第7話 新たな町は取り込み中

「しまった、まずい、どうするかな。ここ以外だとリーヴまで……いや、あっちも行けるかわからない。行くしかないか。いまさら戻るのも……。師匠なら、うぅん……」

 アリオールさんは悩みながら地図を開いて立ち止まる。

 僕たちは丘を下り、それほど深くはなかった森を抜けると平原に出た。そこから眺めれば、さらに先にベイオルが見える。ここからなら日が落ちる前に着けるだろうとその時は呑気に考えていた。

 昼時に差し掛かった頃にしとしとと降り続いていた雨はやっと止んだ。そこまではよかった。今までの雨のせいで周りの状況を掴み取る手がかりが消されてしまったために異変に気付けず、それでどうしてもこの先の対処に悩むことになってしまったのだ。

 最初の違和感は森を抜けた先を行ったところで変な形の足跡があるのを見つけたことだった。街道があるという西の方から来て、ベイオルに向かうようだった。

 雨でできたぬかるみにかなりの数の足跡が重なっていたので初めは大勢の人がここを歩いたのかとも思ったけれど、ところどころにあった形の残っている足跡がここにいたのが人間じゃないことを物語っていた。

 周囲には何もいなかったので警戒しつつ進んでみると、町に近づくにつれて僕たちはようやくベイオルに何かあったと知ることになる。無秩序に残る謎の足跡、今は静かだけれど町を囲む防壁の外に何かが散らばり、地面には何かが刺さっているように見える。この景色に遭遇してしまったので、僕たちは今後の方針を決めるために立ち往生してしまったのだった。

「何も聞こえなかった……。私たちが山に居た頃? じゃあもう平気……、どのみちここ以外は遠いし、でも旅の準備は難しいかな……」

 アリオールさんが今後を決めかねている。ちなみにここから北にリーヴと言う町があるらしい。ただそこに行くには西側の街道が気がかりだった。足跡が西から来ているように見える。僕はここにいることも危険な気がしたので、アリオールさんに言った。

「とりあえず行ってみませんか。ここにいても危ないかもしれませんし。もっと近づけばそれはそれで分かることもあるかも」

 僕の提案を聞いてアリオールさんはうんうんと唸りながら難しい顔で少し考えこみ、そして「わかった、行こう」と決めた。それでも何故か不安げな表情で僕をじっと見て、何か言うと思ったらふいっと顔を逸らして黙り込む。どうにも心境が分かりにくい。今後を思ってのことだということにしておきたい。

「何かあったら一目散に逃げる。引き返すんだよ? もしダメそうなら私は置いて行っていいから」

 やはり僕を心配してくれているようだ。でも冗談じゃない。はいそうですかとは言いたくない。この人がいなければ僕の旅は続かない。ならばそうやって荷物になることを良しとはできないと思う。それに、そんな薄情な真似は僕だってできないし、したくない。

「僕が足手まといなんですから、その時は絶対置いて行ってください。絶対です、絶対ですよ」

 言い返すようにそう強く念を押してしまった。言った後でなんだか空回りしている自分が恥ずかしくなる。それは別として何も起こらないでほしい。そう願わずにはいられない。アリオールさんは僕の言葉で一瞬呆れた目をしたような気がした。でもそれをすぐに引っ込めてニヤニヤしながら僕の頭をぺったんぺったん叩く。

 そんな決意表明をしつつもアリオールさんの奇行は無視しながら、ベイオルへ更に近づくにつれて何があったかわかる。踏み荒らされた畑。打ち捨てられた死体。やはり足跡の正体は人間じゃなかった。アリオールさんが言っていた『魔物』の一種だった。獣じゃない。人間より小柄で、頭が大きく、尖った乱杭歯のある口はせり出している。それに毛が無いのに生物のような肌をしていない、萎びた干し肉のような質感の生き物の死体を僕は初めて見た。そんな死体がたくさん転がっていた。数も十や二十ではない。その中に少しだけ、ボロボロの斧や鎌なんかの農具を握ったままの死体もある。人間以外で道具を使う生き物がいるなんて。

 死体の山の中には変に大柄な死体も混じっていたけれど、それらはもっと獣じみた毛むくじゃらな体をしていた。こんな獣、僕は知らない。幸いだったのは一匹も生きていなかったことだった。

 獣の臭いとも違う、腐ったようで錆びたようでもある、そして糞のような臭い。人間ではここまでになるかわからない、そんな臭いが辺りに漂う。ベイオルに近づくと臭いは強くなった。僕の喉にこみあげてくるものがある。

「ああー、魔物の襲撃、西の足跡の終着点か。山越えの道で正解だったかもしれない。でもこれ状況次第では私たち危なかったな」

 僕の知らないことを言う。どうにもアリオールさんは安全な道を探して僕たちが通った道を選んだみたいだ。もし選択を間違えていたら……と思うと背筋が凍る。予想もしないことが起きていて、たまたま回避できただけだった。

