第13話 誰にでも厄介事はある
翌朝、僕たちは結構早くに目が覚めた。昨晩あの後は他にすることもなかったのですぐに寝ることにした。起きて、サッと水浴びを浴場で済まし、洗濯したものが乾いていたので取り込む。アリオールさんも僕と同じようにして、修道服からいつもの服に戻った。
そのうち僕たちの身支度が済んだのを見計らったようにラズヴィーンさんがやってきた。昨日の一件でよほど嫌なことを思い出したのか、あんまり元気じゃないアリオールさんとは違って、ノックの後ガチャリと開いた扉の外に昨日のことが無かったかのように両手を腰に当て、自信に満ちた振る舞いと笑顔で立っている。
「旅支度ができましてよー。待たせるのも悪いですわ。行きますわよ」
その言葉に促されるようにして僕たちは教会を出た。ラズヴィーンさんが一緒にいて気が重そうなアリオールさんの背中を押しながら。荷物の引き渡しだけなら教会で済ませば良さそうだけれど、どうにも代官が準備を引き継いだ手前、ただの旅人のために荷物を届けるのは体面が悪いということらしい。たとえ貴族のラズヴィーンさんがその場に居たとしても、彼女の抱える事情が事情なので人数に含めるわけにはいかないという理屈だ。
代官の館は大通りに面したところにあった。アリオールさんと一緒にベイオルを歩き回っている時に見た大きな門と石造りの高い塀のある建物がやはりそれだった。南門から北へ延びる大通りを行き、途中交差する東西の大通りを越え、ちょうど全体の三分の二くらいの場所、真ん中より北寄りにある。僕たちはそんな道のりを歩きながら門の中に入る。話が通っているらしく衛兵に許可をもらい、正面の庭園を過ぎて館の中へ入った。
館の召使が丁寧に開けた扉をくぐれば広間になっていて、そこに例の代官と、以前にラズヴィーンさんに連れまわされた時に代官の傍にいた身なりのいい人と、僕たちに渡される荷物を置いた立派な台があった。正面はそんな様子だったけれど今通った扉の両脇に控える兵士やホール両側の階段の上、二階部分にいる使用人が僕たちの様子を伺っているような気がして落ち着かない。
「お待ちしておりました」
そう言って代官はラズヴィーンさんに恭しく一礼する。ラズヴィーンさんはそれに主家の令嬢としてか、「ごきげんよう、代官殿」と口では言いつつ、いつもより尊大な様子で答える。
「ラズヴィーン様……!」
突然身なりの良い人が妙に感極まった声を上げて突撃してくる。貴族的な、いかにも良家の子、といった風の人が予想もしていないようなことをしたので僕も、アリオールさんさえ声に驚いてビクッと身を跳ねさせてしまった。そして、僕たち以上にその声に反応したのが代官だった。さっきまでより顔つきがずっと険しくなった。
「むぅ」
僕たちが驚きのあまり固まっていた中、ラズヴィーンさんだけはひどくうんざりした様子で呻いていた。僕が様子を伺うと、冷ややかな顔で視線を下げて前から駆け寄ってくる人の顔さえ見ようともしていない。名前を呼ばれていたことから知り合いなのだろうけれど、この人が誰かにこんな反応をするのもこれはこれで驚くべきことかもしれない。
「ラズヴィーン様……此度の襲撃、私がお傍にいられなかったこと」
「息子殿」
さっきの人がそのまま膝をつきラズヴィーンさんに謝りたそうにしながらその手を取ろうとしたけれど、対するこの野蛮な令嬢はその手を取られたまま動かず、底冷えするような厳めしい声でそう言った。名前さえ呼ぶ気もないようだった。
おそらくこの人は代官の息子であるらしい。老人と言っても良い代官に対して息子にしてはかなり若いというか、僕とそんなに変わらないか、もっと子供っぽくも見える。背丈だけは僕より大きそうだった。
ラズヴィーンさんに拒絶された後の今にも死んでしまいそうな顔はさりとて、さっきまでのラズヴィーンさんを見上げる、申し訳なさそうな表情の癖になんだか熱っぽかった顔は男の僕が見ても美形だった。さらさらの整えられた金の髪に琥珀色の瞳、赤みを帯びていたけれど、本来はたぶんきれいな白い肌。きっと、普通ならこんな人がすり寄ってくれば参ってしまうものじゃないかと思うほどだ。どちらかと言えば険しい顔の代官にはあまり似ていない。
