第9話 ベイオルの結末

「門を開けなさい」

 ラズヴィーンさんは門の傍で今も守りについている兵士に命じた。命令を聞いて二人の兵士は素早く閂を外してそれぞれ左右の門を引っ張って開ける。兵士はさっと頭を下げ、門の左右に立つ。「何かあればすぐに閉めるように」とラズヴィーンさんは言った。

「大丈夫だとは思いますが、何があってもいいようにはしておきなさいな」

 そんなことを言いながらラズヴィーンさんは槍を肩に担ぎながら先頭に立つ。僕たちは顔を見合わせた後その後ろを付いて行った。

「とはいえこれは……何とも凄まじいですわね」

 そう言ってラズヴィーンさんは開いた門のすぐ前で早々に止まった。門が開いた時からそれは正面に見えてはいた。でも近づいて理由がわかるとラズヴィーンさんがそんな風に絶句したのも頷けるような光景が広がっていた。

 見渡す限りの魔物の大群はどれも変な姿勢で止まっていた。あの青い炎に巻かれて振り払おうとでもしたのかもしれない。暴れたような、それで逃げ惑ったようにいろんな方向を向いている。門の手前には開けた時に崩れてしまったもののほかに、門にまるで開けてくれと言うように縋る姿勢で固まってしまった魔物までいた。魔物同士、押し合って絡まったままの形もある。問題はどれもが皆同じように凍り付いていることだった。表面に霜が降りるほどの冷気が通り抜けたようだ。門を隔ててそこにあるすべてが死んでいる。

 魔術にやられて暴れた勢いが止まらないまま、即座に凍ってしまったのか足や腕がぼっきりと枝のように折れて転がっている死体も多い。ものによっては胴体がねじれるように砕けている。早くに倒れて別の魔物に踏み潰されたものもグシャグシャな状態で固まっていた。流れ出た血さえも。

 奇妙な石像か、はく製のように動かない魔物の群れは門の外に異常な景色を作っている。地面もよく見ると、土も、そこに生えていた短い草にも漏れなく死の冷気が降り注いでいた。大地さえも凍てついて死に絶える魔術、そういうものだった。

 ラズヴィーンさんは槍を、立ったまま凍り付き手足が揃っている死体に振り下ろした。槍の穂先を肩に受けた死体は、バキッと枯れ木が裂けるような音を立てて砕ける。腕をくっつけたまま、肩口から走った亀裂によってふたつに分かれてしまった胸と、首が割れて支えを失った頭が地面に落ちる。両足首も槍が当たった衝撃で割れ、そこから上がそのまま前に倒れた。そのどれもが地面にぶつかるとともに爆ぜるように割れて大きな欠片に分かれた。中まで完全に凍り付いてしまっている。きっと、ここにある全て、まるで生きているような姿勢で立つものでさえ完全に命が失われているのだろう。毛むくじゃらが毛をバリバリに凍らせたまま、両腕をへし折って地面に頭をつけていた。

 ラズヴィーンさんが先頭で氷漬けの墓標を槍で払いながら道を作る。左右に押しのけられた死体は足や胴体からバキバキと砕けながら近くの同じようなそれにぶつかって両方とも割れる。胴体が折り取れても、地面に張り付いたまま二本の足が残ってしまうこともあるが、それもへし折る。そうやって魔術の効果が及んだところの端まで僕たちは進んだ。僕たちが初めてベイオルの異常に気付いた場所よりは町側に近いくらいまでが範囲だったようだ。そこまで行く途中にあった以前の襲撃で死んだ魔物の死体も固まっていた。

 進むにつれて魔物の凍り方が弱くなっていく。槍で払い退けても裂けたり砕けたりしなくなるうちに立っている死体は一つもなくなった。その代わり体中が大きく裂けて、中の肉から血をあふれさせているようになる。そういう死体は避けられないなら踏み越える。冷気でダメになった皮や、その中の肉のブヨブヨとした足元の感触が耐えがたいほど気持ち悪い。幸い、奥に行くほど魔物の密度は低い。

 そうして端まで付くと、この辺りが一番凄惨だった。数は多くはないが、運悪く致命傷を受けない距離に居たか、もしくは逃げそびれて魔術に飲まれた魔物は全身が冷気にやられていながら死に切れていなかった。体中の萎びた皮膚が裂けて血があふれている。両目が凍り付いてもがいている。胸がやられたのか弱弱しくも体をくの字に曲げたり伸ばしたりして必死に息を吸おうとしている。それでも死んでいないだけで立ち上がるどころかその場から動くこともままならないほど衰弱している魔物が広がる地帯があった。それでもまだ動ける魔物はここから逃げたのだろう。

「魔物と言えども楽に……いや、そんな必要もなさそうですわね」

 ラズヴィーンさんがそんなことを言ううちに近くにいた血まみれの魔物が動かなくなった。他の魔物もどんどん動かなくなる。もしかしたらここに来る途中の魔物も、即死できないでじわじわと死んでいったのかもしれない。

「しかしまぁ、取るに足らない野良魔術師だろうと思っていましたのに。こんなに一騎当千の活躍をされるとは思いもしませんでしたわ」

 魔物のものと言えども死体の山の中にあっては沈み込む気分を払うようにおどけた調子でラズヴィーンさんがアリオールさんの方を向く。

「それはどうも」

 どうやらアリオールさんはあまりこのことに触れてほしくないようだ。やったことを考えると無理がある気もするけれど、その気持ちは少しわかってしまう。

 いつの間にか遠くから馬の駆ける音が聞こえてきた。空はもう明るくなり始めている。だから徐々に見えてくる音の主が騎兵の一団だとわかった。後ろに馬車もいる。

「はっ……今更ですのね。ずいぶんとかかったじゃありませんの」

 ラズヴィーンさんがそれを見て吐き捨てる。騎兵が旗を掲げているようだ。どこの旗かは、僕は知らない。どこかで見たことがありそうだけれど。

「お待ちかねのリーヴからの援軍、ベイガー伯の騎士団ですわ」

 ラズヴィーンさんが教えてくれる。でもなんだかやってくる騎士たちを睨みつけている。

「あなた方は余計なことを言わないでよくってよ。ここは任せてくださいまし」

 僕とアリオールさんにそう言う。僕たちから一歩前に出て騎士団を迎えるつもりのようだ。そうこうしているうちに騎士団がたどり着く。僕たちには気づいているようだったけれど、さしもの騎士と言えども、この光景にはさすがに戸惑っているようだ。