 そんなことを考えているとベイオルの門の前に着く。壁の傍の地面に刺さっていたものは矢と粗末な槍だった。槍は乱雑に積み上げられた魔物の死体にも刺さっている。そんな様子は外だけで、中で戦いがあるわけでもなさそうだったし、もう魔物に落とされた後、と言う気配でもない。門が開いていて人が出歩いているのが見える。武装した人が多い。安全ではないらしい。門の上の物見櫓から誰かがこっちを見ている気がする。なんだか目を合わせるのが怖くてサッと視線を落とす。そうしながら門へ進むと突然、大声が飛んできた。

「あなた方、こんな時に何の用事でここに来ましたの!」

 ずいぶん大きな声だった。それでベイオルの中の人の視線もこっちへ向く。居心地が悪い。でも弱いところは見せられない。顔を上げる。開いた門の中央に人がいる。声の主は意外なものだった。

 高い声だったので女の人だとはわかっていたけれど、ほとんど僕と変わらないような年のころの女の子だった。灰色の修道服、厚ぼったいフード、教会の人間だと思う。その質素な服に返り血のような染みがいくつもあるのは異常だけれど、それよりも、この女の子が何故か身の丈よりもずいぶん長く大きい槍を持っていることに比べれば些細なことかもしれない。全部が鉄でできているような大槍だ。

「このわたくしが聞いております。あなた方は何者で、何の用でここにおりますの!」

 僕たちがちょっと面食らって答えられずにいると、槍の修道女はのしのしと門の前に出て、物語の英雄のような貫禄でさっきより強い口調で僕たちに叫んだ。「この」の部分が妙に強調された気位の高そうな言い方だった。修道女風の見た目と行動がすごくチグハグな様子に見えるけれど、異様な気迫みたいなものがある。槍をこっちに向けていないところを見ると、問答無用という感じではないのかもしれない。僕は説明するために前に出ようとしたらアリオールさんの手がすっと僕を遮って止められた。アリオールさんがその手の指で上を指す。僕たちはさっきの門の上の物見櫓から弓を向けられていた。それを見た僕は声がのどに詰まったようになって身を竦ませてしまった。

 僕のそんな恥ずかしい素振りを見て察したのか門前の修道女は「はぁ」と首を振った。その後すぐに櫓の方を向いて叫んだ。

「何をやっておりますの! 誰がそんなことを許しまして!」

 その叫びで弓が素早く引っ込む。なにかが倒れて崩れる音がする。多分上の人も叫び声に相当に慌てたらしい。僕もまた声に圧されて「う」と恥ずかしい声がでてしまった。

「私たちは旅の途中。目的地は王都の西、フィードレー伯領さ。ここにはその途中で寄った。来たのはグラムから。まさかこうなっているとは知らなかった。」

 そんなことも意に介さない涼しい様子でアリオールさんが答えた。

「南側から来たのでしょうか、山越えの道ですわね。街道からならここまで来るのは諦めますもの」

 どうにか納得してくれる兆しが見えた。

「それで? 何者かはまだわかっていません。姉弟には見えませんものね……。この忙しいときに浮浪民だの野盗だののお世話は御免です。まあそうは見えませんし聞いたところで仕方無い事かもしれませんけれど、どこの誰かは白状なさい」

 腰に片手を当てて、握った槍の石突を地面に突き立てて僕たちを睥睨する。

「あー……ちょっと、説明しにくいんだけど私はあのー、魔術師で。それでこっちは旅先で知り合った少年。魔術師の弟子入り志望。私の師匠に引き合わせる途中です、はい」

 アリオールさんはそう言ってから僕に促す。ほとんど説明されてしまったので僕はこくこくとうなずくことしかできない。

「ふぅん、あなた、やはり魔術師ですか……。まあそんなのはどうでもいいですわ。それよりもあなた、正気ですの? 知り合っただけの平民をはるばる西まで連れて行くなんて。何日かかるかわかって言っておりますわよね?」

 また疑いの目を向けられる。

「うん、自分でも奇特なことをしている気はする」

 そうアリオールさんは言った。

「あなたまさかどこかの名士の子息をかどわかして……とかそんなんじゃないでしょうね。もしそうならここで果てなさいな」

 修道女はアリオールさんに槍の穂先を軽く傾ける。そして僕の方を向く。説明次第では……ということか。そんな様子にたまらず僕は誤解を解こうと必死になってしまった。

「そんなんじゃありません! アリオールさんはそんなことしません! 僕の無理を聞いてくれているんです。まだ会って短いけど……そんな人じゃありません!」

 思わず強い言い方になってしまった。アリオールさんは笑って気まずそうにしている。ああもう! 僕はまたやってしまった! 自分の顔の色は今誰にも見てほしくない。恥ずかしくなって俯く……アリオールさんやめろ! 肘でつつくな! 思わず睨む。僕は涙目だ、多分。

「……なんとも毒気を抜かれますわねえ……、まあいいですわ。中に入りなさいな。歓迎はできませんけれど。とにかくまだ安全ではございませんの。ほらはやくこっち!」

 僕たちを急かす。いつの間にか槍の穂先は上を向いている。

 修道女は門のそばにいた兵士に槍を預けてから僕たちを案内する。槍を受け取った兵士がよろめいて落としそうになっているのを僕は見てしまった。ベイオルの中に入ってしばらく歩いた後、僕たちは宿屋に通された。「どうせお疲れなのでしょう? 先ほどのお詫びですわ」とここまで連れてきてくれたところやさっきの武器の向きに慎重な様子から、この修道女は悪い人ではないのかもしれない。