「戻れ」
代官の硬い声がその子にかかる。熱っぽい顔から今はもう死人のような青い顔に変わっていて、よろめくように元の場所に戻っていった。
「失礼を」
「結構」
お互い今のやり取りを無かったことにするつもりか、代官の謝罪もラズヴィーンさんの返事もどっちもそっけない言い方で言葉も少ない。周りの使用人も兵士も静かだ。なんだか急に上流階級っぽいと言うべきなのか、そういうのがよくわからない僕には苦手な空気になっていて身体が震えそうなほどに居心地が悪い。
「旅支度ができてございますれば、こちらを」
「わかりました」
そう言って代官は台の上の荷物を促す。革製の背嚢に荷物が収められているようでそれが3つ置かれている。以前買うのを断念したランプや細々したものもある。背嚢は僕の自前のものよりずっと質がよさそうだった。
「中を確認されますかな」
「ええ、念のため」
今度は代官がアリオールさんに言った。ラズヴィーンさんとのやり取りとは違い幾分か柔らかい言い方だったけれど、短い言葉の中に変な威圧感がある。どこか僕たちを歓迎していないようでもあり、ある意味ではそうでもないような。そんな違和感にアリオールさんも気づいているはずなのに怯むことなく気軽な様子で荷物に近づいて確認し始めた。
「これで足りますかな」
「もちろん、お心遣いお礼申し上げます」
一通り見終えたみたいでアリオールさんはそう言って下がる。
「それと、馬車でしたか。ご用意は致しかねますな」
「そうですか、残念ですわ」
今度はそんな上っ面を撫でるような感情のこもらない会話を始める上流の二人。それを聞いて僕は今後の見通しが不安になる。アリオールさんを見てもこの人は素知らぬ風。ならばとラズヴィーンさんを見てみれば僕にちょっと手を向けて落ち着けと言いたげに宥める。そんなだから僕は不安でも大人しくしてようと決めた。それ以外にできることもない。
「荷馬車をご所望のようでしたが、さる用件でベイオルからローン砦に荷を運ばねばなりませんからな。ここで積み込みを終えた後、しかるべき時に北門から発ちましょう。故にお貸しできませぬ、ラズヴィーン様のお頼みと申されましても」
「そう」
「それで、いかがなさいますかな」
「お世話になることはできないようですわね、残念です。なら、それもお返しします。どうせならささやかなれど砦の補給に充てられるとよろしい」
「承知」
「それで、ひとつ尋ねても良いかしら」
「なんなりと」
「お母様はお元気?」
「……そのはずで、あらせられる。きっと、……この度の……この一件は」
ラズヴィーンさんの質問を受けて、もともと険しい顔つきから更に感情の色がなくなる代官だった。努めて平静を保とうとしていても異様なほどに声が震えている。佇まいは相変わらずだけれど、何故か顔色は深刻な気配を帯びている。
「そう、もういいですわ。では行きますわよ」
その様子を気にするでもなくラズヴィーンさんはそう言って僕たちに行くよう促した。どうしても気になって代官のか様子を見ると、自分の言葉で窒息しそうになっていたところを無理に取り直したように具合の悪そうな顔色で、ひどく消耗した様子だった。それでも代官が何か伝えないといけないと、拙くラズヴィーンさんを呼び止めた。
「お待ち、ください」
「まだ、何か」
「お忘れ物です」
多少は元に戻った代官は懐から何かを出して、それでからゴツゴツした大きな掌に載せて差し出した。それは金色の指輪のようだった。畑仕事に精を出していた兄さんの手も硬く大きなものだったけれど、遠目からでもわかるほど、代官の手は年季が入っていても力強さを感じるものだった。
「そうでしたわね、ありがとう」
ラズヴィーンさんは振り返ってそう返事をした。少しだけ張りつめていた気配が緩んだようで勝手に胸を撫でおろした僕だった。それで指輪を代官に持ってこさせるつもりなのかラズヴィーンさんはそこに止まったままだ。だけれどそこで思わぬ横槍が入った。
「わ、わたくしめがお持ちいたします!」
