ver.9 あるお嬢様と執事、立場が逆転する。

鼠色の雲が立ち込める空。


どことなく不穏な空気。


「ずいぶん今日は暗いわね」


ベッドから降りて窓の外に目を向けたお嬢様は言う。


「それから寒い!」


ブルっと身を震わせ,お嬢様はそそくさと今日の服を選び始めたのだった。


——————————————————————————————————————



「うーん?」


その頃、ベッドから身を起こした執事は、ひとつ唸ってまた寝転がった。


「なんかだるいなぁ」


自分の額に手を当て,首を傾げ,棚の中に入れていた体温計を取り出す。



—————ぴぴぴぴ


しばらくして、計測終了の音が鳴った。


「あー,おわたな」


38.2度。


「今日は緑埜におまかせデーだやれやれ」


寝返りを打つように携帯を手に取り,もう一人の使用人に電話をかける執事であった。


—————————————————————————————————————



—————ぷるるるる


「はい、緑埜だよ」

『軽いな』

「そう?まあいいじゃん?で,ご用件はなんだよ」

『今日の仕事全振りします』

「はぁ!?」

『38.2度。だるい』

「はぁ!?38ぃ!?———わかったよ。じゃあ死ぬのだけはやめろよ」

『なんだよそれ・・・。まあいいや,じゃあよろしく』


—————ぷつ。


「過去イチこき使われそうな予感がするぜ,俺!」


緑埜は一人、なぜか嬉しそうなのであった。



———————————————————————————————————



「おはようございます,絢音お嬢様」


「おはy…って、え!?」


「本日は天羽がダウンされましたのでわたくしがかわりに」

「・・・・(ダウンされましたのでって・・・,もうちょい丁寧な言い方ないかなぁ?)」


「絢音お嬢様?」


「ううん,なんでもないわよ!」


ブンブンと全力で首を振るお嬢様。


「ちなみに天羽、どういう状況?」

「38度ちょいの発熱だそうです。だるいとか言ってました」

「けっこーヤバないそれ?」

「ええ,ヤバいですね」


「執事もヤバいとかいうんだね」

「えっ,あ,失礼いたしました。軽うございましたね」


別にただ言ってみただけだけど,と呟くお嬢様を,緑埜はでは朝食を,と言って食堂へとエスコートして行ったのだった。


—————————————————————————————————————



 「緑埜ー」


時は経ち,お嬢様学校の前。

いつもの車の運転席に座った緑埜は,ドア越しに自分を呼ぶ声を聞いてふっと顔をあげた。


すぐそこにお嬢様の姿。



—————がちゃ


「おかえりなさいませ,絢音お嬢様」


サッと運転席から出て,一礼する使用人。


「ただいま。うーん、なんだか学校終わりに迎えにくるのがあなたっていうのは、ちょっときもt ———じゃなくて,妙な気分になるわ!」


「・・・・(今絶対気持ち悪いって言おうとしただろ、ぜーったい気持ち悪いって言おうとしたよね,ね!?)」


「どうかした?」


「いえ,別に。—————ではお乗りくださいませ」


お嬢様が突飛な要望を彼に伝えたのは,彼女が座席に座った後だった。












「ねぇ、緑埜。いまからさぁ—————」



———————————————————————————————————



時はさらに経った。


屋敷の一室でふと目を覚ました執事は,天井をしばらく見つめたのちに窓の外に目を向けた。


すっかり日は短くなったもので,空の果てはすでに赤く染まっている。


「もう1日が終わるのか。早いな…。というか、朝緑埜が持ってきてくれたお粥以外何にも食べてないぞ。よく生きてたな,ぼく…」


1人苦笑いを浮かべる執事のお腹が,ぐーと空腹を告げた。


「ほらな」









と,その時だった。







—————がちゃっ










「ご主人様〜っ♡」








語尾に妙なハートマークがついた声。




「!?」



さすがの天羽もビックリである。



「お腹がお空きになっている頃かと思って、オムライスをお持ちしましたぁ〜♡」




そう言いながら入ってきた少女。









—————いうまでもなく,お嬢様なのだが。






リフリのついたエプロンに黒地のワンピースメイド服,そしてフリルと(謎に)黒い猫耳のついたカチューシャという姿のお嬢様が,ほかほかと湯気を立てるオムライスとケチャップの乗ったお盆を持って立っている様子は,まさにカオス状態と言っても過言ではないだろう。





