第4話 僕の知らない世界

 僕たちは荒野を揃って歩く。まだ村の傍と言っていいはずなのになんだか僕はそれだけでも夢に近づいている気がして嬉しい。目的地はやはりグラムの町だった。アリオールさんはそこで準備を整えてから師匠のところまで行くらしい。グラムからさらに北、ベイオルとかいう町に行ってから北上、そこまでは決めているという。

「師匠のところまでは遠いんですか?」

「遠いよー。ここからだとずっと北西、王国の西の端っこさ。一度北に向かって迂回するから何事もなく進めても三十日以上はかかるんじゃないかな」

 僕は聞きたくないことを聞いてしまった気がする。諦めるなら今のうちだぜーなんてアリオールさんに言われる。確かに進めば進むほど諦めるって選択肢はなくなりそうだ。でも僕は行くと決めている。決めたんだ。

「行きます」

「またそうやって。頑固な奴だなあ君は」

 呆れ顔をされて笑われてしまったけれど、僕なりの決意表明をして進む。これはどうでもいいことかもしれないけれど今のアリオールさんは初めて見た時よりずっとたくましく見える。頼もしいと言うべきか。弱っていなければこんなにも、変な言い方をすれば、見栄えがいい。見とれるような雰囲気がある。何とも言えないフニャフニャした表情さえしなければ絵になるのになあ、と変な感想が頭をよぎったけれど、なんだか失礼な値踏みをしている気がして、そんな考えを振り払って思いついたことを聞いてみることにした。

「でもまっすぐは行かないんですね。それがどういう道なのか知りませんけど……」

 実際これは疑問に思っていたことだった。今のうちに道のりは聞いておきたい。

「やっぱり君は世の中に疎いな。先が心配になってきたぞ」

 そう言うとアリオールさんは言葉とは違って楽しそうに説明してくれた。

「ここからまっすぐ行こうとするといずれ高い山脈にぶつかる。山越えは面倒だ。山を迂回するとしても、南西に近づくのは避けたい。いいかね? まず世界は安全じゃない。これは知っているかね。」

 得意げな様子にはあえて触れずに「はい」と答える。でも詳しくは知らない。

「その理由は……まあ知らないか。ざっくりいうと今から大体百年前に人間の揉め事の中に魔族と、魔物がなだれ込んできた。大陸中でね。始めはメタメタにやられたけれど、どうにか結束してそれを辛くも撃退。ここまではいいかな」

 それは聞いたことがある。司祭様は村の子供を集めてよく勉強を教えていた。読み書き計算だけじゃなくて歴史も教えてくれて、昔僕はそんな話を聞いたことを覚えている。なので「昔教わりました」と答えると意外なものを見るような顔をされた。

「ふぅん、意外。辺鄙な村の割にまあしっかりしたことで」

 そんな風になんだか馬鹿にされる。それに僕はムッとして、つい言ってしまった。

「そんな百年前のことで何かあるんですか? 魔族でも出るんです?」

「君はどう思うね?」

 まさかそんな。あり得ない……と言えるだけの根拠もない。もう魔族なんておとぎ話の中にしかいないはずなのに僕は何も言えなかった。

「今は一応戦争も終わった。でも魔族は姿を消したのにいまだ何故か影響が残ったままで人間が取り戻せていない『飛び地』が世の中にはいくつもある。そういうところは魔物も活発。たまにそこから魔物の群れが出てくる。そんなだから魔族がまだいて魔物を率いている――なんて噂も、ああそうか、事実に即するなら魔物が出るって言うべきか。だからまだまだ危険なんだよ」

 アリオールさんの説明は前に司祭様から聞いたことがあるものだった。魔族の出現に人間の影響があったことも。争いや苦難の気配に魔族は寄り付くと言っていた気がする。

「それに戦後、魔族を退けた土地の多くは人間のもとに返ってきたけど今度は人間同士で領有権の争いが始まった。国同士はもちろん、王様の権威が弱って……とと、これはあまり言わんほうがいいか。えー、土地の線引きが一度変わって、いくらか貴族も戦死して、そんなゴタゴタのせいで領主の間でも歴史的にああだとか相続権がこうだとか小競り合いが終わらない。だから今はむしろこっちの理由で世界は危険ってことだね」

