第8話 ベイオル防衛戦

 ある意味平和な賑やかさはあっけなく終わってしまった。南の方から鐘の音が聞こえる。大体、こういうのは悪い知らせだ。今度は悪い意味で辺りが騒がしくなる。

「来ましたか。出番ですわね」

 僕たちに修道女が言う。

「仕方ない」

 アリオールさんも硬い顔に変わる。

 そんなときに伝令係の人が息を切らして飛び込んで来た。兵士じゃなさそうだ。その様子で扉の近くに居たアリオールさんも驚いて道を譲る。

「ラズヴィーン様、魔物が出ました、今までで一番多い数です! 暗闇に紛れるように進んできたようで気づくのが遅れました、門前まで迫っています!」

 案の定悪い知らせだ。それも状況は良くないらしい。鬼気迫る様子で辺りが静まり返る。ラズヴィーンと呼ばれた修道女はそれでも特に慌てずそのまま問いかけた。

「主力の場所はやはり南ですのね? フン、遂に小賢しい真似をしたと思えば毎度、魔物の癖に門を目指すとは律儀な事……わかりましたわ。お疲れ様」

 そう言って労いの言葉を伝令の人にかける修道女だった。それを受けて伝令の人はどこかへ駆けて行く。そうして活気を失った宿屋の中で、そこに居た人の視線がこの修道女に集まる。確かにこの人がここの将軍なんだと実感できる状況だった。

 修道女は伝令を見送り、宿屋の中心までわざわざ移動して周囲を見渡す。皆の不安げな視線を受けて、それでも何のことは無いとでも言わんばかりに胸を張って不敵に笑う。それを受けてかそのうち周りの人も落ち着いて、それどころか変な熱っぽい雰囲気を帯びてくる。そんな異様な一拍の後、修道女は片手を握った形で振り上げて、ベイオルの将軍としての声を上げた。

「……さあ、できることはどうせ今まで通り……魔物殺しは英雄の仕事です! 臆病風に吹かれた者は要りません、わたくしと共に死ねる者だけ行きなさい!」

 振り上げた拳を開いて、皆の方へ突き出してそう叫ぶと突然周りの人が湧きたつ。たったそれだけの言葉で、さっきまでここで笑っていたおじさんたちが急に色めきだって、野蛮な声でラズヴィーンさんに続くように叫ぶ。皆昂っている。皆この修道女の放つ熱みたいなものに中てられている。僕もなぜか怯えより自分が奮い立つのを感じた。みんな我先にと飛び出そうとする。何故かはわからない、だけど僕もそれに続きたくなる。

 この人は普通じゃない。伝説の勇者や英雄も、おとぎ話の優しさから飛び出して現実に出てくればこういう紙一重の怖さがあるのかもしれない。人が駆け出すにつれて力強く「さあ、行きなさい! 行け! 行けッ!」と心の底から愉快そうに、それでいてどこか不吉な声色で叫ぶこの人の姿は周りをグチャグチャに焼き潰すように熱い。そんな風に思っていても、この修道女の皆を惹きつける力強い立ち姿と異様な熱気を沸き立たせる声のせいか何故か僕にも周りと同じような熱と叫びがこみあげてくる。

「こら、こっち向け」

 僕の前にアリオールさんが回り込んできて、僕に目線を合わせる。片手で僕の頬に触れる。僕を見て心配そうな顔をしていた。けれどアリオールさんの顔を見ているうちに僕の変な興奮も落ち着いてくる。そうしていたら今度は見つめてしまったことと、急にさっきまでの気分が気恥しくなって僕は視線をそらしてしまった。

「そうそう、それでいい。気をしっかり持つんだ。こういうのに中てられると皆おかしくなる。そうして何も怖がれなくなって無茶をする。戦いはその前も怖いんだよ」

 僕は頬に触れるアリオールさんの手に自分の手を重ねた。少し震えが残っていた僕の手もそうしているうちに元に戻った。僕もアリオールさんも手を離す。

「もう大丈夫です……大丈夫です。ありがとう、ございました」

 僕はまたアリオールさんを見る。そうすれば僕が平気だとわかってもらえる気がした。

「よし、じゃあ早く済まそうか。私やっぱりこういう空気が大っ嫌いだ」

 僕の様子を見て、笑いながらそう言う。アリオールさんのそんな表情を見ると、僕は安心できる。何があっても僕だって立ち上がれる気がしてくる。さっきの熱とは似ているけれど、もっと優しい活力みたいなものが湧く。僕はこっちのほうが好きだ。