 着いた宿屋は何とも言えない重い雰囲気だった。人が多くいるけれど、酒と歌と賑わいの宿屋の感じではなく、魔物の襲撃に備えた詰め所に使っている様子でそこにいる人たちも疲れた様子だった。それでも僕たちが来れば主人が応対してくれて食事が出てきたし宿も取ることができた。「今度落ち着いた時にまた来てくれ」と言ってくれるくらいに愛想のいい人だったし、大変な時だから簡単なシチューしかないと言っていたけれど、それでもとてもおいしいものだった。

 僕たちが食事を摂ろうとした時、宿屋に誰かが駆け込んできた。それを見た修道女は入り口まで行き、その人と何かを話したようだった。あまりいい内容ではなかったのか眉間にしわを寄せるような渋い顔のまま僕たちのところにやってきて、テーブルの反対側の椅子を引いてドスンと腰を下ろした。そのしぐさも腕を組んで座った姿勢も上品さとは程遠く、修道女という存在にあまりに似つかわしくないのでもはや冗談のように見えた。

 それでもようやく少し落ち着けたからか、さっきまではピリピリしていてそれどころじゃなかったのでよくわからなかったこの修道女のことを見る余裕ができた。アリオールさんよりは背が低い。僕と同じくらいか。そして長い見事なまでの金髪。フードに収まらない部分が見えていた。それにしてもきれいな顔立ちをしている。さっきまでの豪傑ぶりが信じられないほどにかわいらしい。ただ左目の下から顎まで走る斜めの傷跡や凛々しい太い眉のせいで、大きな丸い青色の瞳と柔らかそうな輪郭の癖に全体の印象は戦士か猛獣のような粗野さがある。修道服のせいで体系はちゃんとわからないけれど、骨太な体の厚みと身のこなしに力強さを感じる。……あと胸が大きい。とても。……そして多分お尻も。

「くつろげ、とは言えませんわねー」

 アリオールさんを見れば既に食べ始めていた。それで思い出して僕も食事に手を付けると何故か修道女は満足げな表情で微笑むと少しだけ居住まいを正してから言葉を発した。

「わたくしが現状を説明してあげます。今ベイオルは西の街道方面から魔物の襲撃を受けています。襲撃は散発的、出所不明、今のところ決まって夜間に。一度の規模も大きくはありませんの、大体二日前から続いております。ただ正直言って、数は今まで全部合わせると異常と言う他はありませんわね。いったいどこに隠れていたのやら」

 アリオールさんはそんな話も我関せずといった感じで食事を続けるけれど、さすがに僕もそうでは失礼かと思って手を止めると、修道女は食べながら聞けとでもいうように手を振って状況説明を続けようとする。

「あなた方はたまたまその切れ間に来ましたのよ? 運が良いですわね」

 そう言ってから話を続けようとしている様子の修道女だったが、そこでアリオールさんが突然口を挟んだ。

「ちょっとごめんよ。その前にここの長は? さっきと今の様子だと、なんだか君も戦いに関わっているようだけれど修道女だろう、何かあったのかい?」

 アリオールさんのその言葉で修道女の様子が変わった。

「当然、長はわたくしではありませんわ、本来はそう」

 急に不機嫌な様子になる修道女に僕たちは顔を見合わせる。アリオールさんには「お前は長か?」と聞いたつもりはなかったはずだ。それなのにこの言い方、何やら事情がありそうなので黙って見ていると取り繕うように小さく咳払いをしてから再び説明を続けた。

「北西にリーヴと言う町があってね、そこを治める代官の一族がおりまして、ご子息に家督を譲った老人がたまたま後任がいなかったここ、ベイオルの代官に一時的になりましたの。一度の襲撃はここの戦力で凌いだものの、二度目が続いたとあっては魔物の動向として普通ではありません。それで伝令を出すという時分にあの腰抜け、守備の責任を放り出して自ら出て行ってしまいましたわ。自分の側近を連れてね。日中とはいえどこにいるかもわからない敵を掠めるようにして西へ行かなければならないので危険ではあるのですが」

 呆れた様子でそんなことを言う。

「それで仕方がないから教会の司祭が代わりに避難誘導をしていましたけれど、混乱の中で魔物に入り込まれましてね、不慣れなのにもかかわらず民を助けようと誰よりも勇ましく戦って戦死されましたわ。それで次は私が」

 今度の司祭を労うような、敬意を払うような口ぶりにこの人の人柄が出ているけれど、状況は深刻なのに気にしていないように平然と続ける。ここも安全じゃなさそうだ。

「それでどうして君が出てくる……でも、まあ、その、よく受け入れられたよね、戦いに混ざるのも大変だっただろうに」

 アリオールさんが感心した様子で言った。

「そうでもないですわ。初戦に出ればこっちのもの、人というものはそうやって先頭で力を示した者に自ずと付いてくるものです、特にこういった時は。誰もが何かに縋りたくなるものですから」

