた先にまで待ち構えてはおらず、ある程度の距離を走った後、民家の中に姿を隠したのだった。

 だが、必要最低限の物資を詰めたリュックと、腰に下げたナイフしか持ってこれなかった。

 更に、逃げている時には気が付かなかったが、右足の指も怪我をしていた。親指と中指の爪が剥がれかけていたのだ。休んでいる間に痛みが増してきて、応急処置をしたものの、しばらく動けなくなってしまった。

 逃げ込んだ先の民家にゾンビが居なかった事だけが幸いだった。

 それから2日が経って、行動開始を決意した。足はまだ痛んだが、動かざるを得なくなった。食料が無くなったのだ。

 自転車が無いので、携帯のさすまたを杖替わりに移動することとなった。放置された自転車は多いが、全て使える状態ではない。

 だが、足を引きずっての帰還では、特にゾンビを避けながらでは、恐ろしく時間が掛かる。

 ゾンビは意外に早い。走りはしないが、両腕を伸ばして追いすがってくる。それは小走りに近く、不自由な足では確実に追いつかれる。

 更に、無法者にも注意しなければならない。次に襲われれば、終わりだ。

 周囲に警戒しながら歩を進め、5日が経過した。

 そうして、今日の宿として定めた民家で、ゾンビを煮ているというわけだ。

 都市コミュニティまでの道のりは、未だ遠い。そして、太朗はもはや限界だった。

 残っているのは、僅かな水のみ。

 鍋の肉は、この民家に居た個体だ。女性体で、恐らくは太朗と同年代の、30代前半。リビングに置かれていた写真立ての容姿から、この家の奥方だったのだろうと想像出来た。

 ゾンビは一体程度ならば楽に倒せる。携帯用のさすまたで転ばせて、金属バットなどで頭を潰す。ナイフは直ぐに消耗するので、あまり使いたくなかった。今回は、この民家に置かれていたバットを使用した。バットで肉を潰す感触は、もはや慣れたものとなった。