 そうしているとラズヴィーンと呼ばれていた修道女がこっちを向く。

「終わりましたかしら。なら行きますわよ。ほら駆け足! 我々が遅れるなど許されることではありませんわ!」

 さっきの様子を引っ込めて、何もなかったかのようにそう言って僕たちを急かす。今にもお尻を叩いて走らせようかと言わんばかりの剣幕で迫られてしまえば僕たちもそうする他は無かった。僕たちが動けば我先にと駆け出していく修道女だったが、突然何かを思い出したように僕たちの横に並ぶように付いた。

「向こうに着くまでに言っておきますけれど、おそらくこの戦は持ちこたえなければなりません。リーヴからの援軍ですが、今も姿が見えないことから敵の痕跡を見つけた、と考えていいでしょう。それを辿り根城を掃討してからこちらに来ます。早い段階での挟撃は期待できませんわね。多少の長期戦は覚悟しておくべきですわ。今回の数が多いのはそれでこっちに逃げてきたのかも知れません」

「不愉快だなあ、ここの救援より優先することかね」

 走りながら説明される。なかなかの分量の言葉だったのにもかかわらずそれでも全然息を切らさないこの人はおかしい。これはそれに平然と答えるアリオールさんもか。もしかしたら僕の体力がないのか。

「それって、もう勝ちが見えているって、ことですか?」

 僕は詳しくないので聞いてみた。話すと僕は息が上がってしまう。

「いいえ。手負いの獣が恐ろしいのと同じでしてよ。魔物の癖に散りもせず、わざわざこっちに向かって来る以上、死に物狂いで来ますわ。今までで一番苛烈な攻め手でしょうね」

 ラズヴィーンさんの冷静な言葉だけれど、内容は僕の不安を煽る。

「大丈夫、私がいる」

 アリオールさんの言葉だ。それは僕だけじゃなくラズヴィーンさんにも向けられている気がする。とても力強く聞こえた。

「あら、それならわたくし、今度ばかりは楽ができそうですわね。ツキが回ってきましたかしら。強引な交渉をした甲斐があるってものですわ」

 そう悪びれもせず言って、そのままニヤリと僕を見た。

「食えない女だ」

 アリオールさんも今度ばかりはすごく嫌そうな素振りを隠さなかった。

 僕は急いで南門へ行きたいわけではなかったけれど、二人の速度に合わせれば嫌でもすぐに着いてしまう。そこは僕が初めて見る戦いの場だった。ベイオルの中からではよくわからないが、防壁の上から下に向けて必死に攻撃しているのを見た。

 門のある正面が一番魔物の集中しているところなのか、そこの防壁の上にはベイオルに詰めていた兵士やたまたまいた傭兵のような戦える人が重点的に置かれている。後は門の防備。とにかく開けられることを防ぐために人が多くいる。ドシンドシンと門を外から激しく押されているようで内側から懸命に押さえるためだ。バリバリと木をひっかくような嫌な音もしているからいつまで門が持つかはわからない。それに、防壁の上を守っていてもどうしても魔物に内側へ抜けられてしまうようで、そういったものを討つために地上にも控えがいる。

 それ以外は壁の上に人が配置される中、それなりに装備がしっかりした人がいて、その人たちも普段は下に意識を向けているようだけれど防壁を這い上がってしまった魔物が出るとそれを討ちに行く。どうしても、たとえ弱い魔物と知っていたとしても、戦ったことなんてなかった人にとっては目の前に迫った魔物は心底恐ろしいものらしく、ちゃんと戦える人とそうでない人に分かれてしまっている。そんなときの要が兵士や傭兵で、悲鳴を上げて及び腰になってしまったところを補い塞ぐようにしている。魔物が死ねば怯えていた人もどうにか防御に戻れるのはラズヴィーンさんの叱咤激励が利いているからかもしれない。それでも当然、しゃがみ込んで叫びながら動けなくなっている人や這いつくばるように右往左往している人もいない訳ではなかった。まあ中には防具もなしに薪割り斧とか木槌を振り回して嬉々として暴れまわっている人もいたりするのでこればっかりは性分の方が現れていそうだ。それに多くはなさそうだけれど弓の心得がある人がいて、ところどころで弓を引いている。一番落ち着いているのはこの人たちのように見える。

