第10話 ようやくの平穏

 いざ教会へと言ってみれば……結果として教会はあっさり使えた。確かに今まで怪我人の治療をしていて結構慌ただしかったようだけれど、僕たちが訪ねた時は既にだいぶ落ち着いていた。殆どの人がそれぞれ帰っていくところで、それでも傷が深い人は医師が引き継ぐようで医師か家族の付き添いと一緒に教会を出て行ったのを見た。

 ただ他にも重傷な人が何人かいて、身寄りがないからここで預かるとかで部屋に余裕はないので司祭の部屋を使ってほしい、と言われて簡単な寝具なら後で渡すという手筈になった。修道女曰く「困っている方はいつだって受け入れます」だそうだ。

 僕たちは宿屋の騒音から逃げる、そして代官の身の安全のため、と言う微妙な理由で教会を訪ねているわけだけれど、これは黙っているべきかもしれない。何事も知らない方がいいこともある。善意に甘えよう。

 ラズヴィーンさんに司祭の部屋に案内される。「いい人でしたわ」とその時さみしそうに呟いた。僕たちがそれに何か言う前にすぐ元気な顔になる。この人も相当な強がりだ。意地っ張りだけれど、なんだかその強がりがわかりやすくて、かえって健気に見える。これも本人に言ったらただでは済まされないだろう。

「必要なものがありましたら声をかけてください。隣にいますわ。遠慮は無用」

 そう言って隣の部屋に引っ込む。そしてまた出てくる。

「言い忘れましたわ。井戸はあそこの扉から外に出たところにあります。用を足したければあの扉。あんまりきれいではありあせんけれど。明け方に片づけが来ますわ」

 そう言ってまた部屋に戻る。扉が閉まったと思いきや、すぐにまた開いてラズヴィーンさんはにょっきりと顔だけ出す。そして「おやすみなさい」と言って引っ込む。もう出てくる気配はない。なんかかわいい仕草だ。子供っぽい。

「なんだか本当に貴族の子なのか怪しくなるなあ」

 くっくっと笑いながらアリオールさんが言う。確かにあまりに気取らないし飾らない人だと思う。でも言葉遣いとちょっとした動きは平民っぽくない。そういう真似をする平民がああならないとは言わないけれど、ラズヴィーンさんは洗練されている気がする。もしかしたら武人たるもの、こうあるべしと言う部分が他と違う気品みたいなものとして表れているのかもしれない。それと世話を焼かれるんじゃなくて、世話を焼きたがる貴族が他にいるかは知らない。やっぱり相当奇特な人だ。

「じゃあ私たちも入ろうか。さっき寝たけどまたぐっすりかもしれない」

 アリオールさん先頭に中に入ると、よく片付けられたきれいな部屋だった。本棚と、物書き机、箪笥に椅子にベッド。それを置いてもまだ余裕があるくらいには広い。けれど他に家具はなく、それらもよく手入れされているけれど豪華な雰囲気ではなかった。

 僕たちはさすがに司祭のベッドを使う気にはなれなかった。人が使った物がどうの、と言うより戦いで戦死した、と聞いてしまっているからこそ、何となく使わないでいてあげた方が修道女たちのためにも司祭のためにもよさそうな気がした。きっとそんなことを言えば、「使え」と言ってくれるだろうけれど。

 そのうち修道女のひとりが藁を詰めた枕と毛布をふたつずつ持ってきた。それと清潔なシーツもふたつ。どちらかがベッドを使うつもりだとやはり修道女は思っていた。なんとなく余計な気を遣わせないようにアリオールさんがベッドは止めておく、と修道女を説得しようとしていたけれど、「使ってくれた方が司祭もよろこびます」と押し切られた。手慣れた様子でベッドのシーツを換え、毛布と枕を取り換える。これでここにいた司祭の気配はまたひとつ消えてしまった。少し悪いことをしたような気持ちになった。

 その後、長椅子を一脚ベッド代わりに運び込む、と言う提案は申し訳ないので止めてもらった。怪我人がまだいるらしいし、みんな忙しい。僕たちに手をかけることはない方がいいだろう。

 交渉の末、アリオールさんにベッドを使ってもらうことに成功した。さすがにアリオールさんを床に転がして僕がベッドを使う気になんてなれなかったし、僕よりもうんと疲れている人がしっかりと休めるようにするべきだ。それでどうにか納得してもらった。「一緒に寝ようか?」という起きたまま言う寝言は聞かなかったことにした。一度一緒に寝たからと言っても気やすく繰り返していいこととは思えなかった。