「これは……一体」

 先頭にいた騎士が言った。それを見ていたラズヴィーンさんが騎士に近づく。

「遅かったですわね」

 騎士に恐れることもなく言う。また妙な迫力が出ている。言葉の調子は気やすいものだったけれど。

「は! なぜここに! すでに王都から迎えが来て旅立ったと――」

 先頭の騎士が一目でわかるくらいには動揺した様子になった。慌てた様子で馬から落ちるような勢いで降りて、それ以上近付くこともためらわれるのかその場で何か言葉にできないものが漏れだすように落ち着きなく手を動かしている。なんだか決してやってはいけないことをしたような雰囲気だった。でもその騎士が何かを言い切る前に横から一人の老人が息を切らして駆けてくる。それもとても焦った様子で。その老人にラズヴィーンさんがニッコリと笑顔を向けると息も絶え絶えに青ざめた顔がさらに強張った。少し前に扉が開く音と、誰かの道を開けろという怒鳴り声がしていたから、この人が馬車の中にいたのかもしれない。

 先頭の騎士もすっかり血の気の失せた顔になって恐る恐る何かを老人に向けて言おうとして、やめた。片手で顔を覆って天を仰ぐ。

「……まさかご存命とは……いやそう思っておりました」

 息も整わないままで、厳かな声ながらも何とも白々しい言葉に聞こえた。どうも皆の様子から察するに、この人がここの長だった人かもしれない。

「どうせベイオルは駄目だと思ったのでしょう? ここは平和ボケしておりましたもの。それで街道方面の魔物を討ってこちらは後回し。まあ戦略としては理解していますけれど。ですがベイオルを預かりながら投げ出したこと、ここの民を捨て石にしかけたこと、それはあなたがすべきことだったかしらね、ベイオルの代官殿」

 そう言いながらラズヴィーンさんは老人に近づく。静かな言葉で、動作も自然なものなのに奇妙な威圧感がある。周囲の逞しい兵士が小柄と言ってもいい少女に後ずさりをするのは情けないようにも見えるが、この人というものを知っていればそうもなるだろうと同情する気持ちさえ湧いてくる。それに、ラズヴィーンさんの予測通り援軍はすぐには来なかった。そんな負い目も兵士たちにはあるのかもしれない。ただ、援軍が遅れたことそのものよりは偏にこの老人の行動が許せない様子だった。

「それは……ええ、いち早い伝令が必要と思いまして。それに私が不在の時は守備の兵が対応すると、そういう手筈ですゆえ」

「指揮不在の混乱の中で行動が滞りました。代わりに司祭が街中で避難誘導と陣頭指揮を執ったものの、入り込んだ魔物と果敢に戦い戦死しましたわ。あなた、教会にどう説明するおつもり?」

「……」

 老人が言葉に詰まっている。この人も変なところで清廉なのか、一応言い訳らしいことを語りはしてもそれ以上見苦しい真似はしなかった。普通ありそうなことだが、この老人は誰かのせいにするつもりもなさそうに押し黙っている。そんな人だからなのか、周りの兵士もこの場を取りなそうとはしているが、手に余るのかどうにも口を挟めないでいる。

「まあいいですわ。過ぎたことをくどくど言うのはわたくしの性分ではありませんし、それは別の方の仕事でしょう……これで勘弁してあげます、わっ!」

 ラズヴィーンさんが槍の石突を老人の腹にめり込ませた。この人の本気なら並みの人間は即死するかもしれない。僕とアリオールさん以外の誰もが一瞬ラズヴィーンさんを止めようと身構えたが、ひとりも動けはしなかった。

「ぐふっ! う、むぐ……」

 老人は変な声を上げて、槍を受けたところからぐにょりと折れ曲がり、地面に倒れたまま呻いている。当然と言うべきか、生きてはいる。やはり最低限の手心と言うものは弁えている様子だった。

「お……、お嬢様……、この度は我々の不手際でありますので……」

 先頭の騎士が馬を降りて畏まりながら恐る恐る言った。……お嬢様?

「その様子ですと、あなたちゃんと状況を知っていたらこっちに飛んで来たでしょう。どうせ、ベイオルはもう落ちるーとか、魔物を制圧しに向かった方が民のためだーとか、あるいはわたくしはもういないだとか、そんなことを吹き込まれたに決まっておりますわ。曲がりなりにもこの方はあなたより立場が上ですし」

 うずくまる老人を槍の石突で指す。ラズヴィーンさんは苛立ちながら、でもこの騎士には気を遣いながら、不思議な感情の使い分けで話している。そのうち従者か何かがふたり、老人を抱えるようにして馬車へ連れ戻った。

「む、うう。いえ、そのようなことは。この度は誠に」

「もういいですわそんなの。ふん。魔物の出現には最大限の警戒でもってあたるのは当然のことですから、過去の常識からいえばそれほど間違った選択ではありませんもの」

 これ以上は無駄だと言いたげにそっぽを向いてしまった。自分の命だけじゃなく、ベイオルの命運という重いものを背負い込まされたにしてはずいぶんと軽い言い方だった。まあ、そんなことを敢えて聞いたとしてもこの人は「わたくしが好きでやったことです」と言うだろう。短い付き合いだけれどそれはありありと目に浮かぶ。

 騎士――多分この人もそれなりに偉い人か――もラズヴィーンさんにあしらわれてもそれでも言わねばならないことがあると恐る恐る手を伸して、へなへなと下がる。

 少しの間の後、気持ちを切り替えるように僕たち、それも話しやすいと思ったのか、アリオールさんじゃなくて僕に話しかけてきた。

「あー、ベイオルの者、か? この度は申し訳ない……。が、よく耐えたものだ」

 なにか勘違いしながら場を取り繕おうとしている。この人は鎧を着こんでいるからか、かなり大柄に見える。大木のようなたくましさ。兜の前を跳ね上げたところから見える顔は若くはない。黒い髭の強面だ。見た目だけはラズヴィーンさんとは違う正統派の騎士の迫力があるのに、僕にさえ強く出るのをためらっているようで、それが真面目と言うか気が細そうに感じさせる。まあそうだとしてもこの人はここで起きたことを説明しろ、と本当は切り出したいのだろう。そんな気配で辺りを見渡して、僕を見る。どう聞こうか迷っているようだった。

「さすらいの大魔術師がおりましたの。もう出て行ってしまいわしたわ」

 そんな様子に気付いたラズヴィーンさんがこっちを向いた。ここは任せろ、と言うことに甘えた方がよさそうだ。僕が何か言うよりずっといい。アリオールさんは今、厄介ごとの気配を感じ取って空気に徹している。

「ああ、それでこんな……。私も魔術師の業は見ますが、これは……こんなことがあり得るのですね。まさしく戦況を左右する戦魔術師の奥義ですな」

 騎士はそんな風に一応は納得することにしたらしい。でも戦魔術師って何だろう?