「えっと、私はどうする?」

 この良くない状況でもアリオールさんは奇妙なほど冷静だった。普段と違って感情の色が分からないこの雰囲気は何故か良くないものに見える。そんな様子でラズヴィーンさんの指示を仰いだ。

「防壁に上がって魔術を行使。狙いは一番敵が固まっているところ。あなたの魔術がどれ程のものかは知りませんが、何かの起点にはなるでしょう。下に急かされないで済むように……あそこ、あそこが兵士の力量が充実していますわ。そこからおやりなさい」

 アリオールさんの異様な様子もラズヴィーンさんにとっては取るに足らないものだったのか、気にも留めずそう言って門の左側、防壁の上を指さす。そこも激戦区ではあるけれど多分討ち漏らしが少ないところなのだろう。そこから守られつつ戦えということか。

 アリオールさんはうなずいて行こうとする。であれば僕はなにをすればいい? 今、僕に何ができる?

「僕にも槍を」

「抜けられたっ! そっちに行ったぁーっ!」

 僕も防壁で戦おうとした時、そんな叫び声が上がる。門の右側、防壁の上で暴れていた何かがこっちに向けて飛び込んでくる。

「アリオール! エリーを守りなさい! ……そこのあなた! 私の槍を!」

 ラズヴィーンさんは素早くアリオールさんに指示を飛ばしたけれど、それより早くアリオールさんは魔物に気付いて僕のそばに来ていた。僕を後ろに下げつつ魔物の方を向く。

 ラズヴィーンさんに叫ばれた人が槍を引きずってこっちに来る。たまたま置かれた槍の近くにいたのは瘦せ型の若い男の人だったので仕方がないのかもしれないけれど、あの槍はどれだけ重いのだろうか。その人は必死に運んでいるが足取りがおぼつかないでいる。

 魔物はと言うと……壁に押し寄せている小さいのではなくて、防壁の外に捨てられた死体にあった毛むくじゃらだ。生きているその様子は死体よりずっと大きく凶暴に見える。灰色で四つん這いの大きい獣のようだけれど口が裂けている。何で目が4つある生き物がいるのだろうか。そんな生き物が太い四足で歩きながらこちらの様子を伺っていて、槍を必死に運んでいる男の人が狙い目と見たのかそっちに向きを変え、飛びかかった。

 ラズヴィーンさんは速かった。毛むくじゃらの動きに気づくと男の人の方に駆けて槍をひったくると、そのままの勢いでぶつかって突き飛ばした。男の人ごと飛び込むように魔物の攻撃を避ける。そこに毛むくじゃらの爪が通り過ぎていく。避け切れなかったのか修道服の腕のところが裂けた。

「手出し無用!」

 アリオールさんが支援のために杖を構えたのを見てラズヴィーンさんは勇ましく叫んで立ち上がって悠然と槍を構えた。毛むくじゃらが掴みかかろうと手を振り上げる。信じられない速さでラズヴィーンさんはその振り下ろされた手を見切り、フッ、と一呼吸のうちに魔物の手のひらに槍を突き刺した。長大で、ひたすらに武骨なその見た目の通りの頑丈さとそれ以上に驚くべき鋭さが魔物の分厚い肉をものともせずに貫通していた。槍の『返し』で魔物の手は受け止められて、どんな獣よりも恐ろしい、聞くだけで心臓が潰れそうな耳障りな叫び声が上がる。体重差からかザリザリと靴底を地面に擦るようにして後退はしても、痛みで暴れるあの魔物の太い腕に全く屈せず受け止めたラズヴィーンさんの怪力ぶりに驚く暇もないほど、間髪入れずに刺さったままの槍を振り、そのまま力ずくで毛むくじゃらの手のひらを指の方へ引き裂いた。

「えぇいやぁぁぁ‼」

 ラズヴィーンさんが、その体格には似つかわしくないほどの力に満ちた掛け声とともに上段に構えた槍を渾身の力で怯んだ毛むくじゃらの頭めがけて振り下ろした。槍は魔物の頭の左側を捉え、その穂先をぐしゃりと頭にめり込ませても勢いはそのまま、敵の顎を地面に叩きつける。槍はそのまま顔面を斜めに引き裂き音を立てて地面にめり込んだ。