 ふふん、と得意げな様子で話してくれた。それでさすがのアリオールさんも面食らった様子で言葉を出せないでいる。修道女が戦いに出るという異常事態をなぜ周りが許したのか、だとかそれで何もなかったのはどうしてか、とかそういう疑問は僕の中にもあった。だけれど話の内容はともかく修道女の初めて見せるそんな様子はなんとなく親しみやすかった。でもここで修道女の表情が変わる。まるでどこかの将軍みたいな顔だ。僕は将軍なんて見たことないけれど。それでも雰囲気と言うか、空気が変わったのはわかった。

「それでここからが本題ですのよ。ともあれ伝令はリーヴに向かい、そこに訳あって詰めている領主の騎士団を連れて魔物の根城を落とすか、ひとまずこちらに駆け付けるでしょう。どちらを優先するかはわかりませんけれど。ともあれわたくしたちはそれまで持ちこたえる必要があるわけです」

 修道女の状況説明はあまり明るい未来を示していないように思えた。本人はあまり思いつめた様子ではないけれど実際はどうなのかわからない。

「もし万が一、それまでに襲撃があれば助力がほしいのです。無理にとは言いません。しかし今協力すると約束してくれたなら、これから先の旅の準備を支援しますわ。見たところ余裕があるようではありませんし、今すぐ出発できないのならここで震えて待つより有意義だと思いませんこと?」

 今度は値踏みするような、そんな印象を受ける言い方で提案される。アリオールさんも凛々しい顔だけれど、それとは違う不敵さを感じる顔で挑発的な言葉を入れながらの交渉だった。対するアリオールさんは少し困っているようだった。

「その前に、君の一存で私たちに報酬を出せるのかい? どこから出すのさ」

 確かにここで何もしないのも選択の一つだと思う。それが正しいかということはひとまず、危険を冒すだけの理由に噓があっては良くないというのには同意できた。

「ふん、まあ仕方のない疑問ですわね。でも大丈夫。わたくしの決定に異を差し挟める者はここに居りません」

 どこからくる自信かはわからないが、確かに、間違いなくそうなるという謎の確信をもって修道女はそう宣言した。それでどうしてかアリオールさんは何かを察したようで片手を額に置いてうんざりした様子を隠さない。それで、アリオールさんの決断を強いるためか修道女は更に言葉を続けるようだった。

「そう、ならこれでどうかしら。……あなたの連れの安全は保障しましょう。この状況でも最大限。死ぬ時は死ぬでしょうけれど、それは何をしようが同じでしょう?」

 ちょっと待った、なんてことを言うんだ。


「……仕方ない、私にできることもあるだろう。でもエリー……彼に触れたのはいただけないな……まあいい、できれば傍に居たいところだが、安全なところにいさせてくれるならその方がいいか。面倒だがその提案、受けよう」

 不快感を露わに修道女を睨むアリオールさんだった。言葉こそいつも通りながらも端々に溢れる嫌悪感と言うか、そういう軽蔑のようなものを隠す気がない。

 ただ僕としてはそんな風に決まりつつある状況の方が見過ごせるものではなかった。後で考えれば何もすべきではないとわかる、だから止めておけ、というような引っ掛かりが僕の中にもあったけれど、それでも声を上げなければいけない気がしてしまった。

「ちょちょ、ちょっと待ってください。僕たち兵士でも傭兵でもないんですよ? アリオールさんだって危ないことは避けようって、それで何かあったらいやですよ。それに僕」

「なぁに? 心配してくれるのかい? はっは。私は大丈夫さ。それに今後の見通しだって立つわけだし。乗るしかないよね」

 僕が言い終わる前に、言葉を遮られてしまった。不安でアリオールさんを見ればまたいつもの気楽な顔をする。僕だって、僕を宥めるときにアリオールさんはこんな振る舞いをするということにはもう気づいている。それに君のせいではないよ、と僕に言い含めるような気遣いにだって気づかない訳もない。それだけじゃなく僕が何を言おうとしたかも見透かされたような気がして、僕だってそこまでわかっているのに心の中の情けなさとか申し訳なさが膨れ上がっていくのがどうしようもなくて止められない。

「もし、の話ですのよ。何もなければそれで良しですわ。それでも約束を反故にはいたしません。出すものは出します。わたくしたちの未来のためですもの。だから明日を迎えるために、他ならぬあなたの勇気と愛に縋ります」

 この人もそうやって宥めすかしたり神妙になったりと大げさな素振りで拍車をかける。この修道女も頼りにしているのはアリオールさんだった。あなたの、という言葉の向きに気付かないほど僕も子供じゃない。なら僕は、情けなくも勝手に状況に追い詰められている僕ならそれをわかっていてもこう言うしかないと思ってしまった。

「なら、僕も手伝います。アリオールさんだけに大変なことを押し付けてはいられません」

 たまらず僕がそう宣言すると、修道女の様子が変わった。いつか僕がそう言うのを待っていたような様子で、それを感じた僕はよくない選択をした気がした。

「そうですか。でもあなたは何ができますの。確かに人手は必要ですけれど。意気込みだけでは空回りですわよ。あなたは何をしますの?」

 僕を試すような目だ。こういうやり口は嫌いだ。だからこそここでは引けない。

「何だってやります。荷物を運ぶのも伝言も。弓だって、たぶん引けます。だから」

「その辺にしておけ。私はそういうのは望んでない。おとなしくしてて」

 僕の方を向かず、それでも手で遮るようにしてそう言った。僕そのものを睨んだわけではなかったけれど、それでも僕に向くべきものが向けられないで、あの不機嫌な視線が向けどころを見失ったようにどこか別の一点を射抜いていた。僕が最後まで言う前にアリオールさんに遮られてしまった。出しゃばることをしているのはわかっているけれど、言葉とは違ってどうしてそんな不安そうな顔をするのかはわからなかった。それを見れば僕だってそんな顔になりそうになる。