 揉め事が絶えないせいで戦争の気風を残したままだからね。と付け加える。

「それは……知りませんでした」

 悔しいが認めざるを得ない。僕はその辺のことまでは知らなかった。

「よろしい」

 アリオールさんは少し得意げだ。その様子で、なんだか今の話の内容とは似つかわしくないけれど 、ちょっとの間で僕たちは多少仲良くなれたような気がした。

「今この国で特に厄介なのは西の方なんだよ。私たちが今いるこの辺が南の国と静かに睨み合っているのは毎度のことだけれど、それがどうしてか西部の大公殿と結んでいるなんて噂が突然流れてね、そうやって疑われているのと噂の出元がまるでわからんせいで一触即発。南で国境が接しているここから流れ者が西へ行こうものなら誰にどんな因縁をつけられるかわかったもんじゃない。そんなだから雇用主募集中の傭兵ならともかく誰の手下になる気もないんじゃ迂闊に近づいても碌なことにはならない。だからいったん北上、迂回、その後は未定」

 ということらしい。なんだか面倒くさい話だ。

「今の話で思ったんですが、僕はまだまだものを知りませんね」

 話をして少しは仲良くなれた気がしてもなぜか若干の悔しさが纏わりついてそんな言い方になってしまった。

「ふふん、よいよい。若者よ、大いに学ぶといい」

 僕のモヤモヤした言い方にも何かを見透かしたようにアリオールさんはそうやって返す。そんなに年も変わらないと思うのに。やっぱりなんだか負けた気がしてよくない。話題を変えよう。

「さっきから気になっていたんですけど、魔物って何なんですか」

 これには以外にもアリオールさんも困った様子で「んっ」と一瞬言葉に詰まった。

「正確に説明出来たら『学院』で称号がもらえているよ……もう、いじわるめ」

 モゴモゴとすねるような様子からしてさっきまでとは打って変わってどうやら知らないようだった。これはこれで煙に巻かないだけ誠実なのかもしれない。

「魔物と、あと一部の魔族もか、それはある日ある時この地に湧いて、そんなことが何度もあるうちに居付いてしまった『そういう生き物』だということとされている。もう、聞くなよ」

 ぶっきらぼうな言い方だ。知らないと言うのは嫌らしい。本当はさっき話に出た『学院』とは何かも聞きたかった。できれば『魔族』の方も。でも僕が魔物について聞いたせいでアリオールさんは僕が今度は何を言い出すかとなんとなく構えるようになってしまった。ここであんまり機嫌を損ねても仕方がないので会話もそこそこにグラムを目指すことに意識を向けるようにした。アリオールさんもどうやらそれを察したらしい。

 そうやっているうちに長い距離を歩いた気がする。途中で日が高くなったころに昼食を摂った。アリオールさんは「これからそうはいかないぞー」と食事を摂ろうと言った僕を茶化したが、母さんが用意してくれていた包みを取り出し、中に紫リンゴを甘く煮たものとチーズを挟んだパンが包んであったことを見て「もちろんわけてくれるよね、ね?」なんて人懐っこく言い出す。その様子がなんだか可愛らしく思えて僕は「もちろん、どうぞ」と鍛冶屋のじいちゃんにもらったナイフで切ってから半分渡した。受け取っていながら「やっぱり君、不安だよ私は」と変なことを言うのはどうかと思う。

 そんなこんなで少しの食事休憩を挟み、また延々と歩く。道が思ったより悪い。僕の村の開拓があんな場所で行われたのもわかる気がする。この辺りは起伏が激しいだけじゃなく岩が多い。川も見た限りでは見つからない。