「弓、いつも通りです! さっきのに射かけなさい! 一匹も登らせるな!」

 間髪入れずラズヴィーンさんは叫ぶ。あれが通った後の被害が一番ひどい、あの様子だと死んでしまった人もいるかもしれない。

「まただぁーっ! また来ッ……ぎゃああ!」

 今度は別のところから毛むくじゃらが上がってきた。防壁の上で暴れている。何人かが投げられ、振り回す腕に弾き飛ばされて内側に落ちてくる。生きている人もいれば、そのまま動かなくなった人もいる。それでもこっち側にいる人は良い方だろう。壁の向こうに落ちた人がどうなったかなんて考えたくない。

 ひとしきり壁の上で暴れていた毛むくじゃらがそこから飛び降りてドサリとその重さを表す音が鳴る。壁際で次の獲物を品定めしている様子で、それを下で待ち構えていた3人の兵士が囲む。震える槍や及び腰な様子からさすがの兵士も怯えているように見えた。それでも引かないのは、僕にできることじゃない。その様子に気付いたラズヴィーンさんが魔物の方へ向いたが、ここからでは遠い。だからか、ラズヴィーンさん槍を逆手に構えなおして目一杯全身に力を込めた。

「くっ……! ふ、うぅっあぁあ‼」

 ラズヴィーンさんが空気を震わせるような叫びと共に、あの尋常じゃなく重そうな槍を全身全霊、必殺の勢いで投げた。そのまま真っすぐ敵を囲む兵士の間を抜けて壁際の毛むくじゃらまで飛び、大木が裂けるような轟音を立てて左目のそばに突き刺さる。硬そうな骨を突き破っても威力は衰えず、魔物の体勢を崩して壁に叩きつける。その衝撃で遂に頭が砕けたのか、毛むくじゃらは痙攣しながら死んでいる。さっきまで取り囲んでいた兵士たちが息をのんでラズヴィーンさんの方を向いた。魔物よりも、それを討ち取ったこの修道女の力に恐怖し、同時に縋っているようだった。この人は本当に人間なのだろうか。こんな状況なのに僕も変な声が出そうなほど現実離れしたものを見てしまった気分だった。

「くっ、はぁ……ふ、次は、どこですの。わたくしが相手をしますわ」

 人間離れした強さも体には負担が大きいのか、槍を投げた後の俯き気味の姿勢のままラズヴィーンさんは大汗をかいて少し苦しそうに宣言した。頼もしい言葉とは裏腹に身体は震えて、呼吸も荒い。けれどそれでも意思が折れていないようだった。大きく息を吸い、すぐに息を整えて力いっぱい背筋を伸ばし、門の外の魔物へ向けるように顔を上げた。いまだに続く魔物の襲撃なんてものともしないというかのような立ち姿は僕を含め、皆を安心させて勇気づけるには十分すぎて、周りの人の闘志まで高めるものだった。

 毛むくじゃらを囲んでいた兵士の一人が死体から恐る恐る槍を引き抜き、まるで神か悪魔に供物をささげるように槍を運んできた。手練れそうな兵士でも重い様子だった。

 しかし、それを受け取る前にまた毛むくじゃらが来てしまった。今度は物見櫓の屋根の上まで一気に駆け登って、そのまま飛び込んできたようで誰かに被害が出た様子ではなかったが、近くにいるこの修道女に何かを感じ取ったのか彼女には目もくれずにそのまま僕の方に来る。どこか怯えているようにも見えた。かなりの高さを下りてきても怪我ひとつない様子で、ひときわ大きい毛むくじゃらの金切り声のような叫びが近づいてくる。

 ラズヴィーンさんが反応する前にアリオールさんが呪文を唱えていた。周りの喧騒が激しく、よく聞こえない。そして突然輝く光が杖の指す先に集中しだして、空中にまばゆい光の槍が浮かぶ。杖の頭を魔物に突きつけると空気が軋む衝撃と今まで聞いたことのない頭に響くような音をたててそれは飛び、光に目を眩ませた毛むくじゃらの顔に突き立つ。そして胴体までがメキッと嫌な音を立てながら急激に膨れ上がり、光が顔面を抉り抜いた穴から噴き出すように漏れ出た。