「……ふふ、揉め事はよくありませんわね。この場を預かる者の決定です。あなた、エリーといいましたわね? あなたはわたくしを手伝いなさい、わたくしの傍でね」

「ちょっと! どうしてそうなる!」

 ガタン、と大きな音を立てながら立ち上がったアリオールさんが怒鳴った。

「ふん、みんな結局はしたいようにすればいいのです。エリー、あなたのそういう勇み足は嫌いではありませんわ。今回ばかりはその吐いた言葉を買ってあげます。今からはわたくしに使われなさい」

 アリオールさんの様子を意にも返さず涼しい顔のまま正面からそれを受け止めて悠然と話を続ける修道女。座った居住まいを崩すこともなく人の怒りに対して欠片も怯まない。それどころかいっそ異様なまでの落ち着きで僕を見て、僕に命令した。

「わかりました。精いっぱい、頑張ります」

 僕もそう言った。僕の方は状況にすっかり竦みあがった震えた声で。今になってとんでもないことに首を突っ込んだ気がして後悔する。

「あなたは……アリオールさん? アリオールでしたわね。あなたもわたくしの傍です。敵の主力が来るのは今回もおそらく南門。中になだれ込んできたときはわたくしたちの負け。どの道、町の防壁にへばりついてでも守り通す、それだけですのよ。むしろわたくしの周りの方が安全ですわ。下手を打った時もみんな仲良く死ねます。今ここを出ていくにしても満足に準備ができるとは思っておりませんわよね? ならばこれでよいのです」

 言葉は静かで丁寧だが状況の説明と指示をない交ぜにして丸め込むようにまくしたてる修道女だった。それで今度はその辺りを察したアリオールさんの顔が険しくなった。

「そうやってペラペラと、いい加減にしたらどうだ。この状況だけなら許したけれど、エリーの気持ちまで利用して、私を絡め捕ったつもりか」

 相変わらず立った姿勢のまま、アリオールさんは見下ろすように修道女を睥睨しながら吐き捨てた。今の状況に納得しかねている様子だった。だとしても結局選択肢がないのなら僕からも説得すべきかも知れない。座ったまま伸ばしたくても伸ばせない手を体の周りでうろつかせながら、どうにかたどたどしくならないように努めて言った。

「仕方がない、じゃないですか。僕の心配はしなくて大丈夫、です。僕がそうしたくてそうするんですから。今は多分、こうするべきなんだと思います」

 僕は強がって見せた。でも張りつめた空気が一向に変わらないどころか一層深刻になったような気がして、よせばいいのに様子が不安になって恐る恐るアリオールさんを見た。

「もう知らないから」

 アリオールさんはただそれだけ言ってドシンと椅子に戻り、腕を組んで目を瞑り何も言わなくなってしまった。……すごく怒っている。今回のやり取りで随分言い張ってしまった。最近こんなのばっかりで終わってからすごく不安になる。でもこれ以上様子伺いをするのもそれは変だし……もう言えることがない。

「はぁ、なんでわたくしがこんなとりなしをしなきゃいけませんのよ……。きっかけはわたくしですけれど。もうお話は済みました。後は何もありませんから、このまま宿でお休みになってくださいまし。今のうちに仲直りしておくんですわよ? まったく……」

 空気に耐えかねたのか、僕はそうだったけれど、この人はどうだったのか。物騒な修道女はそう言い残してどこかに行ってしまった。結局名前はなんていったのだろう。ちゃんと名乗ることもできず、名前を聞くこともできなかった。


「君は私のなんなんだい?」

 アリオールさんと二人きりになり、何も語らないまま食事を終えた後に恐る恐る様子を伺う店主に通された部屋で、今まで無言だった僕たちの初めの会話がそれだった。

 部屋に入り、扉を僕が閉じると先に入っていたアリオールさんは無言で今度はふたつあるベッドの片方の上に杖を放り投げて乱暴にズタ袋を置く。そこにあった感情に驚きながらも背嚢を床に置いた僕にアリオールさんは背を向けたままそう言った。ダメだ、うまく言葉にならない。そんな言われ方をされると僕はどうしたらいいか。呻くような言葉しか続かない。あなたの力になりたかった。それだけはどうにかして言いたかった。

「僕は……旅の仲間だと思っています。だから……」

「君にいったい何ができるのさ。さっきの言い草は何だよ」

 突き放す言い方。これ以上そんな言葉は言ってほしくない。僕はそんなつもりじゃない。アリオールさんの気持ちを無視したかったわけじゃない。それにここでアリオールさんとの旅を終わりにしたくなかった。