「君、その魔術師は」

「もう去りました」

 それでも確認しておきたいことがあったのだろう。僕に魔術師のことを聞こうとして、ラズヴィーンさんが横槍を入れた。有無を言わさない言葉で。それで察したのか騎士は諦めたように開けた口を閉じて黙り込んでしまった。それでも僕の方をじろじろと見ている。まさか、こいつが? ――そんな風に顔に書いてあるのがわかる。ここはアリオールさんのためにも曖昧な笑顔でごまかしておこう。そう思って騎士に向けて笑ってみた。

「うぅむ……」

 唸りながら騎士は眉間にしわを寄せる。頼むからもう諦めてくれ。

「君は? そこの、君、う……。か、彼? か、彼……女? は何者ですか」

 騎士は次の狙いをアリオールさんに定めた。定めはしたがアリオールさんの風体が何とも言いにくいので、途中でやめてゴニョニョとラズヴィーンさんに聞いてしまった。揉め事は避けようという決意が見える。強面だけれど案外、話せばわかる人かもしれない。

「旅人です。そこの少年の保護者ですのよ」

「ち、違! ……いません。そ、うです」

 ラズヴィーンさんがニヤニヤしながらそんな紹介をする。何を言いやがるか。と反論しそうになって、これが一番いいのか? と考え直し、不服ながら認めることにした。

「そうです。兄です。ふふん」

 ついさっきまで影のように静かだったくせにアリオールさんまでそれに乗っかる。僕は言いたいことがいっぱいあるけれど、声にしてはいけない。それでも僕の口は何かを言おうとしてしまい、それを必死で閉じる。まるで魚のような口だと自分でも思っていると、僕を見ていたラズヴィーンさんが耐えかねて笑い出す。アリオールさんもいつもの悪ふざけが始まってわざとらしく僕の肩に腕を回す。ラズヴィーンさんはそれでもう大爆笑している。笑いながらむせている。

 騎士を見るとものすごい苦しい顔をしていた。とんでもなく怪しくて、ここの事情を知っていそうな連中がいるのに何も聞けない。さらに変なおふざけが始まってしまうし、アリオールさんは僕の兄には見えない。ラズヴィーンさんが庇っているのはすぐわかるだろう。だから余計に怪しく見える。絶対何かあると確信しつつそれに触れられない。でもこの人の真面目そうな性分がそのままにしておけない。そんな葛藤が見える。何か言おうとして、喉元まで上がった言葉を何度も飲んでいる。なんだかかわいそうになってきた。

「冗談は置いておいて、彼らは本当に旅人ですのよ。ベイオル防衛の手伝いをしてくれました。間に合わせの槍を作ったりね?」

 ラズヴィーンさんがいたずらっぽく僕を見る。確かに嘘は言っていない。重大なことを言っていないだけで。一応それに合わせて僕は頷いた。

「そう、ですか」

 騎士ももう諦めたらしい。その後ラズヴィーンさんが騎士に何事かをお願いしていた。そうすると騎士は引き連れていた配下に指示しこの場の片づけとベイオルに向かう班に分けた。片方は片づけのためこのまま南から、もう片方はここからでは進みにくいので、大きく迂回し状況把握ついでに北側からベイオルに入る様子だ。

「わたくしも聞きたいことがあります。西の街道はどんな様子だったかしら」

 ラズヴィーンさんが将軍の顔に戻って騎士に聞く。この人は魔物の出元を街道と予測していたからだ。確証を得る必要があるのだろう。

「……魔物は例の、廃墟を根城にしておりました。足跡など痕跡がありまして、行けば案の定と言ったところですな。しかしこれまで魔物の出没は聞きません。それでその、これほどの数が一切の予兆なく群れで人里に現れる、というのはまず無いことです」

 少し歯切れが悪い。騎士も全貌が掴めないことが不安なようだ。

「それで?」

「掃討はすぐに終わりました、放置すればリーヴをはじめ周辺にも被害が出ると考えてのことでしたが、なにぶん妙に数が少なかったので。今も警戒と調査のための隊を駐留させております。ただ、ここに異様な数の魔物が集中しているのを見るとベイオルがそもそもの目的だったようにも思えてしまいますな」

「住処からすぐの集落を襲うならまだしも、あり得ますの? 魔物ですわよ?」

「普通ならあり得ません。群れの強者に引き連れられたとしても、何の理由があっての事なのか……何より気味が悪いのは魔物のあるところ、大抵は食べ残しや死体、汚物やら何やらがあるのにそれさえほとんど無いということ。飢えた魔物は共食いさえすると言いますから、これでは突然地から湧いたと言いたくなるところですな」

「冗談はおやめなさいな……ああ、続けて」

「申し上げにくいのですが……これが廃墟の奥から見つかりました。兵に様子を見させまして、廃墟の教会の中に」

 そう言って傍にいた兵士に声をかけて何かを受け取り、掌に載せて見せる。ラズヴィーンさんが触れようとして騎士が遮った。多分咎められないだろうという確信があったので僕ものぞき込んでみた。それは掌に収まるような錆びた鈍色の長方形の板だけれど、表面には僕のお守りにあるような図が刻まれている。けれどもっと雑で、そして複雑なものに見える。全体的に傷んではいるけれど、どういうわけか端が激しく錆びてボロボロになっているのも不思議だ。いかにも曰くつき、といった見た目なくせに取るに足らないものにも見える。拙い、粗雑、そんな粗末な雰囲気のせいかもしれない

「これは……なんですの? わたくしにはわかりませんわね」

「これが講堂に、中心にはかすれた魔術らしき陣が。他に三つあったらしく、それらは回収しようと触れた時に崩れたそうです。これはもともと朽ちたところを下に、楔のように床に打ち込まれておりましたようで。そこが消失しているのは、その……、触れた時に」

「他には?」

「何も。これをしたと思しき者もおりませんでした」

「成程」

 そういった後ラズヴィーンさんはアリオールさんに手招きする。そして傍に来ると、今度は騎士にさっきの金属板をもう一度見せるように促す。さすらいの大魔術師が、なんて建前は捨てて現状把握に努めるようだ。アリオールさんもそれに渋々従っている。

「あなた、これをどう見ますかしら」

 アリオールさんに聞く。

「わからない」

 ラズヴィーンさんがアリオールさんをギッと睨む。

「いや冗談じゃなくてね? 自分の流派以外となるとわからんもんなの。んーなんだろーなー……陣の傍ね、場の固定、切り分けか。多分防御かな。防御ならありふれているけど魔物の群れの中でか。あとは転移……ハッ、言っておきながらだけれど、あり得ないな」