 それで死んだのか、駆け寄る勢いのまま倒れこんだ体制で転がり、止まる。魔術の光はもうない。その代わり内側がめちゃくちゃになったのか、毛むくじゃらの抉れた穴から大量の血があふれ出る。他からも血が滲み出ているようだ。

 一瞬空気が凍り付いたようになる。ラズヴィーンさんも化け物じみているけれど、今起こったことは恐ろしい魔術師の神秘を強烈に叩きつけるものだった。僕の前にいるアリオールさんは……背中を向けていてもわかるほど血も凍るような気配を纏っている。僕はこの人がこんな魔術を使えるとは思っていなかった。だからか僕の表情は驚いた形で固まってしまう。それでも不思議と僕はそんなアリオールさんの姿に憧れるような気持ちにはならなかった。むしろそのまま動かない様子が何故か悲壮なものに見えてしまい、どうにも落ち着かずアリオールさんの傍に思わず寄ってしまった。

 アリオールさんは杖を構えたまま、自分が作った死体を見据えている。強く杖を握りしめて強張っていた手に僕は触れた。恐ろしい魔術の主に相応しいほど、今のアリオールさんの表情には冷徹なまでに感情の色がなかったけれど、力んだ手は冷たく強張っていた。

「大丈夫。まあ、こんなつもりじゃあなかったんだけどな」

 僕に気を遣うように力を抜いてそう言うアリオールさんだった。けれどその様子がさらに僕の不安を煽る。今の様子に何か諦めのような嫌な気配を見てしまった。

「でも」

「このままじゃまずいね。……私が、終わらせよう」

 この人はこんな時でもまだ僕を気遣うつもりなのか、深刻な様子でも僕の肩に手をかけて押しのける。邪魔だ、というより自分から離れてほしそうに。その手は優しかった。

「今のは……、あなた」

 ラズヴィーンさんがさっきの光景から我に返って驚いている。この人が驚くなんて、さっきの魔術はよっぽどのことなのだろうか。

「それは後、やるべきことをしよう。とっておきを使うから頃合いを見て門から離れるように言って」

 アリオールさんの顔は見えなかったが、なんだか陰鬱な声だった。そのまま門へ進んでいく。防壁の上では相変わらず防戦が続いているが、地上の方では人が避けてアリオールさんの前に道ができる。まるで不気味なモノが通るような扱いだ。なんだかそれが自分のことのように腹立たしかった。でもそんな気持ちも再びの驚きで置いて行かれる。アリオールさんの足元に円と模様が浮かんだと思うとそのまま物見櫓の屋根の上まで何かの力に引っ張り上げられるように素早く飛び上がった。この人はそんなことまで出来るのか。下の人たちもそれを見てどよめいた。

 屋根の上、全部を見渡せるところに立つと、両腕を広げ何かを唱え始める。

『——、~~、————、~、~~~、……』

 僕には背中しか見えないし、声が聞こえるわけでもないのに異様な恐怖が心に湧き始める、一言、また一言と呪いの言葉が紡がれていくのが嫌でもがわかる。言葉によってあたりの空気さえもが恐怖に軋んでいるかのような、音のない叫びによって夜闇を歪ませるような気配が世界を覆うように広がっていく。ここまで距離があるにもかかわらず、その気配がじわりじわりと広がって僕の身体を撫でていくのが恐ろしい。

 アリオールさんの胸元から青い光が溢れるように沸き起こった。右手の杖を正面に構えるとさらに光が強くなる。多分この光の源は前にあの人が大切なものと言っていた首飾りだ。あれがあんな光を放っているんだと僕にはわかった。僕はあれが魔術の品だと知っているから。

 光が強くなるにつれて、空気が震えるような違和感がさらに周囲に強く満ちる。光そのものは魔術師のところにありながらも、世界があの光に浸食されていくような感覚。異常な気配に僕の周りではどよめきが怯えに変わりつつあった。

 他の人にとっては全く知らないことが起きている。それも世界の常識を塗りつぶすように。だから怯えるのも仕方がないのかもしれない。でも僕にはその光を通してアリオールさんの抱えるものの重さとか、もっと言えば不幸の一端があふれ出ているように見えてしまう。さっきの様子からアリオールさんは、こういうものは好まない人なのだと思う。その後ろ姿でさえ必死な気配がにじんでいて、そんな姿がどうしても僕の心を不安で乱す。