 その後も胸の布を取るときにここにいてはならない気がして「外に出てます」と言ったら「どうやるのか見せようか? コツがいるんだ、今度頼むよ」とかおふざけが過ぎていたので自主的に退室した。

「ちょっとしたら戻りますから」

 そう言って教会の中を見ようと思って部屋の前から立ち去った。あのままあそこにいても碌なことになるまい。相手にしないのは僕なりの反撃である。

 いざ中を歩いてみればベイオルの教会は僕の村の教会よりずっと立派だ。そのまま講堂まで来てみれば、その広さだけじゃなくて壁や天井がしっかりしていることに悔しささえ感じそうになる。今はいたるところに怪我人の手当てやら何やらでいろんなものが散乱してはいるけれど、それでもあまりひどくは見えない。僕んとこはボロボロだったな……なんて懐かしく思える。広さだって村人の集会に使える程度しかなかった。無理すれば全員収まりそうなくらいの村だったけれど。そうやって昔となんて言えないくらい浅い思い出を振り返るくらいに、まだ五日ほどしか経っていないというのに今までのことが凄まじい大冒険のように思える。まあ何を見てもあのド田舎から出たことのない僕にとっては新鮮だろうけど、普通の人が経験しないことまで経験できたような達成感もあった。

 でも今後、僕たちはどうなるのだろう。今回ここまでくる中、危険はなかった。山賊はもちろん、獣に追いかけられたりもしていない。でもベイオルでは普段起こらないような危険に遭遇してしまった。グラムで言ったように僕も戦う手段が必要なのかもしれない。アリオールさんは多分、僕が戦えないことを嫌がらない。それどころか戦えるようになろうとする方を嫌がりそうな気がする。今までの様子だとそういう風に感じる。でもアリオールさん自身は戦いたくない風なのに、今回のように何かあれば戦おうとする。多分今後もそんな気がする。僕はそれを見ていることしかできなかった。何かをしようとして、それでもどれほどのこともできてはいない。僕は、それでいいのだろうか。

 考えても答えが出ない。じゃあ今度は戦うのかと言っても今の僕にはできそうにない。危険を承知でやってみればそういう力も身に付いて行くのならそれでいい、頑張れる。いつか旅の中でアリオールさんの力になれるなら、苦しくても我慢できそうな気がする。多分それを言ったらまた嫌がられるけれど。

 そういえば司祭様もそういうことをすごく嫌がっていた。教会の人間だからそうなのかと思っていた。でも司祭様は色々なことを僕みたいな村の子供に教える時、戦争についても詳しかった。教えたがらなかったけれど、聞けば嫌そうに答えてはくれた。でも決まって僕らに言う言葉があった。

 ――戦争があったら逃げろ、戦いはそういう役割の者がする。だからひとまず逃げることを考えよ。それでもどうにもならない時、その時だけ戦え。

 それが最後にいつも言われることだった。アリオールさんの戦いに対する姿勢を見ると、司祭様もそれに近い考えな気がする。ただそれに比べるとアリオールさんの方がもっと戦いから遠ざかるべきと思っている様子だった。

 ついそんな風に考えだすと、僕の悪い癖で考え出すと止まらない。結構時間が経ってしまったかもしれない。あんまり遅いとまたアリオールさんは僕に気を遣うだろうし、もう戻ることにした。そんな気分で振り返ると、アリオールさんが立っていた。

「う! むぐぅ……!!」

「こらこら、叫んだら迷惑だろ」

 驚いて叫びそうになった僕の口にアリオールさんは遠慮なしに手を押し付けた。僕が落ち着くとすぐに手を離したけれど、何か言いたそうな視線を僕に向けるアリオールさんだった。