 へらへらとラズヴィーンさんの視線を受け流してからしげしげと観察した後そう言うアリオールさん。その横で騎士がまた何か聞きたそうにモゴモゴし始めた。ラズヴィーンさんは手をかざしてそれを抑える。

「防御なら、集まった魔物から身を守っていたということかしら……でも誰が? 何でそんなことを……? そしてよ、仮に、その転移だとすると何が起こるのよ?」

「わからん。昔は異なる場所と場所を繋いで移動できたとしか。もうすっかり失伝しているし。それに……元は魔族がやっていた術を模倣したものだというから、そもそも本当に魔術として存在するかどうかの信憑性さえない」

「それでここに魔物が湧いたと? それはさすがに、どうやったか、より何のために誰がやったかという話になりますわね。何より何でそんなに回りくどいことを……まあ一応考慮には入れるべき……でもねえ、仮にも魔術師が否定しているのに、あり得るのかしら。むしろこの状況で無いと言い切る理由が……魔族、魔族ね、いや、そんな、理由は何よ」

 ラズヴィーンさんが考え込むように口元に片手を当てながら左右にうろうろしだした。普通魔物は人間とは共存できないらしい。大抵この世界を憎んでいるかの如く暴れまわるので、飼いならすどころか接触さえ命がけとなると司祭様から聞いたことがある。その時悪しき神の末裔がどうとか、善なる神の世界がどうとか、いろいろ言っていたけれど、僕はあんまり信心深い方じゃないのでちゃんと聞いていなかった。

「気に入りませんわ。人の気配を目指したと仮定しても、より近いリーヴではない。周囲に感づかれずいつ湧いたかもわからない。夜闇に紛れて接近し、一番脆いベイオルに襲撃するなんてね」

 急に止まって今度は深刻そうな様子で騎士にそう言う。騎士も悩みを深くしている。

「リーヴ西の『飛び地』に異変はありません。そこが関係しているにしては静かですな。さて、どうしたものか。今後領内で同じことが無いといいのですが」

「しばらくは警戒、ですわね。今度尻尾を出した時が押さえ時ですか。……ふん」

 ラズヴィーンさんはそう言って気に入らなそうに鼻を鳴らす。さすがに疲れたのかもしれない。ふと物憂げな顔を一瞬したのを僕は見てしまった。

「まさかね、お母様の差し金かしら」

 ラズヴィーンさんからすればちょっとした冗談だったのかもしれないけれど、それを聞いて騎士の顔が凍り付いたように強張った。慌ただしく辺りをキョロキョロしだしたかと思えばその強面に似つかわしくないほどしどろもどろになりながら恐る恐ると言った様子でラズヴィーンさんに囁いた。それも周りに聞こえないように気を遣いながら。

「お止めください、あり得ませぬ。不可能です。滅多な事は」

「ふっ、冗談ですわよ、冗談です。……ふぅっ」

 ラズヴィーンさんは何とも言えない苦笑いのような表情でそう言った。複雑そうな思いが漏れだしたようなため息も伴って。そうやって騎士のそれ以上の発言を遮った。その後首を振るようにして何かを振り払って元通りの笑顔に戻って見せたけれど、それで騎士は何かを察したのか、言葉を嚙み潰すようにして押し黙った。そんなやり取りで気をすり減らしたのか、見るからにやつれて老け込んだような騎士がいっそ滑稽に見える。そうして訪れた突然の重い空気の中、それを会話の最後にして僕たちと騎士もベイオルに戻ることにした。

「……」

 騎士とラズヴィーンさんの奇妙なやり取りの後、アリオールさんが何も言わずふたりのことをじっと見ているのがなんだか気がかりだった。

 途中、魔物の凍り付いた異様な死体だらけの場所を通る時、その景色のせいか騎士たちの馬が暴れたりもしたが、無理やり宥めて連れてきたために思ったより時間がかかった。その時に疑問に思っていたことを聞いてみた。魔物が二種類混ざっていた事がずっと気になっていた。騎士曰く、魔物に限って言えば種族を越えて群れることがあって、これが獣と違う恐ろしさで、それを知らない者が見た時に魔族の関与を疑う原因になるのだとか。僕はいつも通りアリオールさんに聞いたつもりだったけれど、騎士がそういうことをさっきまでの雰囲気を振り払うように、少しわざとらしい風に教えてくれた。そうこうしながらやっとベイオルに着いた時にはもう早朝とは言えないほどに日が高くなっていた。

「それはそれとして、お嬢様、なぜここに居られるのですか。王都への迎えは来ているものとばかり。それでここにはいらっしゃらないと、思っておりましたが」

 門をくぐり、馬を繋いでから若干申し訳なさそうに騎士が聞く。援軍が遅れたことをまだ引きずっているのかもしれない。ラズヴィーンさんは面倒臭そうに答えた。

「まだ来ておりませんわ。と言うか、本当に来るんですの? 体のいい厄介払いだとしても手際が悪すぎるのでなくて? わたくしここに五日もいますわよ」

 苛立った様子だ。ラズヴィーンさんは結構気が短い。ちょっとの付き合いでも、それはわかった。でも僕はこの人について聞きたいことができてしまった。

「あの……さっきからお嬢様、っていうのは……?」

 今更な質問だったのか騎士はともかくラズヴィーンさんも「何を言っているんだ、こいつ?」みたいな顔をする。いや僕この人と知り合ったばかりだし。自己紹介もちゃんとしてないことをラズヴィーンさんまで忘れるなよ。と言いたくなる。

「ああ、そうでしたわね。一度も名乗っておりませんでしたものね。改めまして、わたくしはラズヴィーン・ベイガーと申しますわ。本当はもう少し長いのですけれど、それはいいでしょう。今まで通りラズヴィーンとお呼びになってくださいまし」

 ベイガー……、ベイガー。領主のベイガー伯爵! ここの領主の……娘?