「落ち着きなさい。落ち着きなさいったら!あれは味方、味方が魔術を使う所よ」

 ラズヴィーンさんが必死で戦いに集中するように檄を飛ばす。状況が見えにくい防壁の上はいくらか混乱が少ないとはいえ、魔術への恐怖にたじろいでいるうちにいくらか魔物が入り込んでしまった。それらを槍で突き刺し、叩き潰しながら味方に叫んでいる。

 魔物の方も僕たちに襲い掛かる、と言うよりさっきまでとは違い防壁の上の人には構わずに魔術のただならぬ気配に急かされてこっちに逃げ込んでいるような必死の素振りで内側になだれ込もうとしてきた。

 ラズヴィーンさんの叫びでどうにか正気に戻って戦いに戻る人もいれば、まるで火に惹かれる虫のように釘付けになって光を眺めるままの人もいる。魔術の恐ろしさは人をおかしくする。この光は奇跡にも、もしくは破滅の始まりのようにも見える。だから神秘は人を捕らえて離さないのかもしれない。

 アリオールさんが手の杖を外の魔物へ向けた。胸元の光と同じものが、魔物が群れているはずの防壁の外に広がる。向こう側から魔物の悲鳴が聞こえる。

「皆、門から離れなさい!」

 ラズヴィーンさんが叫ぶ。それで門を押さえていた人たちが一瞬ためらったが、次の瞬間、門の隙間から青い光が漏れだしたのを見て、皆慌てて下がった。

 外の光が一瞬だけ強くなり、今度は燃え盛る青黒い炎の恐ろしいうねりが音もなく空まで伸びる。その青く、夜のように深い光の他には一切の色のない暗闇に変わる。空の星々の光さえすべて失せたような、夜より深い闇が辺りに広がっていた。

 門の外は青く揺らめく光の色があるのに、その内側は光の後、打って変わって辺りが暗くなる。防壁に近い篝火はどれも火が細くなり、それ以上に照らす範囲を減らしている。防壁の内側にはいくつも明かりを灯していたはずなのに今は近くの人の顔さえわからないほど辺りが暗い。外ではそれに共鳴するように暗い力が蠢く。

 それに寒い。いつの間にか辺りがすごく寒い。一気に真冬か、それ以上の身を切る寒さが纏わりつく。吐く息も凍りそうな、なんて言葉も生易しいほど口を開ければ喉まで裂けるような冷気。もしかしたら外の青い火のせいかもしれない。あれは多分、光と熱を吸って燃えている。いつの間にか外から聞こえていた魔物の悲鳴がまるで聞こえない。

 壁の内側や上もひどいものだった。もはや全員が正気を失ってこの現象に打ちのめされている。内側はまだしも上の状況は悪い。悲鳴を上げながら頭を抱えて伏せていたり、あまりの冷気に顔を押さえてうずくまる人もいれば、中にはそこにある光景に慄いて、寒さにガタガタと震えながらへたり込んでしまう人までいる。

 アリオールさんが右手の杖を下ろした。防壁の外を向きながら、左手で胸元を強く押さえて縮こまり、肩を震わせる姿が苦しそうに見えた。それで外の異常な現象もゆっくりと収まっていき、元の風景に戻る。篝火さえ燃えながら光を食われ続ける暗闇も、命も凍りそうな冷気も幻だったかのように去っていった。今はもう、暗く青く燃える地獄の風景はそこにはない。何事もなかったかのように消えてしまった。

 アリオールさんはようやく物見櫓の屋根から降りてきた。登った時と逆に地上へ飛び下りるが、地面のほど近くでさっきの同じ文様が浮かび、ふわりと減速しながら着地する。そのままこちらへ歩いてくるが、最初は案外しっかりとした足取りに見えて、やはり無理をしたのかよろめいてしまう。僕は慌てて駆け寄って支えようとした。

「ありがとう、エリー。怪我はないよね?」

 杖を支えにしつつ、そばに寄った僕の肩に手を置く。普段とは違う、弱弱しい力の萎えた手だった。そしてひどく青い顔をしている。こんな時どうすればいいか僕はわからないまま来てしまった。だから何かを考える間もなく支えるように抱きかかえるようにするしかできなかった。僕の方が少しだけ背が低いから下から支えるような体勢になってしまったけれど、それでも消耗しながら震えるように強張ったアリオールさんはそのまま僕にもたれかかるように身を預けてくれた。