 鍋の中、不細工な角切りになった肉を、菜箸で突いた。

 鍋と菜箸は現地調達したものだ。火は自前のライターを使ったが、燃料はこの家の新聞紙を使用した。

「どうなれば出来上がったことになるか分からんな……?」

 菜箸で摘まみ上げた肉を、舐めるように観察する。臭いが、豚肉に近い臭いがする。

 肉なので色が変われば大丈夫だろうとは思うが、何せ、ゾンビの肉だ。

 腐っているかどうかの問題ではない。脳だけは例外だが、ゾンビの腐敗は平均して体表5ミリ程度に留まっている。

 感染の問題だ。

 自然感染を免れた者は抗体を持っているが、咬まれればゾンビ化する。よって、食べれば感染する可能性は十分にある。

 しかし、食べなければ飢え死にする。

 食べて感染のリスクを負うか、食べずに体力が尽きるまで歩き続けるか。

 そして、ゾンビを食べるに当たっては、もう一つの障害がある。

 倫理観だ。

「……なんだ?」

 小声で呟いた。

 外から音が聞こえる。

 リビングの窓、締めきったカーテンの向こう。庭で音がした。

 ゾンビか、あるいは無法者か。

 カッ、カッ、と音がする。次いで、ギギ、と窓を開けようとする音。鍵を掛けてあるので、開きはしなかったが。

 次いで、

「開けてくれ……」

 窓の向こう側から聴こえる声。

 カーテンの隙間から慎重に様子を伺って、太朗は眉を顰めた。

 そこには、今にも倒れそうな男が居た。やつれ、ボサボサの長い髪は乱れ、衣服はボロボロだった。太朗よりも酷い状況に思えた。つまり、餓死寸前という意味において。

 無法者では無さそうだ。

「お前は何だ?」

 窓を開けて、静かに訊いた。

 男は力なく項垂れた。

「中へ入れ。音を聞きつけて、ゾンビがやってくる」

 窓を閉めると、深い息と共に、正座の姿勢でくず折れた。疲労困憊と言った感じだ。

「もう一度訊くぞ。お前はなんだ」

 肉厚のサバイバルナイフを男に向けると、男は消え入りそうな、か細い声で答えた。

「腹が減って、もう……。そんな時に、美味そうな匂いがしたから……」

 美味そうな匂い、という言葉に眉根を顰めた。太朗の好みでは無かったが、そう感じる者も居るかもしれない。

「無法者崩れか?」

 都市コミュニティの調査では、無法者の生存率は低い。把握していた無法者のコミュニティが、一週間後にはゾンビの群れになっていた……ということなど、ざらにあるようだ。

 男も無法者の一員で、辛くも逃げ延びて食料に困窮したのかもしれない。

 だが、男は頭を振った。

「なら、犯罪者か? それで、都市を追われた?」

 太朗の言葉に、男は薄く頷いた。

「何をした。盗みか」

 更なる詰問に、男はまたも頷いた。

「盗みで、放逐されて……」

 現状、盗みは重罪だ。悪質であれば、放逐も有り得る。放逐は、実質的に死刑に等しい。ゾンビの跋扈する世界において、外界で一人で生きていくことは不可能に近いからだ。

 太朗はナイフを収め、男に言った。

「犯罪者を助ける義理は無いんだがな」

 だが、放っておいて騒がれれば、ゾンビが集まるかもしれない。

「なにか、食べる物を……」

 男の言葉に、太朗は嘆息した。

「残念ながら、食料は無い」

「あんた、回収屋だろ……? それが、食料が無い……?」

 男は、どうも馬鹿では無いらしい。太朗の身なりやこの家屋を拠点にしていないらしい様子から、無法者では無いと判断したのだろう。

「色々と事情があるんだよ」

「その、鍋は……?」

 太朗は腕を広げて、男に鍋の中を見るように促した。

「肉! 肉じゃないか!」

 狂気すら垣間見える渇望が声から溢れ出た。

 しかし、

「肉……?」

 途端にトーンが下がった。

 こんな場所で、食料に困窮している男が、肉を用意出来る筈が無い……ということに気が付いたのだろう。

「これはまさか、ゾンビの……」

 Aが頷くと、男は信じ難い顔でこちらを見た。

「正気か……? こんな、ゾンビの肉なんて……」

「分かってるよ。俺も、やっぱり止めておこうと思っていたところだ」

 仏壇から蝋燭を持ってきて、ライターで火を灯した。微かだが、無いよりはずっと良い。

 火の灯りで照らされた男の顔は、いっそ病的だった。

「腹でも下したのか?」

 鍋を囲んで対面に座り、男にコップ一杯の水を渡した。コップはこの家に有った物を使った。

 男は受け取った水を、何故か嫌そうに眺めた。

「喉が渇いて……川の水を飲んだんだ。酷い目にあった……」

「それは……」

 馬鹿じゃないのか、と言い掛けて口を噤んだ。それを言うならば、ゾンビを食べようというのも十分に馬鹿だ。

「その水は安全だ。飲むといい」

 男は恐る恐る水を口に付けた。そして、次の瞬間には飲み干していた。

「もっと無いのか?」

 図々しい奴だ、と不快感を覚える。

(所詮、無法者と同類の人種だ……)

 犯罪者に倫理観を求めても仕方が無いが、太朗にとってはただただ不快だった。

「……何を盗んだんだ」

 これ以上に水をやるつもりは無かったため、太朗は話を逸らすことにした。

「……食べ物」

「そりゃ追い出されて当然だな」

 盗みの罪は重くなったが、とりわけ、食料の窃盗は重かった。

「家族のために盗んだのか?」

「いや……家族は……」

「……死んだ?」

「いや……いや。ただ……折り合いが悪くて」

 どうにも歯切れが悪いが、つまり正真正銘、自分のためだけに盗んだということらしい。

(都市コミュニティの内部に居た無法者か。死んで当然のクズだ)