「私は君の夢を応援したい。それに成り行きとはいえ連れて行くなら責任もある。だからね、私は君を安全に届けようとは思っていたんだ。私にできる限りはね」

 僕の夢を大事にしてくれているのは嬉しい。けれどそのためにアリオールさんを犠牲になんてしたくはなかった。僕だってこういう困難を乗り越えられるようになりたかった。

「でも君はそうやって反発するね。今回君はいらない気を回して二人で無駄に危ない目に遭うことになった。私の気持ちを無視するのはどうしてだよ」

 遂に僕の方を向き、怒ったような、何故かそれと同じくらい心配したような不思議な表情で片方の人差し指を何度も僕に突き刺すように向けながら僕に詰め寄る。ちがうんです。ちがうんです。もう何を言っていいかわからない。

「またこういうことがあったら私もこの旅を考えなきゃいけなくなるよ。これ以上は君のことを背負いきれないってね」

 ……そんなつもりじゃ、アリオールさんのことを、そんなこと……僕はもう……

 まとまらない頭は放り出して、僕はもう涙が出ないように、それだけで精いっぱいだった。荷物として背負われていたくないのと、同じくらい荷物として放り捨てられたくないというのが僕の感情の出発点だったと思うけれど、いよいよそれを言われてしまった。でも僕のグチャグチャな気持ちは僕の中から出せない。きっとますます嫌がられる。だから「ごめんなさい」とだけ言った。声は震えなかった。きっと、いつも通りの僕だ。

「わかってくれたならいい。じゃあ、今は休めるときに休んでおこう。おやすみ」

「はい……」

 僕は行き場のない気持ちを抱えたままベッドに入った。そこで僕は耐えきれなくなった。


 僕は今日もまた、眠れずにいた。さっきのことが頭から離れない。僕は子供で、意地を張って、勝手にアリオールさんの横を歩けている気になって、それでまさか、物語の主役にでもなったつもりで僕が僕がと息巻いて結局困らせて終わったというわけだ。

 対等なんて言うつもりはなかった。でも僕はアリオールさんにとっては背負った荷物なんだとさっきのやり取りで知ってから、もうどうしようもないほどに力が出ない。心にそれが刺さってしぼんでいくような、僕一人で舞い上がっていたところに冷たい水を浴びせられたような、なんだか僕は滑稽だな、なんて思えて仕方がない。

 自分でもよくわからない感情に溺れそうになって僕はこっそりと宿屋を抜けだした。勝手にいなくなったことが知れたらアリオールさんの心証はもっと悪くなると思うけれど、今の僕にはそれさえどうでもいい。とにかく後悔しか湧かない以上そこから離れる必要があった。

 宿屋から出てみると、辺りはもう真っ暗だというのにまだ人が動いているようだった。ところどころに篝火が焚かれ、辺りを照らす。いつ魔物が来るかわからないからみんな警戒しているのか。そんなことを思いながらベイオルを見渡す。みんなの忙しなさを見て、自分にできることをしろ、自分の務めを誠心誠意やれと村で司祭様によく言われたことを思い出した。僕は何にもできてないなあ、ここの人は頑張り屋さんだな、なんてこの風景が人ごとのようにしか見えない。もしかすると僕の生死にも関係するのに。僕はどうしてこんなに浮ついているのだろう。アリオールさんにも僕は生意気なことをしたな――

「ここで何をしていますの」

 突然の声。あの修道女か。さっきまでの血と汗の匂いがしないことが気になって視線を向けると、あの血まみれ修道服からきれいな同じ服に着替えたようだった

「なんでもないです。だからほっといてください」

 自分でも自分が嫌な奴みたいに思える。別にこの人が全部悪いわけでもないのに。

「ハン、随分と暇ですのね。それならこっちへ来なさい」

「やです。嫌です。僕はもう関係ありません」

「さっきの啖呵はどうしたっていうの。これでもちょっとは見どころがあると思っておりましたのに。見下げた奴ですわねえ」

「うるさい。僕はもうおとなしくしてた方が誰も困らせないから、それでいいんです」

「わかりやすい人ですわねえ……まだ仲直りできてないってことですか。まぁ、わたくしも魔術師の協力を取り付けたくて余計なことをしましたからね……。このわたくしにいらぬ責任を感じさせるとは、あなたもなかなかやりますわね」

「もうほっといてください」

「そうはいきませんわ。ここでわたくしに見つかったあなたの不運を嘆きなさい。さ、こっちに来て、来なさい」

 修道女はそう言って僕の手首をつかんで引っ張る。この人すごく力が強いな。

 僕は最初、そうやって自分の調子にもっていこうとするこの人の態度が気に入らず何度か手を振りほどこうとしてみたが、まさかのビクともしないなんて結果に終わった。態度だけじゃなく体力の方もあまりに強固だったので僕もさすがに抵抗する気力をなくした。