そう言って今まで落ち込んだ様子で黙り込んでいた代官の息子が指輪を代官の掌から取り、ラズヴィーンさんの方へ向かって来る。ラズヴィーンさんの地位と代官の地位、多分そういうものを考慮に入れると、彼の行動はもしかしたら一番円満なものなのかもしれない。けれど、どうしてか僕の前に背を向けて立っているラズヴィーンさんからはまた、顔を見ないでもわかるくらいにはピリピリした様子が伝わってくる。代官の様子もなんだかおかしく、息子の行動に目を見開いて初めて慌てるような素振りを見せた。
「渡しなさい」
まるで彼が何かを言おうとするのを妨げるように、ラズヴィーンさんは先手を打つつもりか厳しい口調で彼に命令した。代官も息子の様子を見守るようで、それでも何かを言うことまでは躊躇われるのか、険しい顔で引き留めるように手を伸ばして固まっている。
「い、いえ! せめてそのお指に」
「わたくしがその手のものを身に着けているところ、見たことがあって?」
「あっ、えっ……」
オロオロする代官の息子と、ため息をつきながら頭を振るラズヴィーンさんだったけれど、急に止まって、一拍置いてから、言った。
「ねえ、あなた。わたくしと来るかしら?」
振っていた頭を止めて、すぅっと顔を上げてから、今度はゾッとするような雰囲気と言うか、人の心根を撫でるような、背中がザワザワするような艶やかな声でそう言った。ラズヴィーンさんのこんな口調も初めて聞く。代官の息子もびくりと一歩後ずさって、自分の手の中の指輪に視線を落とした。代官とは違って、彼の手は白く、指は細く僕の手よりもずっと綺麗だった。なんならラズヴィーンさんの手よりも。
「ならん」
その様子を見ていた代官が絞り出すように言った。言葉そのものは静かだったけれど、強い苛立ちとか、不安を感じるような声だった。
「あっ……あっ……」
その声を受けて代官の息子はラズヴィーンさんと自分の父とをきょろきょろと交互に見ている。傍から見てもわかるほど形の良い眉をへにょりと下げた困り顔で。その様子は他人事ながらどうしようもないほど情けなく、そして可哀そうに見えた。
「もうよさんか……お前をここに置いたのはなんのためか、主家のご令嬢様の門出であるぞ……お嬢様も、もうこれでご容赦いただきたい。この子は……」
自分の顔を覆うように両手をやって、ひどい後悔と疲れを感じさせる様子で最初は自分の息子を咎めるように、その後はラズヴィーンさんを咎めるようにそう言う代官だった。前半にはやるせないような、僕の父さんがたまに僕にしていたような呆れと、後半にはラズヴィーンさんに対する草臥れたような怒りともうひとつ、よくわからない感情をにじませながら。
「門出……? それはどういうことですか、何故そんな」
「……もはやこれまでなのだ」
いまいち状況を理解できていない代官の息子が叫ぶように代官に詰め寄る。代官はと言うと息子が取り乱しても身じろぎもしない。ただ、自分に言い聞かせるように奇妙な言葉を滲むように漏らして、硬い表情がますます思いつめたようなものに変わっていった。
突然ラズヴィーンさんがつかつかと足音高く代官の息子の傍に行き肩を掴んで無理矢理自分の方へ向き直らせると、指輪を持っていることを半ば忘れたように握り込んだまま混乱している彼をの両肩を両手でがっしりと掴んだ。
「……あなた……あなたっ!」
「うっ……! うぅ……!」
何かを考えるように一拍おいて、そのままやりきれないような、それか腹立たし気な声を上げて相手の身体をぶんぶんと力一杯前後に揺さぶる。された方は何も言えない様子だった。それでも、指輪を落とさないように手はしっかりと握っていた。少しの間そうして、そしてラズヴィーンさんが顔を上げた。肩から手を離したと思えば今度は彼の頬を両手でがっちりと挟み自分の顔に向けるようにした。
「もっとしっかりなさいな、そんなことではお父様が泣きますわよ」
今度はラズヴィーンさんがまるで母さんが僕に言い聞かせる時のような、優しいような厳しいような、そんな言い方で彼を𠮟りつける。
「指輪」
「あっ……はっ」
「ふん」