 そんな中でも途中たわいもない会話をした。なんでも魔術師と名乗るには魔術だけではなくて、むしろ他のこと、地形や植物、動物なんかにも詳しくないと駄目らしい。博学であるべし。だそうだ。そう言われては聞かざるを得まいということでアリオールさんにこの辺りに何か特別なものはありますかと聞いてみた。

「そうだなー……。んんー、ああ、そこの木の根元」

 そういって道の途中にある低木の根元を指さす。その木はこの辺りの丈の低い疎らな草の中に生えていて、他の似たような低木と比べるとこれだけ枯れかけているように見える。僕らの村ではこういう風になった木にはあまり触らない。その理由は根元に目玉みたいな実をつける気味の悪いツタが絡みついていることがあるからだ。それも結構いろいろな木に絡みつく。僕はアリオールさんの指示で渋々確認したところ、やはりそれがあった。

「うぇぇ……」

 思わず声を上げてしまった。畑や家の周りにこれが出る兆候を見つけると実をつける前に駆除するのが村の習慣になっている。僕含めて苦手としている人も多い。幸いにして大量発生して木々や畑を枯らし尽くす、とかは無い。実は結構貴重な植物ではある。でもまさか魔術に関りがあるとは思わない。

「ふふん、これが嫌いなようだね。でも魔術師ならこれを正しく知らないと」

 いつの間にか僕の横にかがみこんでいたアリオールさんは僕の反応を面白がるような、それでいてどこか得意げな様子で目玉の実を摘み取って手の中でコロコロと弄ぶ。なんだか嫌な予感がする。

「ほれほれ、魔術師志望。手に取りたまえ」

「ちょっ……やめてくださいよ! うぅ……」

 苦手だってわかっているのに僕の目の前に出して顔に近づけてくるのは悪ふざけが過ぎる。これ以上続けるつもりならちょっと怒ろうかと思っているとそれを引っ込めて今度は講義の姿勢になるアリオールさん。この人はけっこう自由な人だ。

「コレ、大体のところでメダマカズラと呼ばれている。そのまんまだね。迷信深いところではその見た目から眼病の薬としてそのまま食べるか、絞った汁を目に差す。ところによっては呪文も唱える。でもそれはあくまで迷信。実際は鎮痛薬の原料になるのだよ。」

 相変わらず手のひらで実をコロコロと転がしながらアリオールさんは語る。僕はどれも初めて聞くことだった。迷信の方はもちろん、ちゃんと薬で使えることも。

「へぇー。僕初めて知りました。まぁ、知っても相変わらず気持ち悪いですけれど」

「感心するにはまだ早い。ではどうやって鎮痛薬を作るかってところが魔術なのさ」

 ふっふっふと笑いながら言う。今度は随分ともったいぶる。なんだかそんなアリオールさんを見ている方がむしろ面白くなってきたというか、その様子が楽しんでいるようにも見えてくる。だから僕もつい調子に乗せるように聞いてしまった。

「で、どうやって作るんです?」

「夜に作る。正確には日の光の下で潰してはならない。そして……あれ、あー……赤霧葉の葉脈と、ええい! その先の説明は面倒だ。今度機会があれば作ってやろう」

「ええー……」

 途中でめんどくさくなるなよ。と言いたい。さっきまでの得意げな調子を急に引っ込めてくると僕もそれ以上聞きにくい。もしかしたらその先を忘れたのかもしれないし。

 そうすると今度はちょっと意地悪な顔をして僕に問いを投げかけてくる。

「さて、エリー。さっきの手順は魔術を考えれば必須だ。でも陽の光を避けるだけなら薬師の技と言ってもいいのではないかな」

「ん、んん? どういうことです?」

「実はね、傷縫いの魔術と言うものがあるんだけれど、そう言う魔術を使うと傷に術の残滓が残るんだ。それが陽の光の下で潰したメダマカズラの性質に合わさった時に傷が爛れるようになる。陽光には魔術として意味があってね、素材によってはその辺りを考えないとダメな場合があるのさ。だからこの場合薬師の分野とは言い切れない。魔術の影響を知った上で除去するってのも魔術師の知識なのさ」