「何でここに、あ、ごめんなさい。遅くなりましたよね」

「君ぃ、悩んでないで私に気付けよ。きっかけを見失って話しかけられなかったぞ」

 もしかしたらだいぶ前からここにいたのかもしれない。僕の見られたくないところを見られた気がする。まあ何を考えていたかまではわかるまい。

「君を見ていると心配になるんだ」

「何でですか。僕は……、いえ、大丈夫ですよ?」

「私の事嫌いになった? なんだか目を離すと私の知らないうちにどこかに行ってしまいそうで不安になるんだよ」

 今のアリオールさんを見ていると僕を心配しているという言葉の外側、それとは別のところに真意があるような気がして仕方がなかった。そう思うほどにアリオールさんは口調の軽薄さに釣り合わないほど不安げな顔をしていた。違うんです。僕があなたの荷物になるのが嫌なだけなんです。そう言いたいけれど、言うことは憚られる気がする。何を言ったとしても僕にできることは残念ながらほとんど無い。そんなことは痛いほどわかってしまった。それで黙っていたせいでアリオールさんがまた勘違いしたようなことを言う。

「大丈夫さ。ちゃんと君を案内する。私に任せて付いてきてほしい。旅は始まったばかりさ、ここからも一緒がいい。ね?」

 ちがうんです、と言いたかった。どうしてたまにそんな不安そうな顔で僕を見るんですか、と聞きたかった。けれど、どっちも僕にはできなかった。

 僕の方なんです。僕が一緒に行きたいんです。と僕が素直にそう言えればアリオールさんの表情も少しは晴れたかもしれない。

 そうだとしても、無力な僕がこのまま旅の連れ合いを頼むと言ってもいいのだろうか。こんな僕をどうして連れて行ってくれるのかということに向き合うとたまらなく不安になる、と確かに僕の中にはそういう思いがあった。でもそれをいざ口から出そうとすると言葉に纏め辛い、むしろ我ながら恥じ入りそうな感情で、どうやっても子供っぽい取り繕いにしかならない気がした。そんな自己嫌悪が消えなかったことさえ僕の中で消化しきれるものではなかったし、だからこそアリオールさんには気の利いたことなんて何も言えなかった。

 言いたい。言えればよかった。でも僕がアリオールさんを見て、真実かもわからない勝手な想像で心配をしているより、アリオールさんはずっと深刻に僕を見て、愚かな僕を心配してくれている。それが恥ずかしく思えた。僕の想像には確証がない。だから、また僕は自分の平静を装って、うまく誤魔化して言うしかなかった。

「僕は、アリオールさんがいないのは、ダメ、ですから。だから……」

「ならいい。さ、もう行こう?」

 僕はどんな顔をしていたのだろう。アリオールさんがさらりと、僕の肩に置いたままだった手で、僕の頬を撫でる。僕の後ろに回り込んで背中を押す。それも優しく。やっぱり僕は不安だ。この人の優しさの理由は何なんだろうか。離れても不安になるだろうけれどそばにいても不安になる。この人の訳の分からない優しさが怖い。そんな僕の様子がアリオールさんを更に困らせている。悪循環だ。それにあの時、魔術を使った時に見せた苦しそうな姿がどうしても心配になる。この人にはそんな顔をしてほしくない。それでもそんな感情は振り払うべきものだと思う。だからこれ以上は何も言えない。僕たちはそれ以上会話もなく、僕の不出来のせいでそのまま部屋に戻って寝るしかなかった。


 翌朝、早くに目が覚めた。僕はまた眠るのに苦労したようで眠りが浅い。何か水を撒くような音がする。どうもこれのせいもあるようだ。扉から外に出てみると、音は井戸がある扉の方からしている。水を撒くような音だ。桶から水を捨てるような。それを聞いて僕は自分が着の身着のままだったことに気付いてどうしても体をきれいにしたかった。確か出発はそんなに早くはならないようなことを言っていたな、と昨日の会話を思い出した。とりあえず着替えて汚れたものは今のうちに洗う。とにかく体も洗いたい。石鹸があればもらいたいし、買うとしてもどこで買えばいいかは聞いておきたい。聞くなら誰かいる今のうちか。そう言うことで井戸へ向かうことにした。昨日の気持ちを振り払うにも何かしていた方がいい。

 そういえば僕の村では石鹸を作っていたっけ。どこでも手作りの石鹸とかがあるのかな。僕の村では油の取れる実がつく木が森にあったし。そんなことを考えながら井戸のある所に続く扉を開けた。

「ん……あら、おはよう。少し待って」

「ご、ごめんなさいぃ!」

 まさか扉を開けたら井戸のすぐ横でラズヴィーンさんが身を清めているなんて思うわけがないじゃないか。考え事で一瞬気が付くのが遅れた。全力で体を翻して扉を閉めたけれど、……全部見てしまった。ほんの一瞬身構えたように見えたけれど、すぐに何も隠さなくなるなんて思う訳もない。手酷く扱われることさえ覚悟したのに。