ラズヴィーンさんは彼から手を放して、すぐに指輪の催促をした。彼がそれに慌てて答えて差し出した指輪をひったくると、くるりと背を向けて僕たちの方へ苛立った様子で歩いてくる。目を閉じてふぅぅ……と長いため息をつきながら僕たちの横を通り過ぎてそのまま館から出ようとする。アリオールさんは我関せずといった様子で僕より先に付いて行き、僕はどうしていいかわからず置いて行かれまいとふたりを追いかけた。途中で一声だけでも挨拶をすべきかと代官たちの方を振り返ったけれど、代官は陰鬱な顔で俯いているし息子の方はさっきの姿勢のまま止まっていた。こっちはこっちであまりの光景なので何をすることもできず、僕はまた旅の仲間を追いかけるほかなかった。
「父上、父上は、何をなさったのですか……」
何かを伺って、それでも縋るような、上擦って震えた声が後ろから聞こえた。
僕たちは代官の屋敷を出た。途中扉に控えていた従者とか庭園にいた使用人とかの視線が妙に気になった僕だったけれど、ラズヴィーンさんはもちろんアリオールさんも全く気にしたようではなかった。僕たちが何か悪いことをしたわけではないけれど、あんまり平穏なやり取りとは言えない状況で終わってしまったことが僕の気弱な部分を刺激する。
館の門を出た後、さあこれからどうするかと言う話になって、ラズヴィーンさんの提案でとりあえずもう訪れるのも何度目かの宿で食事をすることになり、まずはそこへ向かうようになった。
「やっぱり食えない」
「回りくどいことをしたのは認めますけれど、あなたわたくしを何だと思っているのよ」
「それで、どんな具合よ」
「わかりませんわそんなの。これが限界。でもきっと大丈夫。指輪の件もありますし、それ程悪いことにはならないでしょう」
宿までの道すがら、会話から僕を切り離すようにアリオールさんとラズヴィーンさんはわざと僕の前を歩くようにして難しい事を話している。主語が無いと言うか、ものの核心を避けるような言い回しに終始していて僕には何のことかわからないのと、今回ばかりは何故か僕を弾いたままで会話を終わらせようとしている気がする。僕の入り込む隙間がどこにもない。
「指輪ね、なるほどそうか、思えばつじつまが合うというべきかなんというべきか」
「人の善意と責務に付け込むとか、つけ入るというのはこういうことですわ。不本意ですけれどね。言っておきますけれど、これであなた方はおまけだとわかったでしょう? まったく。そういうわけでこまごまとしたものは用意しないといけませんわね」
「あ、やっぱり不安?」
「……言わなくても察しなさいな」
「うわあすごい厄介ごと。頭が痛い」
「むしろ余計なことをして余計にわからなくなった気分ですわよ。でも向こうに行けば何のことはありません。それでも問題があったときは仕方ない。捨て置きなさい」
「……ふぅん、気に入らないなあそういうの。私はしたいようにするよ」
「あなたも存外、とぼけた風で甘すぎるのは改めるべきですわね。嫌いではありませんが」
ようやく会話の途切れ目を見つけた。
「あの……」
「ふん、わたくしたちの話が分からないのでしょう? なら今は静かにしていなさいな」
「その方がいい。そうだなぁ……ま、誰がグルか測りかねているってところだからそんなに深刻でもない。エリーは楽にしてていいよ」
「……はい」
その局面で僕はふたりの様子を伺ってみたけれど、ラズヴィーンさんがそれに気づいて僕を相手にしないことにしたらしい。アリオールさんも同じだった。そうされてしまえば僕はもう口を挟む余地はないので黙るほかなかった。でもふたりもそれからはあまり会話を続けようとはせず、周囲を少し見渡して黙り始めてしまう。
「さ、着きましたわね。ではこれでおしまい」
「わかった」