 太朗の心中とは裏腹に、彼はつづけた。

「俺は……無職だったから」

「無職……」

「自分でも分かってるんだ。俺はクズだって。でも、どうにも働く気になれない。配給は減らされるから、親は当然、俺を責める。だから俺は……」

 男はそこで言葉を切った。

 だから、盗みを働いた。そして追われる身になったわけだ。

「……それ、本当に食えないもんかな」

 ゾンビ鍋を指して、男は言った。

 冷め始めて、黄色い脂肪が膜を作っている。

「俺、思ったんだけれどよ。二択なら、食べるのも有りかなって」

「二択?」

「餓死するのと、少しでも腹を満たしてゾンビ化するのと」

「ああ……」

 分からないでもない。

 だが、最大の障害がある。

「肝心なことを忘れてないか?」

 太朗が言うと、彼は眉根を寄せた。

「肝心なこと?」

「これは結局、人間の死体だってことだ」

 ゾンビを食べるということは、人間を食べるということを意味する。その心理的障害は大きい。

 だが、男はむしろ不思議そうに言った。

「それの何が問題なんだ?」

 今度は太郎が眉根を寄せる番だった。

「何が問題って……正気か?」

 共食いのおぞましさは、普遍的な概念だった筈だ。

「正気だとも。遭難した船で死体を食べて生き残った話だってあるだろ? 極限状態で人肉を食べるのは、全く有り得ることだ。食料不足なのに、人肉を食べないなんて、それこそおかしな話だ」

 太朗は、男がどこまで本気なのかを計りかねていた。

(死んだ人間を食料にすべきだなんて本気で言ってるなら、この男は異常者だ。無法者だってそんなことはしない)

 一般的な感性として、死体は粗末に扱ってはならない。倫理の無さにも、限度というものがある。

「俺は、この鍋の肉が人間のものなら、躊躇わず食べてたね」

 男は、その衰弱ぶりに比べれば饒舌だった。そしてその言葉は、太朗にとってハッキリと不快だった。

 そうしたことは、口に出すこと事態が憚られるべきなのだ。罪悪感や良心のために。

「逆に訊くが、これがゾンビじゃなくて人の肉だったとしたら、お前は食べないのか?」

「それは、そうだろう」

「なぜだ。牛や豚の肉は食べられるのに、どうして人肉は食べられない」

 思い出すのは、ゾンビ化した妻の姿。

 太朗の妻はゾンビに喰われ、ゾンビと化した。人を食べる怪物に食べられ、怪物となったのだ。

「……躊躇いなく人を食べられるなら、それはもうゾンビと変わらないだろう」

 その言葉に、男は明確な不快感を覚えたらしい。力なく身体を起こし、こちらに向き合った。

「ゾンビと同じだって? 俺は、そうは思わない」

「なに?」

「人とゾンビを分けるのは、人を食べるかどうかじゃない。腐乱生物であるか、そうじゃないかだ。アレはもう別の生き物だろ」

 乱暴な言葉だったが、理解出来ないでもなかった。

 ゾンビを殺す時に、人間を殺しているという認識であったならば、とても正気ではいられないだろう。

 男は、だからゾンビを食べても共食いには当たらないと言っているのだった。

「だが、動いている時は人外でも、動かなくなれば腐乱した人間の死体だろう」

 太朗が言うと、男は鼻で笑った。

「じゃあ訊くがな、その死体を切り刻んだのは、誰だ」

 問われて、言葉に詰まる。

「結果、食べなかったとして、ここまで解体しておいて、今更に倫理観を語るのか?」

「それは……」

「それで、調理までしておいて、結局は捨てるのか。この肉の元がどんな人間だったのかは知らないが、哀れなことだな」

 全く反論できない。

 伏せられた写真立ての内側で、ゾンビと化したこの家の奥方が、こちらを見ているような気がした。

 彼女の解体は、目的のための手段でしかなかった。あるいは、ゾンビを殺し過ぎたことが原因かもしれない。この生活を始めてから、処理したゾンビの数は多い。百体は下らないだろう。