 計画が頓挫して、僕は鼓動が収まらないまま僕たちが寝ていた部屋に飛び込んだ。そのまま滑り込んで僕が寝ていた床のシーツに滑ってすっころび、運よくたまたまそこに転がっていた枕に顔を打った。アリオールさんがびっくりして飛び起きた。

「な、何? 何があった!」

「な、なな何でもありません! 違うんです!」

「そ、そう? 大丈夫?」

 僕は混乱で、アリオールさんは寝起きでどっちもしどろもどろな様子で事態を整理しきれていないようだった。とりあえず気持ちが落ち着くまでその体制でじっとしていた。アリオールさんは不思議なものを見るようにしていたけれど、ほんの一瞬外を警戒した様子の後、そのうち興味を失ってまた寝始めた。


「先ほどは、はしたないものを見せてしまいましたわね。ごめんなさい」

「いいいえ! 僕の方こそごめんなさい!」

 あの後、しばらくしてからラズヴィーンさんが僕たちの部屋を訪ねてきた。いろいろ思い出してドキドキしてしまう。気を逸らしたい。

「本当は浴場がありますのよ? でも水を運ぶのが面倒ですし、今はまだ暖かいでしょう? じゃあもうあそこでいいかしらって。昨日まであまり満足に身を清める時間がありませんでしたから。人気のないうちにさっと、そこで済ますのが癖になっていましたわ」

 そんな理由で井戸の前で素っ裸になるな。水を浴びるな。と言うかこの人かなりきれい好きだな。あの戦いの最中でも身ぎれいにしていたのか、なんて思ったけれど、あの調子で戦場にいれば返り血とかいろいろなもので汚れてしまうし、そのままの方がきっと体調を崩しそうだ、と気付いた。多分武人の健康管理とかそんなところかもしれない。

 よく見ると昨日までの返り血、泥はねその他諸々で汚れていた修道服ではなくて、わずかに戦いの跡が残っているけれどしっかりと洗濯されたきれいな修道服を着ている。相変わらず灰色の地味な服だけれど不思議とラズヴィーンさんにはよく似合う。この人の、その、肉体的にも気質的にも、いろんな方向に突き出ている過激な気配を包み込んで、うんと清楚な方向にまとめ上げるのはこの服のすごいところかもしれない。まあ単にとびきりの美人だからそう見えるだけかもしれないけれど。

 修道服の大きさから替えは自前のものかもしれない。そりゃ揉め事で立場が危うくなっているとはいえ貴族だし、体裁を損なわないように着替えぐらいあるかと思い直した。

「ああ、そう言うこと。ふぅん」

 アリオールさんがいつの間にか起きていてベッドに座りじっとりした目で僕を見る。違います。見に行ったんじゃありません。狙ってやれることではありません。貴族の令嬢がするにはあまりに勇敢すぎます。それに今の僕の不健全な考察をのぞき込まないでください。と弁明したかったけれど、覗くどころかしっかり見ている以上何も言えない。

「身を清めるなら浴場を使った方がよろしいですわね。もうみんな慌ただしく動き始める頃ですから、井戸の前で水浴びするのは邪魔になりますわ」

 ああもうそんな時間なのか。朝のうちなら邪魔にならないと思っていたのに。

「それに、あなたがた臭いましてよ。旅をするなら身だしなみは整えられるときにしっかりと整えておくものですわ。不衛生は豊かな人生の敵ですもの」

 これ見よがしに鼻をつまんでしっしっ、と手を振る。それでアリオールさんがモゾモゾとなんとなく自分の身だしなみを気にしているようだった

「あ、そうだった、石鹸あります?」

「石鹸? ありますけど、まぁまぁ値が張りますわよ。買えますの?」

「そうなんだ……いえ、僕の村ではよく作っていたので。値段を知りませんでした」

「ふふ、冗談ですわ。安物でよければどうぞ? 衣類に使うものもありますから。どちらも遠慮はいりませんわ。ああ、でもこのあたりでは軍需品として大量生産しているので手軽なほどに流通していますけれど、他では日用品としては高価な場合がありますからね」