 そのままの体勢で少しの間僕たちはいた。周りでは魔物の討ち漏らしを片付けているようだった。危険かもしれないとも思ったけれどラズヴィーンさんの指示なのか、僕たちの周りに魔物は来ることなく兵士や町の人に倒されていった。少ししてアリオールさんの様子も少し落ち着きを見せて、僕から離れた。

「もう、平気なんですか?」

 何度か頷いたが、まだまだアリオールさんはうつむいたまま。本調子には見えない。片手は僕の肩に置いたままだ。身体の負担もさることながら、精神的にも消耗しているように見える。心配で頭がいっぱいになっているうちに、いつの間にか周りから歓声が上がった。ラズヴィーンさんも一緒になって何やら叫んでいる。これは、どうやら僕たちは、この戦いを乗り切ったらしい。

「あなた! あなた! やりましたわね! でもさっきのは? いったい何をしたんですのよ」

 人が集まって騒いでいた中をかき分けてラズヴィーンさんがやってくる。騒がしく叫びながら、いかにも嬉しそうな表情を浮かべて。でも僕らに気付いた人たちが徐々に静まり返る。なんだか敵を見るような、それか化け物でも見るような視線が向けられる。ここにいる全員と言う感じではないけれど、なんだか怯えているような、ここにもまだ問題が残っていると言いたげな雰囲気が漂っていて、そんな様子でこっちを睨む人は少なくなかった。ざわめきだして、改めて武器を握りしめている人までいた。魔術師がいい扱いを受けないというのはこういうことか。いくら誰かのために必死な思いをしても、理解できないものを怖がって拒絶するのは人の当然の行動なのかもしれない。今の光景で僕はなんとなくそれがわかった気がした。

 アリオールさんの顔を見てしまった。俯いたまま目を閉じた無表情だけれど、僕にはそうは見えなかった。何となく無感動な落胆と言うか、そんな諦めの様子が見て取れるせいでこの人はどれだけ力を尽くしてもいつもこうなのかもしれないと思うと、僕はこの状況に耐えられなかった。僕は味方でなければならない気がした。

 そんな風に意気込んだところで何もない僕には何もできやしないのが歯がゆかった。アリオールさんに背中を向けて、この人を僕の背中に隠して、周りの人だかりの正面を睨みつけるしかなかった。本当はいろいろ言いたかった。ここから逃げようと思えばできたかもしれないのに、それでもこんなに大変なことを引き受けて、あんなにつらそうにしていた人にする仕打ちじゃない。でも僕はそんな感情を纏められなくて、どうしてか目に映る景色がにじんでしまっても、そうやって自分でも頼りなくて仕方がない壁になることしかできなかった。

「……」

 ラズヴィーンさんが僕たちの前まで近寄って、止まった。くるりと後ろに向き直り、僕たちに背を向ける。その小さな背中が僕にはなんだかとても大きく見えた。僕と、アリオールさんを守るように立っているかのようだった。

「この戦い、私たちだけでも勝利を得られたかもしれませんわ。しかし、ここにいる魔術師と、彼によって我々は今、生きています。彼らのおかげで今があるのです」

 僕らの方を見る人たちにそう言う。それを聞いて一瞬みんなが黙る。それで多少はこの雰囲気が収まってくれたけれど、それでも攻撃的な気配が完全に消えはしなかった。

 そのうちにラズヴィーンさんの様子が変わった。僕にはわからなかったけれど、何を見たのかラズヴィーンさんを正面にいる人たちが怯えて動きを止める。そしてラズヴィーンさんは槍を両手で握り締め、そのままゆっくりと槍を振り上げてたまたま近くに転がっていた急ごしらえの槍を収めていた空樽に向かって振り下ろした。ガァン!と大きな音を立てて樽がはじけ飛ぶ。槍の威力に耐えかねてタガが千切れ、木が跳ね飛んだ。