「ア、アリガトウゴザイマ・・・ス」


「うふ。もしかして照れてるんですかぁ〜?」


「・・・・(この声はどこから出ているんだろう?)」




純粋に疑問を抱く執事。


————のこともいざ知らず,お嬢様は執事のベッドの横にある机にオムライスの皿を置き,ケチャップを手に取った。




そして、言うのである。















「おいしくなぁれ、萌え萌えキュン♡」








不自然な笑みを浮かべ,しばし沈黙する執事。




「あの,お嬢様。オムライスはとても嬉しゅうございますが,そのお衣装は一体どちらでお手に入れられたのでございますか」


「あら,これはぁ、元町で買ってきたんですぅ〜♡」


「さ、さようでございますか・・・」


「ね,かわいいでしょぉ〜?」


恐ろしいほどの満面の笑みで,メイドキャラを崩さないお嬢様。


「返事,してくれないんですかぁ〜?」


軽く首を傾げながら執事の方へ前屈みになるお嬢様————














————の片手を、執事がうまいこと取った。





「へ?」


お嬢様は思わずキャラ崩れ。



と、



「オムライスのお気遣い,ありがとうございます————」




ふっと微笑んだ執事は、




とったお嬢様の手を少し上げ、
























「————お衣装,よくお似合いでございますよ」


























「————可愛いお嬢様?」
























————tyu (←何をしたかはお考えください)


















「!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?」







ビョンっと取られていた手を跳ね上げるようにして離し、お嬢様は慌ててその手を見つめた。







「・・・・(いま,何したこいつ!?過去一ヤバいことされた気がするわよ!?)」





なんて冷静に考えることができたのは最初に数秒間だけだ。








お察しの通り、お嬢様はその場に崩れ落ちた。



————————————————————————————————————




「うわぁぁーッ、なんだよ天羽、また生チョコにしちゃったわけ!?風邪引いてるのに!?この後に及んでお嬢様溶かしてどうするんだヨォ!?」



天羽に呼ばれて彼の部屋に足を踏み入れた緑埜は、床に伸びるお嬢様を見て絶叫した。



「まぁ,そんなことはいいだろ。とにかくお嬢様をお部屋までお連れしないと」

「よ,よくないだろ!何やったんだよ今日は?」


「え。『お衣装,お似合いですよ』って言った」


「そのあとなんか言ったんだろ。それは普通の褒め言葉だ」


「うん。で、『可愛いお嬢様?』って」


「それだよ,バカ!と思ったが,もうちょっと何かやってそうだな。今まで言葉だけじゃなくて何かしらさ、ほら,バックハグとか,やってたらしいじゃん?」


「はぁ」


「これ,予想な?————チューでもした?」

















「————手だっただけいいだろ?」










「したんかぁぁぁぁぁぁいっ,そっちのせいでぇぇぇぇぇぇぇい、この女t————おっと危ない」



本人の眼前で禁句を言いそうになる緑埜。



「じゃあお嬢様をよろしく」


しれっと踵を返す執事。



「いや責任持ってお前がやってくれよ」


「いや,一応ぼくは病人だからね」




















「くぅぅっそぉぉぉう,あの,女たらしめぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ————っ!!!!(だんだん声量は小さくなっています)」














その後,執事が,


『もしかしてお嬢様,反撃のつもりだったのかなぁ』


とか、


『それでもぼくには敵わないってか。ふっふっふ』


とか思っていたかどうかは,誰にも知り得ないことである。



☞ The end.


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