 でも髪がきしむんですのよねー。なんてぼやいている。修道女のどっちかに頼めばすぐに出してくれますわ。とそれも教えてもらった。

「それで? エリーの村はどこだったかしら。作っている石鹸が気になりますわ」

 そう言われたので僕の村の場所を教えた。「南東の果て、大森林のそばの村、エルトです」と言った。

「そこに村があったのね……そういえば村の石鹸にはどんな印をつけていまして?」

 僕の村で作っている石鹸には印をつけていた。どこの物か明らかにするためとか言っていたから、それぞれ作っている場所によって印が違うことは当然か。

 僕の村の印は何故か妙に精密な木の模様になっている。一度理由を聞いたことがあって、父さんが教えてくれたところによると、図案を決めるときにみんなで悩んでもいい案が出なかったのだとか。それでうんざりして「もう実をつける木でいい」と父さんが言ったところ、鍛冶屋のじいちゃんが、「なら他と区別できるようにしねぇとな」と張り切って異様に細かい印を彫った。と、そんな逸話があるらしい。父さんもじいちゃんも今よりずっと若かった頃の話だそうだ。それから石鹸の作り方にもこだわるようになったとも聞いた。自慢じゃないが、村の石鹸は香りがいい。

 それをあんまり細かく言っても仕方がないのでラズヴィーンさんには「妙に細かい図案の木です」と言うと「ああ!」と納得した様子だった。

「あれはなかなかの出来でしてよ。結構評判で騎士の私物にもなっておりますわ」

 そう言う。村が褒められたようでちょっとうれしい。

「あれと比べればがっかりするでしょうけど、我慢なさいね?」

 それだけ言って「じゃあまたあとで」とラズヴィーンさんはもう用事は済んだというように部屋を後にする。僕たちはそのまま。あの人は相変わらず自分の調子を貫いて生きている。僕は浴場のことを聞いたのでアリオールさんにそこに行くと伝えて僕も用事を済ますことにした。

 運よく廊下で修道女のひとりに会えたので、石鹸ありますか? と聞けた。ラズヴィーンさんが言っていた通り、「少しお待ちくださいね」と言って奥に引っ込んだ後すぐに持ってきてくれた。言葉が足りなかったけれど二種類。木の器に入って。身体を洗う用と、洗濯用らしい。

 身体用は塊の物をチーズをおろすように削った感じのもので、塊のまま使い回すより衛生的だと思う。洗濯用は砂粒のようにもっと細かい。もうこれはどうやって作っているか僕にはわからない。これは珍しいものなのか、僕の人生では見たことが無かった。村では大体、しつこい汚れには石鹸を使うけれど、普段は木灰の灰汁を使う。後はお湯。これは水に溶かして使うらしい。不思議ないい香りがした。

 とりあえず言われたとおりの用途で使えば間違いはない。旅人が教会に泊まるというのはよくあるらしい。前に司祭様に外で困ったら教会へ行けと教わった。僕の要求にも手慣れたもので、だから石鹸のこともすぐにわかってくれたのかもしれない。浴場も洗濯場も使って構わない、洗濯物を干すなら開いている場所にかけておけばいい、だそうだ。

「後で多分、僕の仲間ももらいに来るかもしれません」と伝えると、「では用意しておきますね」と言ってくれた。ラズヴィーンさんが言っていた通り、ここではそんなに高級ではないみたいだ。

 まずは浴場。誰もいなかったから勝手に使う。桶にお湯を沸かす釜。火が入っていないし面倒だからこれは使わない。日中はまだ暖かいしまあいいかとラズヴィーンさんみたいなことを言いそうになる。

 井戸から何度か水を汲んで浴場まで運び、その後はまずゆっくり頭を、そして持ってきた手拭いで体を洗う。久しぶりに身を清められてさっぱりする。石鹸もそんなに悪くはなかった。髪はキシキシするけれど。冷たい水も今ならまだ心地よい。ばしゃりと水を浴びると思わず声が出そうになる。

「んっ……くぅぅ」

 ざっと水を頭から被ればその冷たさが身に染みる。汚れと共に心のつっかえも流れるような気がして心地良い。朝の雰囲気と、朝日の優しさでまだぼんやりしていた僕の意識もはっきりする。

 持ってきてはいても使っていなかった替えの服に着替え、次は洗濯。井戸のそばに洗濯場がある。石で固めた場所と排水用の溝、かまどもあった。誰かが使ったのか熾火がまだあったけれど、ここではどういう風に使っているかわからなかったのでこれも使うのは止める。浴場もそうだけれど、ここの教会はとてもきれいにしてある。