「へぇー……って言いたいですけど、僕にはまだよくわかりません」

「つまり、魔術の側面を知らないと毒にもなりうるの。昔、その辺りの理屈がわからないうちは薬師にとっては薬なのに魔術師には毒だと思われていたということ」

 そしてアリオールさんは突然真面目な顔になってからビッと人差し指を僕に向けて「魔術の講義終わり!」と宣言した。

「ふふん、世界のすべて、この世界の総体が魔術の根源である。魔術の本質は万物を知って尚、挑むべきものだってさ。だから魔術っぽくないことが魔術だったりするし、魔術っぽいことが逆に魔術ではないこともある。知識がなければ魔術の気配をどこにでも見てしまうし、あるいはどこにも見つけられない」

 アリオールさんの師匠の言葉らしい。僕にはよくわからない。いつかは理解できるようになるのか。そうなれればいいけど。なんだか煙に巻かれたような気もする。

「それじゃこれは私がもらうね」

 と言って突然あの気持ち悪い目玉の実をひとつ、アリオールさんはあろうことか口に放り込んで食べてしまった。僕はまた「うぇっ」と僕は呻くような声を出してしまったけれどアリオールさんはそれを見てニヤリと笑う。

「効能は迷信とはいえこのまま食えることは食えるから。おいしくないけど。ああ、良く知らないうちは真似するなよ? 植物は毒のあるのも多いから」

 ふたつめを見せつけるように上下の歯の間に挟んでからニヤリと笑うと同時にプチリ、と音がした。同時に口からピッと黒い汁を飛ばしてしまい「うっ」と慌てて口元を押さえるアリオールさんを見て、僕はこれを一生食べないだろうなと確信した。

 そんな話をしつつも昼から歩き詰めだったからか日が落ちるまで多少猶予があるうちにグラムの町に着くことができた。そこには僕の村にはないような簡素な門と、同じくらい簡素な塀があったけれど、特に何かがあるわけでもなくすんなりと中に入れた。それには何の疑問も抱かなかった僕だけれど、アリオールさんは歩きながら僕の顔をのぞき込んでそっと「何処もこうとは限らないから」と教えてくれた。多分大事なことなのだろう、だから覚えておこう。そして、まずは休息ということで僕たちは宿屋を見つけて宿を取った。

 村以外での食事というものは僕にとって初めての経験だった。アリオールさんが宿屋の主人に食事を摂ると伝えて適当な席に通されて、さて何を食べるのかという時に僕は宿屋の作法さえわからなかった。しばらく待つと二つの皿がやってくる。ひとつには大きなパンと、もうひとつには何かの肉の焼いた塊と汁気の少ない野菜の煮たものが乗っていた。

 アリオールさんが皿と一緒にやってきたナイフとフォークを使って器用に肉を裂いていく。それで僕に食べるよう勧めたのだった。分けられたものは几帳面なほどにきっちり同じ量に見えて、何故かそれが冗談のようで面白かった。そう思っているうちにアリオールさんはいそいそとパンの塊をちぎって食事を始める。それを見ていると僕のお腹もたまらずに鳴りだした。なら僕もと切り分けられた肉に手を付けた。

 そうやって食事を摂りながら明日の予定を決めることにした。今日はもう遅いから旅支度は明日になるだろうこと、その後どうせ日が落ちる前に次の町には着けないこと、だから明日は行けるところまでで終わり、早めに用意を終わらせてからの出発でいいと決まった。その時にお金の話になった。

「いまさらですけど僕はそんなにお金を持っていません」

 僕の全財産は兄さんからもらった分だけ、口ぶりから十分な金額じゃない。深刻な状況だと思う。何よりどのくらい深刻なのか僕にはわからないのが深刻だった。

「奇遇、私も」

 拍子抜けするほどあっけらかんとした物言い。アリオールさんも随分と気楽な言い方をする。人のことは言えないけれどこの人も大概、無計画な気がする。それでも旅をやっていけるだけの熟練者なのかもしれないけれど、どうしてもそうは見えない。今まで割と危険なことになっていたんじゃと疑ってしまう。