 まあ何があったところでいまさら問題でもない。ただ、僕の観念した様子を見てものすごい得意げな顔をされたのはいただけないけれど。どうにもやりづらい人だな。

 そんなこんなでベイオルの南門からほど近い道の端にテーブルと椅子を据えて作られた場所に連れてこられた。宿屋の前からここまで来る途中、すれ違う人がこの修道女をずいぶん慕っている様子だと気づいた。中には気軽な様子で「我らの将軍殿、今度もそのお力をベイオルのために!」なんて誰かが軽口を叫んだ途端に周りがわっと騒ぎ始めることもあるほどだった。それにこぶしを振り上げて背中で答えるこの人も大概だけれど。でも魔物の襲撃から二日、その短期間でこれだけの信頼を勝ち取るのはただ事ではないことくらい僕にもわかる。もしかしたら英雄だとか勇者と呼ばれるような人はこんな感じなのかもしれない。

「なんだかお恥ずかしいところを見せた気がしますわね」

 今更か。

「それで? 僕に何の用があるってんですか」

 また感情的な言い方になった。この人が僕に気を遣ってくれていることくらいはわかっている。それでも、そんな風にしか言えなかった自分が嫌になる。

「あーあーまったく、そんな態度をおとりになって。ま、いいですわ、はいこれ」

 僕の嫌な態度をさして気にしていない様子でそう言って、僕を椅子に座らせて木の棒と尖った鉄片を渡してくる。

「なんです? これは」

 当然そんなものを渡されたわけだから僕は聞いた。

「今攻めてきている魔物は厄介ですのよ。名前は何だったかしらね、小鬼と……もう片方は……駄目ね、思い出せませんわ。ま、それぞれは物の数ではありませんけれど、面倒なことにどっちも鋭い爪があって壁を登ろうとしますの。それにこっちはほとんどが平民、高度なことは期待できません。最初の襲撃は数が少なく兵と一緒に門から出て討ち果たしましたけれど、それから後は数が多くって。だから今は内にこもって壁の上から石を落とすか槍で突きますのよ。フン……少ない手勢、練度の低い兵、押し寄せる魔物……、また壁の外に出ようものなら、攻めるどころか士気が崩壊しますわね」

 そこでそれ、と修道女は僕の手に持たせたさっきの物を指さす。

「間に合わせですけれど無いよりはマシですわ。最初は町中の刃物を集めて加工しましたの。でも皆さん不慣れでしょう? 敵に刺したまま取り落としたり、つかまれたりで結構失くすんですもの。それに壊れやすいですし。だからついに古い蹄鉄まで鍛冶屋に頼んで穂先にしてもらいましたの。」

 僕が持っているものがそれらしい。修道女はテーブルの傍の壁に立て掛けられていた一本の短い粗末な槍を取って僕に見せて「これなんて元は箒ですわ」なんて自嘲気味に言う。そんな姿はどこか疲れた様子に見えた。

「まあ幸いにしてこっちの被害……死者は少なく収まってはいます。ですが疲れが出てきておりますわ。続けばそろそろ限界ですわね」

 そう言ってこの修道女は僕の向かい側の椅子にどっかりと腰を下ろす。俯いて深く息を吐いた様子からこの人もかなり参っているような気がする。

「落とす石もあらかた使って代わりの物を探す始末。一度使ったものも機を見て拾いましたけれど、汚物にまみれているのは不衛生で士気を下げますのよ。それに臭いますし。敢えて言いますけれど、今のあなた方も不運ですわね。……さ、そんなことは置いておいて槍を作る時間ですわよ!」

 僕はそれに駆り出されたらしい。

「それは紐で括るのです。しっかり縛るように。ああ、そっちは筒にできましたから柄を差し込んで釘を打ちます」

 そうやって僕に指示を出す。いつの間にか作業を命じられてしまった。仕方がないし、このままうじうじとしているよりはいいかと思って言われたとおりにする。簡単な作業ではある。でもこれが人の命にかかわると思うと手は抜けない。そう思いながら続けていると周囲でも様々な作業をしている人が通るのがわかった。

「皆必死ですわ。勿論わたくしもね。だから今できることをやるのです。後悔しないように。だからね、あなたが何でもやりますとわたくしに向けて言ってくれたのは、本当は感謝すべきことでしたのよ。皆に変わってお礼を言います。ありがとう」

 にこりと暖かい太陽のような笑みを僕に向けてそう言った。この人がこんなに柔らかい言い方をする人だとは思わなかった。思わずその顔をじっと見てしまったけれど、僕の視線を受けてもそのまま正面からそれを受け止める。この人も不思議な人だ。でもどうしてか皆がこの人を慕う理由が分かった気がする。おそらく面倒な打算とかを抜きにすればとても親しみやすい人なのだろうと、そんな印象だった。

「少しは気が晴れましたかしらね。私も言うべきことは言えました。……ある分は終えましたわね。さ、宿に戻りますわよ。どうせ迷子になりそうですから送っていきますわ」

 結構時間がたっていたらしい。ほぼ一本道でどうやったら迷子になるのさ、と言おうとして、それを言い切る前に手を取られる。「さあ行きますわよ!」と今までの有無を言わさない調子に戻る。僕はその態度を見てこれは何か言っても無駄だな、と諦めた。そのまま宿まで案内してもらった。


「なにやってたのさ」

 宿に着いてから、その中ほどまで進んだ時に後ろから声がかかった。姿が見えないと思っていたアリオールさんが扉の近くの椅子に壁を背にして足を組んで座っていた。そばの壁には杖が立てかけてある。あまりに不機嫌な様子で誰も近づこうとしなかったのか、周りには人がいない。