 洗濯桶に水を貯めて洗濯石鹸を溶かす。よく溶ける。気づかなかったけれど、少し臭っていた服も下着も汚れがよく落ちる。これでこれからの旅は快適かもしれない。

 洗濯場のそばに紐を渡して洗濯物をかけているところがあって、まだ場所が開いていたのでそこに干す。木の洗濯ばさみがあったのでそれで止める。昨日までの戦いで怪我人の治療にいろいろ使ったみたいでシーツのほかにもいろいろ洗ってある。当然ラズヴィーンさんの修道服もあった。袖の破れからこの前のだろう。戦いの跡が残るものがここにはある。それを見たせいかこの場にもあの時の大変さが表れている気がして、ここではここの戦いがあったんだと、そんな様子に感じられる光景だった。

 そんなこんなで全部終えて僕たちの部屋に戻った。声をかけてから扉を開ければよかった。アリオールさんはベッドの上に座って、上半身を脱いで片腕を上げて何かを確認している様子だった。扉に背中を向けていたからか、僕に気付いた様子ではなかった。

「アリオールさん」

「ひゃぁう!」

 アリオールさんは聞いたこともないような声を上げて座ったままびっくりした様子で跳ね上がって、あわてて毛布をかぶった。そして僕を恥ずかしそうにキッと睨む。今までそんな恥じらいなんて見せたことはなかったのに、どういうことか一瞬わからず僕は固まってしまった。

「ア、アリオールさん? そっか、すぐ出ますね」

 僕は部屋の外に出たけれど、その後すぐアリオールさんは扉から顔だけをのぞかせて僕を引き留める。

「ちょっと時間がかかるから、それまで暇をつぶしておいて?」

「うん? 構いませんよ。でも珍しいですね、そんな風なんて」

 今までさんざんからかわれた仕返し、と言うことで聞かなくてもいいことを聞いた。短い付き合いで分かったことだけれど、この人は案外身ぎれいにするという点において適当だ。僕は二、三日体を洗えていないとなんだか落ち着かないのに対して、アリオールさんはここのところ平然としている。旅慣れているからなのか、そもそもそういう人なのかは今後よく見ておく必要がありそうに思える。旅を共にするなら衛生観念って大切。何より僕はベイオルの宿屋では汚いままベッドに入るので初めはよく眠れるか不安だったのに、この人は全然気にしていなかった。

「いやちょっと乙女の身だしなみと言う奴で、しばらくかかるから。そういうことで」

 扉をバタンと閉められてしまった。部屋の外から「石鹸、もらえますよ」と声をかけてみる、よくわからない適当な返事が返ってきたので伝えるべきことは伝えたことにしてそこから離れることにした。

 さりとて部屋を離れても、行くところがない。お金がないし必要なものを探すにしてもそういう時はアリオールさんも一緒の方がいいだろう。これから先の道にしてもアリオールさんの地図は部屋の中、手がかりもなく闇雲に探しても仕方がない。今日は何も食べていないなあと思いながら講堂まで来て一番前の長椅子に座る。

 なんとなく正面を見れば説教台と教会のシンボルがあるけれど、実はこの宗教のことをよく知らない。僕の村が信心深くない、と言うより村の司祭様が変な人で、ものを学ぶ大切さとか、もっと言えば人のあるべき生き方とかにはかなりやかましかった癖に教会の教え、宗教的なアレコレに関しては全然熱が入らない様子だった。通り一遍必要なことはすべしと言っていたけれど、あんまり熱心でなくても怒られたことはない。ただ日常の作法と特別な日の儀礼みたいなことにだけ厳しかった。

 そんなことをぼんやり考えながらフラフラ左右に体をゆすっていたら、教会の入り口の扉がギィッと開き、何処かに行っていたらしいラズヴィーンさんがやってきた。僕を見つけるとそれはもう見事なほどにニッコリと笑いながら近づいてくる。これはよい兆候ではない。有無を言わさないつもりなのがもう分かる。

「あなた、暇していますわね? わたくしに付いてきませんこと?」

 そう言ってもう僕の手を取って引っ張りつつある。やっぱり押しが強い。苦手だ。

「僕まだご飯食べてません、よ?」

 なんだか押しの強さのあまり語尾が怯えたようになったけれど決してそんなことはない。苦手なだけで、僕は意味の分からない圧力に屈してなんていない。

「後ですわ、後。忙しいときの教会の食事はもう少し遅いんですの。怪我人のお世話とお勤めが終わってからですから。わたくしたちも後回しでいいと伝えておきました。だから今、あなたの時間をもらってあげます」