僕を弾いたふたりの会話が途切れた頃に、僕たちは宿屋に着いた。ひとまず聞かれたくない話は終わりらしい。中にはチラホラ人がいたけれど僕たちが食事をするのに十分な場所は確保したころに相変わらず愛想のいい宿屋の主人がラズヴィーンさんに話しかけて、この人もそれに普段の様子で挨拶をする。適当に食事を頼み、僕たちはそれを食べる。でも僕もそうだけれどふたりも会話が無い。ラズヴィーンさんが有名なせいだろう、周りの人も僕たちの様子を見ているけれど変に静かな僕たちの様子を不思議がっているみたいだった。そうして、僕たちは普段より味のしない食事を終えて、ここでの支払いはラズヴィーンさんがすべて払おうとして主人に止められた。後で代官様に全部ひっくるめて請求しますんで、なんて主人が冗談めかしていた。何となく不満そうなラズヴィーンさんを面倒くさがったアリオールさんが引っぺがすようにして宿屋から連れ出して、それから教会に戻ることとなった。相変わらず不満そうなラズヴィーンさんはキッとアリオールさんを睨んだけれど、それ以上は何もする気がないのか、それでも渋々と言った感じを隠さないままのしのしと僕たちの先頭を行く。そのまま僕たちは一度教会に戻った。
「さぁて、あの代官の……息子、孫? は随分慕っている様子だったじゃないか」
「しっ! 滅多なことを言うものじゃありませんわ、誰が聞いているかもわからないのよ」
「ふぅん……あ、そうだ、ならその心配は無用」
そう言うとアリオールさんは自分の荷物をゴソゴソと漁り、あまり質のよさそうじゃない羊皮紙と簡素な刃物を取り出した。それで手のひら大の長さの短冊状に羊皮紙を切ったかと思うと司祭の机にあったインクとペンを勝手に使って羊皮紙に何かを書き始める。
「エリーは字、書ける? それか絵を描いたことは?」
「どっちもできます。あんまりうまい方じゃないですけど」
「じゃ、コレ。その通りに書けばいいから、頼んだよ」
アリオールさんは僕に、さっき書き込んだ羊皮紙と何も書かれていないものをよこす。そこに書いてあったものはそれほど複雑ではなかったけれど、今まで僕が見たことのないような中心の文字と円、羊皮紙を縁取るように書き込まれた模様か、あるいは図だった。たったこれだけでも何の意味なのかわからないと無意味におどろおどろしく見える。
「これは?」
「まあまあ、書きたまえよ。これも魔術の勉強さ」
とりあえず言われたとおりにする。とはいえどっちかと言えば僕はあまり器用な方ではないから出来栄えには不安がある。そんなことを考えているそばからなんだか線が必要以上にひん曲がってお手本からかけ離れて行ってしまっている気がしてならない。まあ、どのみち僕には内容なんてわからないのだから、勉強だという言葉に甘えようと割り切る。
「悪くはないか。及第点」
いつの間にか僕の横で様子を伺っていたアリオールさんがそう評価した。アリオールさん自身はもう書き終えているようで、僕の書いたものと手本を重ねてつまみ上げる。それで一緒に持っていたピンを使ってあわせて4枚の羊皮紙を四方の壁の真ん中、扉のある方はその扉の真ん中に留めた。窓は閉じているのでそのままにしてある。
「ちょっと! 教会ですわよ、そんな変なものくっ付けないでくださる?」
「これは結界。例の廃墟にあったものに近い」
「そうじゃなくてね……ああもう、それで? 何を見せてくれるって言うのよ」
「ふふん」
アリオールさんはどこからか取り出したチョークを使って部屋の床の大体中心にさっきの短冊とよく似た模様の込められた円を書き込み、それでから部屋に立てかけてあった杖を握り、その床の円の真ん中に杖を突き下ろした。そして何事かの呪文を唱える。
「カァァル、イルズィィル……ウルス、っと」
たったそれだけの言葉だった。もちろん僕に意味は分からない。けれど呪文らしきソレをアリオールさんが唱え終わったとき、僕は、多分ラズヴィーンさんも壁に留めた羊皮紙のあたりが何かを響かせるような気配を感じた。ラズヴィーンさんでさえそれに違和感を持ったようで不思議そうに壁に視線を向けていた。
「何、今の」
「場を固定したのさ、音は漏れない。これで話せるでしょう?」
「あなたねぇ……ソレ信じろって?」
「外の音が聞こえるかい? 今回は扉を使ったから開くこともないよ」
そう言えばさっきから外の賑やかさがいつの間にか聞こえなくなっていた。人の声どころか鳥のさえずりさえぱったりと止んでいて、それどころか教会の中の物音も感じ取れないほどに静まり返っている。