 それが人だったならば、どうか。百人を殺しておいて、全く心が痛まない。それは最早、怪物ではないか。

 心の痛み云々で言うならば、ただの一人でも殺してしまえば気に病むべきなのだ。

 気に病まない人間を、世界は異常者と呼んで蔑んできた筈だった。

(俺という人間は、もう異常者になってしまったのか?)

 ゾンビを殺すことに異議を申し立てる人間は、今のところ居ない。

 だが、空腹を凌ぐためにゾンビを解体した太朗を見て、結果的に食べなかったとしても、普通の人間はどう考えるだろうか。

 ゾンビアポカリプス前の自分が見たら、どう思うだろうか。あるいは、妻が見たら、どう思うだろうか。

 解体した彼女の夫が生きていれば、太朗の行動に激怒するに違いない。

 調理したゾンビの肉は、捨てるだろう。埋葬ではなく、捨てる。少なくとも、今の今まで埋葬をするべきなのではないかという考えは、全く無かった。

「まあ、俺はゾンビが人だとは思わないから、アンタのやったことは否定しないよ。さっきは二択だなんて言ったが、感染のリスクを考えれば、捨てて当然だ」

 だから、そう気にするなと、にやついた笑みで男は言った。太朗を言い負かしたようで、気持ちが良かったのかもしれない。

「そう……そう、だろうか……」

 気の抜けた太朗の返答をどのように解釈したかは分からないが、男は鼻を鳴らした。

 そこで会話は打ち切られ、二人の間に沈黙が落ちた。

 間もなく、男の寝息が聞こえた。かなりの衰弱具合だったから、あるいは気絶かもしれない。

 太朗も寝るべきなのだろう。だが、男を前にして眠るわけにはいかない。男は犯罪者であり、無防備に眠るわけにはいかない。

 そこで、太朗はその考えに苦笑した。

(何のために?)

 明日のために。生きるために。

(生き延びる……もう無理なんじゃないか?)