 抵抗は無駄だった。どうあっても僕は教会から連れ出される運命だったようだ。外に出れば昨日までの喧騒は落ち着き、雑多に転がっていた物もいくらか片付いていた。ただ戦いの気配はそう簡単には消えないらしい。ベイオルは活気のある町のようだけれど、昨日までの非日常が終わればそれで日常に元通りとはならない。

 そのまま南北を繋ぐ道に出て、南門の方へ向かう。そこについてみれば、昨日ラズヴィーンさんに打ちのめされた老人――代官がアレコレ兵士に指示を出していた。人の数が多いので、ここにいた人と後から騎士が引き連れてきた人の両方がいるのかもしれない。

「あれで優秀ですのよ……人望もあります、残念ながら。そうでなければ隠居する時分になって代官になんて任命されませんものね」

 ラズヴィーンさんは微妙に悔しそうにしている。いろいろ考えている様子だ。思う所があるという感じか、嫌っているというよりもっと微妙な気配だった。

 そのままラズヴィーンさんは代官にのしのしと近づいていく。代官もそれに気づいてさっと居住まいを正して迎えた。最初は腰に手を当ててツンツンした様子でラズヴィーンさんが代官に絡んでいて、それに代官もたじろいでいたけれど、そうしているとラズヴィーンさんの方から何かを言ったようで、今度は代官が神妙な様子で頭を下げた。でも代官はすぐにスッと居住まいを正し、横にいた従者らしき身なりのいい若い人に何事かを頼んでいる様子だった。その人はラズヴィーンさんのことを知っているようだけれど、妙に居心地の悪そうな感じで一礼してどこかへ去っていく。そんな光景を、不思議なものを見ているようでついボーっと眺めていると、ラズヴィーンさんはまたいつもの自信あふれる歩みで僕の方に来る。そしてまた代官に向き直って僕の背中を叩く。結構な強さで叩かれたものだから前につんのめってしまったけれど、代官がこっちを見ていたので思わず頭を下げてしまった。向こうの様子を見ると鷹揚に頷いている。表情は硬いが始め見た時よりはしっかりして見える。ただラズヴィーンさんを前にしてから、ずっと思いつめたような、もっと言えば陰鬱な面持ちでそこにいる。

 代官を最初に見た時は物語に出てくる悪党のように感じたけれど、さっきまでのその表情はさておき意外と威厳がある。周りの人も案外慕っている様子だし、本当に優秀なのかもしれない。なら何でベイオルから逃げ出すような真似をしたのかわからないけれど。

「ふぅ」と横でラズヴィーンさんが息をつく。そして「用事は済みましたわ」と言ってまた僕を引っ張っていく。有無を言わさずに。ただこういう時、僕の様子を無視してひとり勝手にせかせかと進むのではなくて、「ほらこっち」と意外と僕に気を遣うような調子なので引き摺りまわされているようには感じない。なんとなく人柄がわかる。こういう人だから皆に好かれているのかもしれない。

 その後は何故か宿屋に連れてこられ、主人にちょっとした挨拶をした。「兄ちゃんによろしく」と主人は言っていた。他にも何人かの人が手を振ってくれた。

 次は鍛冶屋。そこへ行く途中でラズヴィーンさんはベイオルでは平民に武器を売らない、ということを教えてくれた。なら僕に関係しない用事なんだろうな、と察したところで別に生まれた疑問、僕の村には剣をぶら下げて歩く人なんていなかったけれど、魔物が来たような所でそれで大丈夫なのかということをラズヴィーンさんに聞いてみた。それでやはり聞いてくるだろうという確信があったように、建前ですわ、とニヤリと笑って答えた。どうやら旅人や傭兵には売るらしい。他は基本的に軍への納入。だけれど不安な時代に欠かせない鍛冶師の育成と、平時に食いっぱぐれないようにしないとならないのと、治安の維持と民の自衛をそれぞれ天秤にかけた結果、言葉にできない妥協策が生まれたのだとか。旅人と傭兵と猟師、そして平民。猟師はともかくそれ以外をキチンと分ける手段があるか、と言われれば何が言いたいかわかりそうなものだった。ただそれを領主の娘とは言え支配者一族が何のこともないかのように口にしていいことなのかはわからない。