 僕の仰天っぷりと、うすうす何かを察していたアリオールさんの納得したような顔を見てラズヴィーンさんは今更ですわね、とため息をついた。

「正式にはラズヴィーン・レオーズ・ゴルガン・ベイガーと申し上げるお方だ。……今更控えよとは言わぬが、なかなか無礼だぞ君たち。本来ならばあり得ぬ」

 騎士が呆れたようにそう補足する。この人、貴族だったのか。まあ今までの経緯からも騎士との会話の様子からもタダ者ではないと思っていたけれど、改めて知るとどうするべきか、僕はこういうのは苦手だ。と言うより貴族に会ったことが無い。

 ラズヴィーンさん本人はと言うと、騎士が代わりにした長い名前の補足の最中からうんざりした様子で、騎士が僕たちの態度に苦言を呈すると顔が険しくなる。鋭い眼光に騎士が気づいてびくりと身を竦ませた。それを無視して僕たちに向けて言う。

「もういいですのよ、そういうのは。どうせ貴族ではなくなりましたし。ほら、修道服。当家からの勘当の品ですわ。涙が出るほど嬉しくってよ。えんえん」

 ラズヴィーンさんはそう言って血の付いた修道服の裾をヒラヒラ振りながら示し、わざとらしく泣き真似をした。なんかいろいろ吹っ切れている人のしぐさだ。これは。

「お、お嬢様……。奥方様もそのようなことはいたしません。きっと、そのはずでありましょう……当主様も、ほとぼりが冷めるまではおとなしくせよとしか、その……ええ、そんな無体なことはなさらないはず」

 騎士が慎重に宥めすかす。相当に仲がいいのだろう。かなり思い遣ったような言い方をしている。ただこれも途方もない苦労とともにあった人の振る舞いだ。巧みに逆鱗を避けながら言うべきことを言っている。

「あの、差し出がましいようですが……なにがあったんで? へへ」

 僕が一番びっくりした。思わず見てしまった。アリオールさんが信じられないくらい意地悪そうな笑顔のまま、聞きにくいことを何とも嫌な様子伺いの言葉に溶かして浴びせかけるなんて。多分ベイオルでのいざこざの鬱憤をここで晴らそうとしている。この時の姿は今までの「この人、すごい」という僕の尊敬を打ち消すくらい、小さい。

 これには騎士も怒ったようでアリオールさんに素早く向き直って口を開いた。

「貴さむぐふ」

 けれどラズヴィーンさんはあまり気に留めた様子ではなく、騎士が何か言う前にそっちに顔さえ向けずにその鎧で覆われたお腹をゴゥン……と音が響くくらいにかなり強く叩いて黙らせた後、むしろ質問に呆れながら話してくれた。

「わたくしにはかつて、そうかつて婚約者がいましてよ。でもその方ときたら私の傷を見て顔を引きつらせてキズモノ呼ばわりですわ。それで鼻をへし折りましたの」

 言っていることは多分自慢していいことじゃない気がする。貴族のことはわからないけれど、おそらく致命的なやらかしの気配がする。でもラズヴィーンさんは輝かしい自慢顔で誇らしそうに顔を上げ、片方の拳を勝ち誇るように振り上げて胸を張る。そしてそれを見ていた騎士の重い、絞り出すようなため息が響く。

「わたくしの家はかつての戦役以来の成り上がりですから、歴史ある方の価値観で軽んじられるのは許してあげましょう。詰まるところ、家名の評価はわたくし自身の評価ではないのですから。ですが、わたくし自身に文句を垂れること、それは宣戦布告ですわ」

 どうしてそんなことを勝ち誇ったように言うのだろう。普通、上流階級は家の体面とかにうるさいものじゃないのか。うちだって村長だけど。まあうちもそういうので揉める方じゃなかったか。それはどうでもいいことか。

 これにはアリオールさんも勝ちを得られずむくれ顔をしていた。話の内容も強烈だけれど、それを全く後悔しないで武勇伝のように語られるとは思わなかったようだ。

「ほかにもいろいろありましてよー。わたくしはほら、見ての通り武人志望ですの」

 そうは見えない。槍の石突を地面に突き立てて、もう片手を腰に当てて偉そうに、それでいて物騒ながらどこか愛らしく胸を張るラズヴィーンさんは普通の女の子よりはうんとたくましいけれど、それでも黙ってさえ、いや、どこかの勇者や猛将の如き仕草や表情さえしなければ充分、貴族のご令嬢で通じるほど可憐なのに。

「誰もそれを許しはしませんもの。家も立場も、そして性別も。まあ性別に関しては、今は昔ほど厳格ではありませんけれど。それでもいらぬ偏見はありますわね」

「お嬢様、奥方様は……ともかく当主様は決してそのようなつもりでは」

「もう済んだことです。後悔なんてありません。それでこうならそれで良し。だからあなた、わたくしの言伝を預かりなさい」

 突然謎の役目を騎士に押し付ける。近くに槍を立てかけ、誰が止めるのも構わず門の近くの兵士詰め所にのしのしと押し入り、しばらくして出てくる。手には2通の手紙。

「これはお母様に。他の誰でもありませんわ。お母様に渡しなさい。こっちはこれから来るかもしれない王都からの使いに。あなたはまだここに居りますわよね。だからお願い。渡しましたわよ」

 そう言って騎士に二通の手紙を渡した。受け取ろうとしない騎士の手を取って「あなたが受け取らないと意味がありませんの」と押し付けた。

 渋々手にとって、それでも内容を察したらしい騎士が首を振って付き返そうとする。けれど騎士の手ごと押し返して絶対受け取らないラズヴィーンさん。この人は巨体の騎士と力比べできている。どっちが化け物じみているのか今の僕にはもう判断がつかない。最初こそ平穏だったけれど、どっちも譲らないせいで埒が明かないとお互いギリギリと押しつけ合っていたけれど、ついにラズヴィーンさんが「フン」と無理やり押し切った。

「わたくしはわたくしの道を進みます。ほとぼり……ううん、頭を冷やすのはあなた方だと言ってやりたいところですけれど、それは我儘が過ぎるかしらね。勝手に行くのが円満ですわ」

 そう言って収めようとするが今度ばかりはラズヴィーンさんの両の肩をがっしり掴んで騎士は説得する。手紙も手に持ったまま、まだ自分の懐には入れていない。

「お考え直しを。あなたに何かあれば、私はどうすればよいのですか」

 たぶんラズヴィーンさんには一番効く言い方だ。たださっきからじわじわと僕の思っている以上にふたりの様子が深刻な暗いものに変わっている気がする。

「わかってください。このままでは、わたくしの未来は開かれません。この先に待つ境遇に甘んじれば、わたくしは枯れます、それこそ、辱められるようにね。それはわたくしの道ではありません。それにあなたにはあなたの役目がおありでしょうに」

 そう言って手を肩に置いたままの騎士の腕にそっと触れた。お互い見つめ合って、両方とも手を離す。何かわかり合うものがあるような風でラズヴィーンさんは微笑んだ。騎士の方は相変わらずその強面を顰めているが、ふっと諦めたように首を振って兜の前を下ろした。本当は行かせたくないのだろうか。そんな心情が兜から漏れるようだった。