ラズヴィーンさんが無言で扉の前に行く。その取っ手を捻ろうとして、それさえできないことに気付いてピクンと驚いていた。声を出さなかったのは自尊心からかもしれない。
何となく平静を装いながら何度も扉を開けようと試して、力一杯込めてもビクともしない扉の前で急に停止する。そう思ったら僕たちの方に向き直って戻ってくる。身振りや足音に不満げな気持ちがこれでもかと表れているのに、それを可愛らしいほどにわかりやすいすまし顔で隠してベッドの上にどっかりと腰かけた。
「何を聞きたいの」
努めて、実際はそうでもないが多分本人の認識では無表情のまま心底気に入らなそうに降伏したのだった。
「ふはっ、別に話さなきゃ出してやらないなんてわけじゃない」
「いいから、ここまでしたのなら聞きたいことを聞きなさい」
「あの代官の息子は?」
「ふん……はぁぁ、恥ずかしながら、わたくしを……そうね、憎くなく思ってくれているようですわ。でもそれは良いことではないの」
「なんでさ」
「わたくし許嫁をのしてひと騒動起こしたでしょう? それで代官の息子と良い仲になったら当てつけが過ぎるってものですわ。あちら様の事だから、そうやって面子を潰せばきっと無用な逆恨みをする、というのが事情を知る者の認識です」
「それだけじゃ時期をずらせばいいじゃないか。あっちだっていつまでも未婚という訳でもないだろうし、向こうの婚姻を待ってからでもよくない?」
「わたくしの意思はどこにやったのよ……それに、代官は嫌がりますわね……あの方はその役職を息子に相続させたいの。老いてから授かった末のご子息ですから相当に溺愛しておりますわ。だからその栄達に差し障りを作りたくないわけね」
「またそんな……伯爵令嬢とご結婚なんて望んでも叶うことではないじゃないか」
「ま、それでも代官はわたくしを邪魔に思っておいでですわ。仮にわたくしと息子殿が結ばれても良いことなんてないとね。……わたくしも、こんな風ですからその考えは間違ってはおりませんけれどね、ふふっ」
僕には及びもつかないような割と大変な話をしていたせいか、この話で初めてラズヴィーンさんから笑顔が漏れた。多少投げやりな雰囲気もあって気苦労の程が窺い知れる。もともと表情豊かな人なので、今こそ口ぶりはあっけらかんとしていてもいろいろと思う所があるのかもしれない
「ああ、それで件の魔物に代官が一枚噛んでいると疑っていたわけだ」
「さすがにあれをやった、とは思ってはいませんでしたけれどね。とはいえ、後悔している様子でしたわね。わたくしを見捨てたのは確か、でも首謀者を読み違えたと、そんなところかしら。……そうね、きっと息子殿はここで戦うと駄々をこねたでしょうから、だからもっともらしい理由をつけて息子殿を逃がして、ついでに不在の内にわたくしが死ねば万事解決ってところかしら。お母様がわたくしを疎んでいるのは周知の事実ですし、状況からお母様の関与を代官は疑ってそれに乗った、というのが今回の不手際の真相だとわたくしは思っております」
「……本当なら、代官も分の悪い賭けに乗ったな。どう考えても悪手だろう。理由不明の魔物の襲撃なんて……いや、そうか、状況が出来すぎているからこそ事情を知る誰かの関与を思い至ったわけだ」
「我が家ではわたくしなんて負債ですから。賭けに負けても損失はほぼ無しですわよ。ベイオルは手薄、そこにわたくし、足のつかない魔物、来ない使者。どんな原理かは置いておいても全部出来すぎですもの、仕方ないわ」
「それであの息子殿のことをああも拒絶したのか」
「いいえ、わたくしあの子は嫌いではないの、だからちょっとおせっかいを焼きましたわね。それに代官も尊敬できる方でした。昔は良くしてもらいましたし。だから……なんだか歯がゆいですわね、以前のあの方ならこんな愚かしいことなんてしなかったでしょう」
遠い目をして昔を懐かしがりながら、それでもどこかさみしそうなラズヴィーンさんの様子に僕は何も言えず、アリオールさんもそれ以上茶化す気にならなかったようだった。
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