「本来なら、そんなものが要らないくらいには平和ですのよ、ここは」

 そう言って何とも言いにくい表情をするラズヴィーンさんだった。


 鍛冶屋に着いてみれば、がらんとした棚や壁の展示台には何も残っていなかった。当然だけれど、先の騒ぎを考えれば使える武器なんて残っているはずもない。それでもラズヴィーンさんが店番の人に何かを言うとその人は奥に引っ込んで未完成らしきもの、律儀にも誰かが後で返したらしい傷のあるもの、何か訳アリらしきものといくつか武器を持ってきて僕はそれを握らされた。剣と槍、斧、長さや形の違うもの。僕もなんだか気合いが入るし、ちょっとワクワクする。ただどれを握ってもラズヴィーンさんのお気に召さなかったようで、僕の姿勢を見て「へっぴり腰」とか「おふざけはいりません」とか「薪でも割るつもりですの?」なんて罵られた。持ったことなんてないのだから仕方ないじゃないか、と僕がそう思っているうちに「これは怪我しますわ」と言われてもう鍛冶屋を離れることになった。

 そんなうちに教会に戻ることになった。思ったより時間が経ってしまったけれど、ご飯に間に合うだろうか。間に会わなかったらどうしよう。とりあえず教会に着いたのでアリオールさんはどうしているかな、なんて考えながら中に入ると、講堂の中ほどの長椅子に修道女が座っていた。一声かけた方がいいかと思って「今戻りました……」などとぎこちない声をかけて横を通った時に「ふっふっふ」と笑いながら修道女がゆらりと立ち上がってこっちを向いた。まさかのアリオールさんだった。

「えぇ、何でそんな恰好しているんですか……」

「私の服は洗濯したから。これは借りてる」

 そう言いながらニヤリと笑っていろいろ格好をつける。ころころ姿勢を変えて僕に見せるようにはしゃぐ。まあこの人もこれはこれで美形だからこういう服もよく似合う。長身なので同じ格好でもラズヴィーンさんより大人っぽい。それになぜかこっちは服が地味なのに艶めいて見える。いつもと違う女の人の格好だからそう思ったのかもしれない。借り物のせいで大柄なこの人には寸足らずなのに貧相に見えないのもなんだかすごい。

 そのうちよせばいいのにラズヴィーンさんの横に回って肩に腕を乗せる。アリオールさんの方が背が高いからか僕にするような妙に馴れ馴れしい姿勢になっている。

「ふっ、私もなかなか、ね、ね、どっちが似合ゔぐぇっ……!」

 ラズヴィーンさんが横っ腹に肘をねじ込んだ。アリオールさんはうずくまりながら、その勢いのまま落ちるように長椅子に座り込む。

 ケホケホとアリオールさんはむせながら同情を引くように涙目で僕を見るけれど、すかさずラズヴィーンさんがその顔を両手で掴んで自分に向ける。頬をむにむにいじくりながら笑顔で言った。

「わたくしと張り合おうなど、片腹痛い」

「ひぇぅ、えぅえぅ」

 笑顔ではある。言葉も静か。でも怖い。アリオールさんも好き勝手に頬をいじられて変な声を出すしかなくなっている。

「さて、エリー。わたくしとアリオール、どっちが似合っていますの?」

 ラズヴィーンさんが不意にこっちを向く。その笑顔が怖い。冗談なのはわかっているけれど、そこから立ち上る威圧感は本物だった。

「そ、そうだった! アリオールさんどうしてここに? なにかあったんですか?」

 とにかく話を逸らすことにした。幸いアリオールさんはそれに答えてくれた。

「ごはんだってさ。下げるのはもうちょっと待っててって言っておいた」

 ラズヴィーンさんの手からのけぞるように離れて、ラズヴィーンさんも抵抗せずスッと手を放して、それで僕の方を向いてアリオールさんはそう言った。ごはんが待ち遠しいのかへにょへにょした笑顔で。さっきまでの様子をすっかり忘れた調子なものだから可笑しくなる。それを見て少しラズヴィーンさんが呆れた顔をしていた。

「ああ、それで……。じゃあ皆で行きましょうか」

 僕も思わず笑顔になってそう言った。

「よし、行こう。朝ごはんー朝ごはんー」

「わたくしも行きますわ」

 そうして、三人で食事をしに講堂を出て食堂へ向かった。

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