 それ以前に、このような自分は生きていて良いのだろうか、という疑問があった。もう、このまま死ぬべきではないのか。

 自分という人間は、どうも救いようのない人間に堕してしまったらしい。

 窃盗犯である男に対し、太朗は死んで当然の人間だという想いを抱いた。

 世間に蔓延る無法者に対してもだ。ああいう連中は、死んで当然の人間だと思っていた。

 だが、それは自分に対しても言えるのではないかと気が付いた。

 解体しようとしたゾンビが、仮に妻だったとすれば、どうだっただろうか。

 空腹の末に殺したゾンビが妻で、食べるためにそれを解体する。

 そんなことは、自分には出来ないと信じたい。

 では、殺すことは出来るだろうか。

 太朗がゾンビを始めて殺したのは、2つ目の避難先の防衛時だった。

 ゾンビ化した者の安息のために……というわけではない。必要に駆られて、仕方なく殺した。その日は、思い悩んで眠れなかったのを覚えている。

 一度殺せば、次からはあっさりと出来るようになった。それは単純に、慣れが大きいような気がする。ゾンビ化した者の安息のため、という大義を立てたからではない。

 そんなことは、頭の片隅にも思い浮かばなかった。

 生活のための回収。そのために排除すべき障害。

 ゾンビという存在は、太朗の中で、そうした物に成り下がっていた。

 だが、そうではないことを思い出した。ゾンビはあくまでも人なのだ。

 太朗はずっと、人を殺し続けてきたのだ。

 今ならば、妻を殺すことが出来るだろうか。そのことに、罪の意識を感じたり思い悩んだりするだろうか。

 分からない。

 眼を閉じると、思い浮かぶのは妻の最後。

 助けを求める妻の声。隣人のゾンビに腹を裂かれる妻。ゾンビとして起き上がる、妻の姿。

 もちろん、それは太朗の想像だった。

 ゾンビパンデミックが起きて、太朗が命からがら自宅マンションへ辿り着いたのは、騒動が起きてから一か月後のことだった。太朗の職場は、自宅から電車で一時間。騒動が起きて、公共交通機関はストップし、自宅への移動手段が無く、避難の関係から勝手な行動も出来なかった。

 最初の避難先が崩壊したのを切っ掛けに、帰宅を決意したのだった。

 自宅のドアを開けると、ゾンビ化した妻と、見覚えのある隣人の女ゾンビ。

 どうして、喧嘩などしてしまったのだろう。

 どうして、あんなつまらない事で怒りを覚えてしまったのだろう。

『腹に入れば何でも同じだ』

 どうして、あんなことを言ってしまったのだろう。

(どうして、今更こんな事を考えている……?)

 死を間近に感じているからだろうか。

 あるいは、自らの異常性を確認したからかもしれない。

 あの日のことを後悔しない日は無かった。

 だが、その仔細を考えることはしなかった。生きることに必死だったし、それを理由に考えないようにしてきたのかもしれない。

「……あれ?」

 気が付くと、太朗は自宅マンションの玄関に立っていた。

 顔を上げると、妻が目の前に居て、お帰りなさい、と口を動かした。

 太朗は思わず立ち上がって、首を捻った。

 なんだか酷く懐かしいような、奇妙な気分だった。

 こんなのは日常のことなのに。

 そうだ。仕事が終わって、帰宅した。それだけのことだ。それだけの事なのに、どうしてこれほどに切ないのだろう。

「お風呂、湧いてるわよ」

「あ、ああ……」

 風呂。

 温かい湯船に浸かりたい欲求が湧いてきたが、今欲しいものは、それではない。

「それより、食事がしたいな。腹が減って死にそうなんだ。君の料理が食べたい……」

「あら、腹に入れば何でも同じ……なんじゃなかったっけ?」

 彼女は揶揄うように言った。太朗もまた苦笑して、

「いや、あれは本当に悪かった。ごめん」

 本当に、どうしてあんな事を言ってしまったのだろう。日々の疲れ、苛立ち、あるいは生活への慣れとパートナーに対する甘え。

 本当に大切なものは失って初めて気が付くと言うが、本当だった。

 失う?

 失ってなどいない。大切なものは、目の前にある。

 次の瞬間、太朗はテーブルに付いており、食事が用意されていた。白米と味噌汁、肉じゃが、鮭の切り身、ボウルに盛られたレタスとトマトのサラダ。

 普通の食事だった。

 何よりも、それを求めていた気がする。どうしてか、太朗は泣きそうになった。

「ありがとう。それじゃあ、いただきま……」

 太朗は愕然とした。

 テーブルには、腐敗した妻の頭部が乗っていた。灰色と化して半分程が抜け落ちた頭髪、右頬から耳の辺りにかけては腐敗し、だらしなく開いた口元からは、青白くグズグズになった舌が突き出ている。腫れ上がって黒色と化した歯茎には、しかし頑健な歯列が健在だった。

 白濁した赤黒い瞳孔が、こちらを見ていた。

『どうしたの? 食べないの?』

「っ……!?」

 一瞬、全身が痙攣を起こした。

 立ち上がると同時に、右半身に衝撃が加わって、よろめいてしまった。

 夢を見ていた。

 何時の間にか寝てしまっていたようだ。

 そうして、悪夢で目が覚めた。心臓が100メートルを疾走した後のように打っている。じっとりと嫌な汗をかいていた。

(何が当たった……?)