 声をかけられて僕はまた何を言ったらいいかわからずに慌てふためいてしまった。そうしていたら僕の様子を見かねたのか「わたくしが使っていましたわ」と僕の前に出て修道女はアリオールさんに言った。それを聞いてアリオールさんの不機嫌さが増したのがわかる。僕はその様子にどうしてか怯えてしまった。周りの人が人の気も知らないで面白いものでも見るように遠巻きに見ている。

「そうやってエリーをこういうことに慣れさせるのはよくないと思うな。私にこそ用があるんだろう? 今更逃げはしない。だからエリーを巻き込まないでほしい」

 僕のためか。アリオールさんは結局僕のためにこんなに気を揉んでいるのか。

「……成程。あなたも人がいい割には強情ですわね。悪いことをしたとは言ってあげませんわ。代わりに教えてあげます。エリーにもエリーなりの勇気がありましてよ。それはわかってあげていますの?」

 なんだか少し楽しそうなのが気にかかるけれど、修道女は交渉の時の怖い声で言う。どうしてこんなに挑発的なのかはわからない。

「お前がそれを言うのかい」

 アリオールさんは静かにそう言うだけだったけれど、さっきまでの不機嫌さを引っ込めて立ち上がり、逆に恐ろしい無表情のまま遂に杖を手に取ってしまった。僕に「こっちにくるんだ」と言う。修道女は素手でありながら挑戦を受ける姿勢を取った。こっちはどんな顔をしているのか、背中が向いていて僕にはわからない。ただ「フフ」と低い不穏な笑いを聞いた。こっちはこっちで恐ろしい。周りの人も慄いてサッと離れていく。

 僕はどうしていいかわからずにいると、周りにジワジワとさっきとは違う気配で人が集まっていることに気付いた。さっきは興味本位な感じだったけれど、今度はなんだか嫌な感じだ。そうか、この修道女はベイオルの将軍なのだ。だからそれに挑みかかるのは周りに敵対することになってしまう。そこに気が付いて僕は慌てて間に入った。そしてアリオールさんのそばに寄って、それでもどうしたらいいかなんてわからないまま、どうにかしようとアリオールさんの杖を握る手を僕は思わず目を瞑って両手で握ってしまった。

「は? どうした?」

 アリオールさんの乾いた声を聞いたので恐る恐る見上げてみると、無表情でもどこか困惑したように見えた。まあそうだろう。やってしまった僕だって着地点を見失って混乱しているのだから。

「あっ……く。違うんです。僕は、そ、その……あ、アリオールさんのそばに居たいだけなんですぅ!」

 ……あ、僕は何を言った?

「う、うん? 本当にどうした、きみ?」

 まあそうなるよね。わかる。だからちょっとまって。

「いやそうじゃなくって……アリオールさんの役に立ちたっ、えぇ……いや、違う、あ、あぁあ! あなたと一緒ならいいんです、平気なんでひゅっ……や、違あぁぁぁぁ……」

 ちがうんです。わかってください。ちょっとことばにならないだけなんです。

 もうどうしようもない。僕は膝から崩れ落ちた。がっくりと。両手でアリオールさんの手を握ったまま。もう笑ってもらうより他はない。

「っふ、あっはははは! まぁまぁ! ふふふふ……、ごめんなさいね? これは傑作、あははははは! 言うに事欠いてこれとはね。あなたも諦めなさいな!」

 その状況に一番早く声を上げたのは修道女だった。まだ笑いが収まらないのか言ったそばからこの野蛮な修道女は豪快に笑い続けている。ともかくこの空気を打開してくれたことは本当にありがたいけれど、どうしようもなく恥ずかしい。

「はぁ……、そうか。それじゃあ仕方ないのか。そうだね、わかった」

 アリオールさんもいつの間にかさっきまでの雰囲気を引っ込めていつもの気楽な様子に戻っている。何か諦めたような様子だったけれど、そう言って空いた片手で僕の頭を撫でてくる。そういうのはやめてほしい。

「ちがうんです……」

 恥を忍んで涙目なのもそのまま、助けてほしくてアリオールさんを見上げた。ああ、いつもの気楽な笑顔だ。そこには安心できた、けれどこの状況から助けてほしい。

 僕はまた恥ずかしくて消え入りそうになる。赤くなるのは何度目だ。さらに周りまで笑い出すのはあまりに非道だと言いたい。早くこの状況から解放されたい。

 あの後修道女が「ハイハイ、見世物はもう終わりですわよ! 戻りなさい!」と叫んでその場は落ち着いた。集まりつつあった人も引っ込んで、僕たちもそれ以上身構えないで済んだようだった。でも問題が一つできてしまった。あの場にいたおじさんが変な好奇心から僕に「君、男といい人になりたいのか?」なんてからかってきた。その時ばかりは僕も「ちがいます!」と言ってしまったが後になってみるとアリオールさんの性別詐称状態からすれば「そうだ」と言うべきだったのかと考えてしまった。いやそもそも僕はアリオールさんを尊敬しているのであってそういうのじゃないしどう答えればよかったのか。

 ――その時だった。カァン! カァン! と町に容赦なく耳に突き刺さるような音が鳴り響いた。

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