「あなたの帰りと、功名話をお待ちしております」

 そう言って騎士は下がる。さっきまでのやり取りが嘘のように冷静な声に聞こえた。騎士は馬にくくったままの鞄に手紙をねじ込み、周りにいる部下に今後の話をし始めた。ラズヴィーンさんはそれを見て少し寂しそうに笑った。でもそんな気配も一瞬。それで僕たちに「宿に行きましょう」と落ち着いた調子で言うと笑顔で僕たちの前を行く。なんとなく僕には触れられない気配に思えて話しかけづらかった。

「ラズヴィーンさんも大変なんですねぇ……」

「大変って君、今の様子だとあれ多分……、ああー、どうしたものかな」

 僕はラズヴィーンさんの苦労の一端を見てしみじみと感じたことを、さすがに本人には言う気になれないのでアリオールさんに言ってみると、アリオールさんは何かに気づいているような慄いた言い回しをしながら渋い顔で頭を抱えている。それが僕には何のことかわからなかった。でもラズヴィーンさんはこれからどうするつもりなんだろうか。いくら強くてもひとりで旅をするのは危険だと思うけれど。

 ともあれいろいろあったからか、時間はお昼に近い。朝ご飯を食べ損ねた。宿屋に着くと、なんだかいろいろな疲れがどっと出てしまって食事も摂らず一部屋借りて少し眠ることにした。アリオールさんも同じのようでさすがに顔にも疲れが見える。宿屋の主人も僕たちを覚えていて、また来ると思っていた、そしてこの前は碌に部屋を使ってないのに金は取れない、と言ってくれたのもありがたい。僕たちは貧乏旅の途中だったから。

 そうして前と同じ部屋に入り、いつの間にかきれいに整えてあったベッドに潜り込んでいつ寝たのかもわからない気絶のような寝方をした後、辺りがうるさいことに煩わされて起きるはめになった。アリオールさんは僕より早くに起きていて、この時ばかり部屋の外の音に少しうんざりした様子だった。

 窓から射し込む光を見るに、もうすっかり夕暮れ時らしい。ふたりで恐る恐る部屋から出ると、一階で戦勝祝いか援軍が来たことで肩の荷が下りたのか、みんなでバカ騒ぎをしている。それで一階に降りるのは諦めた。宿屋がどこも混みあっている。

 二階の窓から外をのぞくと中に納まらない人は外に適当な樽や木箱を並べて酒を飲んでは騒いでいる。そこらの店や家も外の騒ぎに拍車をかけるように、酒樽や瓶を並べてお酒を提供したり食べ物を出したりしている。今までの大変さや苦しさ、仲間を失ったさみしさを洗い流すように。この場には泣くような人はいなかった。

 宿屋の中に視線を戻すとなんだか見覚えがある人が自慢げに話している。あれだ、防壁の上でも下でも斧を振り回していたおじさんだ。相変わらず活力に溢れている。そういえば門の内側に柄の折れた斧が頭に叩き込まれていた毛むくじゃらの死体があった。この人も今回の騒ぎで英雄の仲間入りをしたんじゃないだろうか。ほかには……と見渡すとラズヴィーンさんに槍を持ってきた若い男の人もいた。あの後何かがあったのか両腕が包帯でぐるぐる巻きだ。でも器を片手に飲み食いしているから重傷じゃないのかもしれない。

 そのうち外が騒がしくなる。反対に宿の中が少し静かになった。ラズヴィーンさんが宿屋にやって来たらしい。みんなに見つかって歓声とともに中に引っ張り込まれている。一番大きいテーブルの前に連れてこられて、そこを占拠していた酔いつぶれたおじさんが何をしてもどかないせいで他の人に蹴り転がされた。そうして場が整えられた後にラズヴィーンさんは陶器の大きなジョッキを持たされる。さすがラズヴィーンさんはそんな喧騒にひるむことなく片手で掴んだジョッキの酒を飲み干した。そしてジョッキをダァン! とテーブルに叩きつけて、すぐに「次」と手を伸ばして持ってくるよう催促する。やっぱりこの人は何かおかしい。容姿と振る舞いの差が凄まじい。

 そのまま二杯目を平然と飲み干すと周りが湧きたって次はこれを、とか、いやこっちの酒を飲んでくれ、とかしまいにはもう樽もってこい、樽だ。なんてみんなが騒ぎ出す。

「はいはい、皆さんも飲んで食べて騒ぎなさいな。皆の勝利ですわ」

 そう言った後、一通り周りをあしらってから、僕たちが二階の階段そばで立ち往生しているのを見つけたらしくこっちに手招きする。僕たちはあの時の門の前での雰囲気を覚えているせいでどうもその中に入る気にはなれなかった。変な気まずさにいたたまれなくなって部屋に戻ろうかと思ったけれど、そんな様子をラズヴィーンさんが放っておくわけもなかった。こっちをビッと指さして叫ぶ。

「そこの二人が勲一等です! 捕らえなさい! このわたくしが労ってあげますわ!」

 ラズヴィーンさんは人の扱いが巧い。僕たちを嫌っている人がいても、このような空気の中で、さっきのような言い方をすれば誰ともなく面白がって騒ぎ出す。僕たちに構う。ましてや自分の前に引っ立てろ、とベイオルの英雄が叫ぶのだから我先にと手が伸びる。

 僕たちは抵抗する間もなくラズヴィーンさんの前に連れてこられてしまった。でもその後は案の定、僕たちが誰なのかに気が付いたのか、急に辺りが静まり返った。

「あなた方、飲んでおりますか? おりませんね。ふん! ……ここに酒を持ってきなさい!」

 それが第二幕の始まりだった。僕は勘違いしていた。ベイオルの人は僕たちをもう受け入れてくれていた。さっき皆して黙り込んだのは、僕たちを嫌ってではなくて単にラズヴィーンさんの言葉を待っていただけだったみたいだ。それは少しうれしいことだった。

 アリオールさんも僕ももみくちゃだ。酒の注がれたジョッキを突き付けられて「飲め」と言われたり、「これ食えぇ!」と料理を押し付けられたり忙しい。「おめぇ食え。食わねぇからちいせぇんだ」とか暴言も吐かれたけれど。あのおっさん顔忘れないからな。

 周りの圧にやられながら、僕はアリオールさんがどうなっているか気なって探した。いつの間にか僕の横からいなくなっていたけれど遠くには行っていないはずだ。

 そうやってキョロキョロと辺りを見渡すと、居た。アリオールさんもみんなに絡まれている。突きつけられた酒を受け取ったり、そのうち賑やかな一団に絡まれて何か話したりしている。相手の自慢気な調子に合わせてヘラヘラと笑ったり、突然神妙な顔で何かを言ったり。そのうち背中をバシバシと叩かれてみんなが大笑いしている。さすがのアリオールさんもそれには参った様子だった。