 悪夢に驚いて目を覚まし、立ち上がった。右半身に加わった衝撃はなんだ。

 男が。

 男がナイフを持って、先ほどまで、太朗が居た場所で膝を付いている。

 太朗のナイフだ。寝ている隙に、太朗を殺そうとしたのか。太朗が急に立ち上がったために、ぶつかって失敗した。

「お前、何を……」

「死ね。お前の肉を寄越せ!」

 男は今にも倒れそうなのに、眼光と殺意だけは強烈だった。

 ナイフを振りかざして飛び掛かる……というには程遠く、足が縺れて殆ど倒れ込んできた。

 両手首を掴んで静止させると、男と真正面から目が合った。

 正気の眼をしていた。

 気が狂ってこちらを殺そうとしたわけでもないし、ゾンビ化したわけでもない。正気でこちらを殺そうとしている。

 殺して食べようとしている。

 太朗は頭を引いて、一気に男の鼻頭目掛けて額を振り下ろした。

「グギッ……」

 ナイフを落とし、男はたまらず後方へよろめいて、尻もちをついた。すぐ後ろにはリビングの窓があり、それを察した男は、慌てた様子で後ろ手に窓を開けて……しかし、出ていかなかった。

 太朗はナイフを拾って、しかし追撃するでもなく、その様子をじっと見ていた。

「出ていかないのか?」

「……何故、そんなことを訊く。俺はお前を殺そうとした。俺が逃げないうちに、そのナイフで俺を殺せば良いじゃないか」

「その様じゃ、どうせ直ぐに食われて終わりだろうさ。わざわざ俺が殺すまでもない」

 太朗の言葉を、男は嗤った。

「違うね。お前は怖いんだろう。俺を殺した後、解体して食べてしまうかもしれない自分が怖いんだ」

「いいや、違う」

「違わないね。俺をゾンビに食わせるんじゃなくて、お前自身が食べれば良いんだ。そうすれば、お前は生き延びることが出来るだろうに」

「そうまでして、俺は生きたくない。お前を殺しても、俺はお前を食べない。そして、なるべくならお前を殺したくない。だが、俺を殺そうとした奴を側には置いておけない。だから、早く出ていってほしい。そう思っているよ」

 男は、あからさまに馬鹿にしたような笑みを浮かべた。

「なんだその事なかれ主義は。結局は自分の手を汚したくないだけじゃないのか」

「まあ、そうだな」

 男を追い出すということは、死に追いやるということでもある。その結果において、ナイフでも追放でも変わりはない。だが、手段としては違う。直接的に手を下したくないという心理は、人として当然のものだった。

 太朗はこれ以上、人としての倫理を損ないたくなかった。

「俺達は、そういう平和な世界で生きてきた筈だ。この極限状態で、なぜ人肉を食べないのかと、お前は言ったな。思い出してみろ。俺達が平和に生きていた世界では、そんなことは決して許されなかったはずだ。俺は……そういう世界の常識の下で生きて、死んでいきたい……」

 二度と当時の倫理に立ち戻れないとしても、そのように生きたいと願うことを忘れてはいけないのだと、太朗は思った。

「そんな綺麗事を…………」

 男はそれ以上、何も言わなかった。太朗の態度から、問答は無意味だと理解したのかもしれない。

 これ以上、男に出来ることは無い。ただ、死を待つのみ。それを悟ったのだろう。少しの間だけ俯いて、再び顔を上げた時、その瞳から生気は失われていた。

 この男はまだ生きているが、もう死んでいるに等しい。

 そうして、ふらふらと窓から出ていき、夜の闇へと消えていった。

 太朗は眠ることにした。

 明日のために。

 生きるために。

 先ほどの夢は悪夢だったが、妻のお陰で生き延びられたような気がしたから。

 せめて、最後まで諦めない事にした。

 まどろみの中、生き残ったら妻に会いに行こうと、太朗は思った。

 安息を与えるために。

 そして、自らの人間性のために。

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