「不愉快」

 槍を振り下ろした体勢で俯いたまま、僕にしか聞こえないような程に低く小さい声でそう呟くと、今度はするりといつも通りのピンと張った姿勢になって皆の方を向いた。

「異を唱えたいのなら、武器を取りなさい。わたくしは彼らの槍となりましょう」

 静かな言葉だった。けれど、石突を地面に突き立てて、槍の穂先を天に向けて堂々と立つその姿が僕たちと初めて門の前で会った時よりも、交渉の時よりも、アリオールさんと揉めた時よりも、何より戦いの最中よりも恐ろしく、そして頼もしかった。後ろ姿なのに、ヒリヒリするような迫力がある。現に周りの人は声が出せないほどに竦んでいる。握っていた武器を下ろすだけじゃなく、中には手放して後ずさりする人までいた。多分、それでも僕たちに何かをしようと武器を取る人がいたら、この人は殺しただろう。そんな確信が持てるほどラズヴィーンさんは激怒している。それに人だかりも気づいて何も言えない様子だった。でもそれも一瞬だった。

「功労者に向ける振る舞いではありませんわね。自分が勇者や英傑だと胸を張りたいのなら、武功を挙げた者に称賛を惜しんではいけませんわよ?」

 今度はさっきまでの凶悪な威圧感を引っ込めて随分と親しい語り口で周りを宥める。その言葉で皆はようやく勝利を思い出すように再びにぎわい始めた。僕らに向いた命の危機を感じるような気配はもうない。ころころと移り変わる状況に付いて行けず、人だかりの中心にいながら、感情的には外側に追いやられているような雰囲気だった。

 別のところでは思い出したように怪我人の介抱や生死の確認を続けている。よせばいいのに僕はアリオールさんの様子を伺ってしまった。そうしたらアリオールさんは顔を上げて僕を見て、ニッと笑って見せた。そしていつもみたいに片手の杖で地面を突いて、腰にもう片手を置いてから、修道女のさっきの姿勢をまねるようにわざとらしく胸を張る。僕に心配させまいとしているのがわかって、つらい。

「戦いはひとまず終わりました。ただ、どれほど入り込まれたかは不明です。二人一組では不足ですわね。三人……五人でもいいですわ。隊を組んでベイオルの中を警邏します」

 そういってラズヴィーンさんは今後の指示を出す。周りも浮かれた雰囲気を引っ込めて何人かでまとまり始めた。

「あなたはあっち、そっちの隊は取り急ぎ西に、あなた方はここから一度北へ向かってくださいまし。東側へはあなた方と……そこの二人、あと、あなた。こら、そこの二人、逃げないの、行きなさい。ひとまず他は何かあるまでここの後始末です。さ、始めますわよ」

 ラズヴィーンさんはその場にいる比較的元気そうな人に仕事を振り分けていく。皆それに素直に従うようだった。戦いが終わってもこの人はここの長のように振る舞い、皆それを認めている。それだけ信頼されていると言うべきか。あるいはこういう時にこそ人には寄る辺が必要で、それを引き受けられる人は少ないという証拠なのかもしれない

 それにしても実はここの状況は悲惨だ。遺体は少ないけれど、確かに人が死んでいる。さっきから死んでしまった人の家族か、知り合いかが遺体に縋ったりしている。すすり泣く声だけではなく、悲痛な叫びも無いわけじゃない。怪我人もいまだ運びきれていない。

 ラズヴィーンさんはその景色を見渡して目を瞑った。僕たちに背を向けて、そして何かを振り払うようにゆっくりと一度だけ足を踏み鳴らした。案の定、その怪力のせいで土の地面でもダン! と大きな音が鳴る。そのせいで周りの視線がラズヴィーンさんに集まってしまったが、様子を見て何かを察したみたいに皆、目を逸らした。

「先ほどは、私の配慮の足りなさで、不快な思いをさせましたわね」

 ラズヴィーンさんはその後僕らの方を向き、疲れた様子で申し訳なさそうに言う。さっきの様子と今の表情を見てしまうととても責める気になんてなれない。アリオールさんも同じなようで、片手を振って気にするな、みたいにしている。

「この辺りの魔物は片が付いたでしょう。魔術の光が消えた後、物見の兵士は魔物が壊滅したと、生き残りも散っていったと叫んでいましたから。でも外を確認しないといけませんわ。あなたたちも付いてきなさい」

 修道女はそう言って僕たちに同行を促す。断るかと思ったけれどアリオールさんは無言で引き受けた。二人はそれこそ散歩に行くような気軽さで門へ向かい、僕はと言えば外が不安で仕方がなかった。

 そうして、僕たちはラズヴィーンさんに付き添って外の様子を見に行くことになった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る