 その一団がまた盛り上がり始めた時、隙をついてアリオールさんはそこから離れようとした。まあその先々で離れるたびに誰かにつかまって同じように絡まれているけれど。でもみんな笑顔だ。アリオールさんに笑顔で接してその話を聞きたがったり、もしくは自分の話を聞かせたがっている。中にはアリオールさんの手を取って咽び泣くような人もいたけれど、そのうち周りに人が集まって、騒ぎに乗せられて同じように陽気な調子に戻る。その人も泣きながら酒を煽ってひっくり返ったが、それはそれで面白いとみんなで引っ張り上げて大笑い。また仕切り直しで騒ぎ始める。

 そんな様子にアリオールさんも楽しげには見えた。でも、相変わらず外へ外へとじりじり進むのは止めていない。アリオールさんもこの状況をのらりくらりとかわすのが巧い。旅人の必須技能なのか。結構、気遣いの人なのはわかっているけれど。

 僕はその様子が気がかりだった。そうやって見ているうちについにアリオールさんは外へ出てしまった。まあ外に出た瞬間にまた捕まっていたようだったけれど。僕も相変わらず絡まれ続けてはいるけれどふらふらと外に出てしまったアリオールさんを放っておくのは不安に思えた。だからアリオールさんをお手本にその場を離ようとしてみれば、これがなかなか難しい。まず人をかき分けるのも大変だった。そのうちたまたま僕の肩に手を回して活躍したらしい自分の息子の自慢をしていた酒臭いおじさんが、僕の様子に気付いてくれて僕が何か言う前に「あの兄ちゃんだな、そら、あっちか! 通るぞ! 兄ちゃんどこだぁ!」とそのままの姿勢で出入り口まで人をかき分けて進んでくれた。そして僕の背中をバンと叩いて「中にはいねぇ、外じゃねぇかな。早いとこ見つけてやんな!」と言う。よたよたと振り返って見たおじさんは、僕に向けて髭まみれの歯抜けの口でニッカリ笑ってまた騒ぎの中へ戻っていった。

 ようやく外に出られたと思えば相変わらずいろんなところで人が騒いでいる。あたりを見渡してようやくアリオールさんを見つけた。宿屋から離れた家の壁の傍、そこにはものが乱雑に積んであって、その端の木箱に座っていた。手にはジョッキ、なんだかぼんやりと空を見上げている。喧騒から離れた場所にいるのを見つけて、それでもしっかりとそこにいるのがわかって何故か理由もなく安心してしまった。

 この戦いの間、短い時間ながらもずっと深刻そうな様子で、全部終わった後も元気に見えるように無理をしているような素振りだった。何だかそばにいないと消えてしまうのではないかと思ってしまうほど、さっきまでのアリオールさんは儚げだった。

 僕たちが初めて出会った時もアリオールさんはやつれていたけれど、今回はもっとそういうわかりやすい弱り方ではなく、今にも押しつぶされそうな弱弱しさが纏わりついていた。僕の目には、そう見えている。それが間違いならその方がいい。

「アリオールさん」

 僕が声をかけると、アリオールさんはこっちを向いてくれた。またいつもの力が抜けるふにゃふにゃした笑顔で自分が座っている木箱の右側にある同じような箱を指さして僕に座るように促す。少し酔っているのかもしれない。横に座るとお酒の匂いがした。

「大変だったねぇ」

 アリオールさんはそう言ってジョッキを傾ける。それで空になったらしい。

「お酒、もらってきましょうか?」

 僕はジョッキを受け取ろうとしたけれど、アリオールさんは首を振って特に名残惜しむようでもなく足元にジョッキを置いた。その後、僕の肩に腕を回してまた天を仰いでいる。やっぱり酔ってるな。気が済むまでこうしていよう。アリオールさんの気が済むまで。

「エリーは飲んでるように見えないな。もしかしてお酒強い?」

 空を見上げるのは止めて今度は僕の顔をのぞき込む。僕と目が合ってへにゃっと笑う。恥ずかしいからやめてほしい。いくら粗末な男装していると言っても自分がどう見えているかには気づくべきだと思う。そういう人懐っこい仕草はずるい。僕はサッと目を逸らして横を向くしかなかった。

「僕はお酒死ぬほど弱いんです。ほんの一口だけ。だから、顔が赤いでしょう」

 そう言ってごまかす。これ以上は僕には無理だ。僕の精いっぱい。

「そっか」

 そういってまたアリオールさんは座りなおして、今度はぼんやりと前を向く。僕の肩に回した腕はそのまま。少し抱き寄せられてしまっている気がする。気のせいだと思うことにしないと、僕の気が参ってしまいそうになる。

「妙なことに巻き込まれたもんだよ、もう。でも何事もなくてよかった。ベイオルの人には悪いけど、君に何もないことが嬉しい。もちろん私にもだけどさ。お互い無事、ふふ」

「はい……」

 アリオールさんは明るい。それに対して、僕の声は消え入りそうだった。この人は僕のことを気にかけている。どこまでも優しく。きっとそれ以上の気持ちはないと思う。なら今のこの状況に身を預けてもいいのかもしれない。でもこんなことが続けば僕の中で変わってはいけないものが変わるかもしれない。それを知ってしまえば、きっとアリオールさんも僕への接し方が変わる。きっとそれは誰にとってもいいことじゃない気がする。僕は魔術師になるために旅をしている。アリオールさんは師匠の下に帰るに僕を案内してくれている。それが僕たちの縁だ。

 僕はゆっくりと立ち上がろうとした。アリオールさんの腕をゆっくり下ろすように。アリオールさんもそれに気づいて腕をどけてくれた。名残惜しそうにこっちを見るのはやめてほしい。そんな気持ちをどこかに捨て去って、僕はアリオールさんの前に立った。

「今後はどうしましょうか。まだ予定を立てられる状況じゃないですねえ」

 どうにか落ち着いて調子で僕はそう言えた。笑顔をまじえて。これできっと大丈夫。

「そうだねぇ。今後はあの修道女との約束、それ次第かねぇ……」

 そう言ってアリオールさんは宿屋の方を見る。そっちは相変わらずの賑やかさ。喜びの熱が収まっていない。僕もその様子を見ると、なんだかすごいことに巻き込まれた、なんて今更になって思うようになる。

 戦いの前の不安や、いざ始まった時の恐怖、アリオールさんの秘められた力に驚いたこと、そういう僕の人生に今までなかった感情も重大ではあるけれど、いざ全部終わってしまえばひとつの思い出に、それも良いものにしてしまいそうになる。でもそれは僕たちにどうしようもない不幸が訪れずに済んだからだというのは僕にもわかる。死んでしまった人もいる。僕は今回もみんなのおかげで無事でいられた。自分の幸運、と己惚れるより僕の周りにいてくれた人への感謝をすべきだと思う。そんな風につい会話を忘れて考えていたらアリオールさんに言葉をかけられて現実に引き戻される。

「でもそれは後にしよう。次に顔を見せた時でいいや。シラを切るならもう一度、今度は私が怖い目にあわせちゃうさ」

 木箱のそばに転がしておいた様子の杖を掴んでそれを子供みたいに振り回して笑顔でそう言う。いつもこんな風なせいで冗談か本気か分かりづらい。僕の心配が気のせいなのかと疑ってしまうほどにさっぱりしている。たまに、何かあった時のほんの一瞬見せる言いようのない不安げな表情と、辛そうな様子さえ知らなければ、たぶんこの人のことを皆、ひたすらに暢気で頼もしい人に感じてしまうのではないか、たぶんそんな風に思える。

「なんとも剛毅な人だから、それは骨が折れそうですね」

 僕がそう言うとアリオールさんは笑う。でも実際、条件次第ではラズヴィーンさんさえも負かしそうなのがアリオールさんの怖いところだ。そんな実感がある。多分戦いが嫌いなだけですごく強い。……でも強いこと、と言うより強くあらねばいけないことを嫌がっている。今までの様子ではそうだ。

「負けないよぉ。あんな乱暴修道女、私だって」

「誰がわたくしに負けないのでしょうか」

 アリオールさんが言い切る前に僕の横から声がかかって僕は飛び上がるほど驚いてしまった。いつの間にかラズヴィーンさんが居た。笑顔だけれど、なんだか怖い。いつこっちに来たのか、まったく気づかなかった。

「ふふふ、わたくしに対する挑戦、いいですわね。勇者は好きですわ。でもわたくしに直接言えなくてはダメですのよ? さあ、言ってごらんなさい」

「あ……はは、いやその、はは……」

 腰に両手を当てて、前のめりに言うラズヴィーンさんの実力に裏打ちされた妙な威圧感と仕草の変な可愛らしさにいつもながらたじろぐ。どうも調子が狂う。アリオールさんさえ曖昧な笑顔で誤魔化すことにしている。

「ふん、だらしのない。挑戦ならいつでも受けて立ちますわ! わたくしの前に立つ勇者は全身全霊をもって打ちのめす、それがわたくしの愛ですの! 覚えておきなさい!」

 そう言ってこぶしを握り、ふんぞり返るようにして、まるでまだ見ぬ強敵に物申すかのように輝くほど凛々しい顔で遥か彼方に向けて宣言した。それで僕たちを労うような勇ましい笑顔を向けてくるものだから、内容は別として、それはきっと挑発とかではなくもっと親しみのこもったものなのだろう。僕たちをとても気にかけてくれている。今までの振る舞いを見ると、この人の半分は粗野で野蛮な豪傑だけれど、もう半分は慈悲深い聖女でできている。だから修道服もまあまあ似合うと思うけれど、それを言ったら僕はどうなるかわからない。

「そうでしたわ、以前したお約束の件ですけれど、もう少し待ってもらえますわよね。あ、そうではなくて、今すぐ行くなんて言うのはおよしになってほしいのです」

 僕たちが早とちりしてラズヴィーンさんの方を見れば、この人はそんな風に誤解を解きながら言った。

「それは大丈夫。どの道、用意には時間がかかると思っていたし。そっちの都合でも問題ないよ。だから約束、お願いね?」

「ふふ、任されましてよ。それ程は待たせませんわ。だから今は羽休めだと思ってゆっくりしておきなさいな」

 ここだけ見れば何となく仲がよさそうなやり取りに見えるけれど、実際はどうだろう。結構ピリピリしているような、どこかで通じ合っているような、一筋縄ではいかない様子が感じられてそばで見ていると怖い。早くここを離れたくなってきた。

「宿はもうダメです。どいつもこいつも潰れるまで騒ぎますわ。こんなんじゃ日が登るまで寝られません。だからついてきなさい。ここの代官の館にご案内しますわ」

「え、いいの? 平気?」

「わたくしを誰だと思いまして? わたくしに異を唱えられるものが今、ここにどれほどいるというのかしら」

「あの老人……代官はどうするのさ?」

「今はベイオルの詰め所に居ります。これから少し脅してきますわ。今回の事、騒ぎにしたくなければ大人しく館を使わせなさいってね。それでも首を縦に振らないのなら、縛り上げて教会の塔から鐘の代わりに吊るします」

「うぇ、本気じゃないよね、この人怖いな……」

 アリオールさんもさすがに良識を疑うというか、分かり合えない風を隠さない。なんだか冗談めかしたような、わざとらしい気もするけれど。

「どの道わたくしには十分な騒ぎにする手だてがありませんから。家にも帰れませんし。脅迫はそこに付け込まれるか否かが勝負ですわ、血が滾る」

「あ、あの! 教会は! 教会はつかえませんか?」

 余計な揉め事がこの先どんな厄介ごとにつながるか、そう考えるととてもラズヴィーンさんの提案に乗るのは賢明じゃない。思いついた最善の策っぽいことを伝える。

「あーもーこれから血沸き肉躍るって時にこの人は……なんて、本気になさらないでよ。余計な揉め事があなた方の今後に悪さをしてもつまらないですからね。教会が使えればその方がいいかもしれません」

 そんなに悪い提案じゃなかったようでラズヴィーンさんもその案で動いてくれるらしい。さっきの冗談が冗談に思えなかったことは置いておこう。

「はぁぁ……、ひとつ提案ですわ。何もかも忘れて、どさくさに紛れて吊るしてしまいません? きっと気が晴れますわよ?」

「いやいや、それ聞いて「うん」って言う奴はいない」

 多分あの時、老人にはこれで勘弁するって言いながら実は今もはらわたが煮えくり返っているとかそう言うことかな。いや、どんなに本気に見えても冗談だろう。きっと。アリオールさんも笑っているし、きっとそう。きっと……そう、なはず。

「では教会に案内しますわ。使っていない部屋はいくつかあったはずです。戦死した司祭のほかには修道女がふたり、私もいます。まあ誰も拒否しないでしょう。先の戦いで出た怪我人であふれている可能性もありますけれど、その時は諦めて代官脅迫しますわよ」

 ああそうか、怪我人の収容に教会を使っていたのか。僕はそれに気が付かないまま提案したみたいだ。なんだか教会が使えなかった場合、ラズヴィーンさんの勢いに加速をつけることになりそうで、頼むから部屋が使える状態であってくれと願うしかない。……それにしても何が本当に冗談なのかわからなくなってきた。

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