「世話になろうとかそういうつもりじゃないんですけど、大丈夫なんですか?」

「君はやっぱり行き当たりばったりだな。んー……まあこればっかりは人のことも言えないか。大丈夫、アテはある」

 そう言われてもなんだか信用できない。自分を棚に上げているのはひとまず置いても何故か不安を感じる。

「旅人、冒険者、そんなのがあっちこっちうろつけるのは食い扶持が割とあるから。つまり金を稼ぐ手段があるってこと。おわかり?」

 また得意げだ。そのうち乗せるだけ乗せてみてもいいかもしれない。けれどとりあえず今は今後にかかわるので変に水を差すのは止めておいた。

「でもここじゃあ無理だね、高札も立ってなかったし、平和だね。ここは組合も無い」

「どういうことです?」

「つまり懸賞金のかかったなんかをどうにかするか、私たちみたいな連中に仕事を頼みたい人を見つけるかってこと。前者は高札、後者は組合とかギルドと言う。」

 僕はどっちも知らなかった。「まあ必要になったらまた言うさ」と言われる。とりあえずはそれに付いては後回しでいいかもしれない。

 アリオールさんはが最後に残ったパンの一切れを指さしてもらってもいいか? みたいな視線を僕に向けた。もちろん断る理由もないのでどうぞと言うとアリオールさんはそのパンで皿に残った野菜の煮汁を少しぬぐい取ってから口に入れた。それでニッと笑って僕を見る顔は人懐っこいものだったけれど、ほんのちょっとだけわざとらしく見えた。


 それにしても今日は久しぶりに長い距離を歩いた気がする。その疲れを僕は早いところ何とかしたかった。食事の後、幸い取れた部屋に行く。もちろん二人で一部屋、料金は折半。不幸はベッドがひとつの部屋を、それも一部屋しか取れなかったことだ。

「どうするかなぁ、これからもこういう事あるだろうし、んー……んふふふ、よし!」

 部屋に入ってすぐからアリオールさんの様子が少し変だけれど、どうにも気にしない方がいい予感がして触れられずにいる僕だった。とりあえず荷物を置き、沈む陽の名残が窓に差し込むうちにふたりで使うには心もとないベッドの傍にあったランプを点けて、窓を見る。よくないガラスだからか外がよく見えない。景色を諦めて気を新たに、覚悟を決めてこの状況でもゆっくりするぞ……なんて一つしかない部屋のベッドから目を逸らしながら考えていると、何かするすると衣擦れのような音が聞こえた。それをたいして気にしないでいると何故か僕の左手を掴まれた。何事かと思ってみればアリオールさんはにんまりと笑みを浮かべている。そして「えいやっ!」と勢いづけてアリオールさんは僕の手を自分の胸に押し付ける。

「は? なにやって……ええ⁉」

 みっともなく驚いたのも仕方がないと思う。だって僕の手は男の人にはないはずの柔らかいものに触れたのだから。

「ぎゃああ! ちょっ、なにやってんですか! ていうか何、どういうこと!」

 想定外のことで僕は思わず騒ぐ。しょうがない反応だ。誰だってこうなるはずだ。

「やっぱり……まあそういうつもりでいたから当然とはいえ、実際にこんな反応をされたときは落ち込めばいいのか? 私は」

 皮肉っぽい言い回しをしていながら落ち込むような、呆れるような、かと思えば拗ねるようにも見える変な表情でアリオールさんは僕を見下ろす。僕もどうしていいかわからないままアリオールさんを見返すしかなかった。ただとてもいけないことをしている気がして胸の鼓動も息も落ち着かない。

「後で気まずくなるなら今のうちに伝えた方がいいと思って、多分気づいてないし。私、女でした。気づいた? 気づいてないよねえ? あっはっは」

 さっきまでの変な様子を引っ込めて、今度は何とも気楽にそう言った。相変わらず僕の手はアリオールさんの胸をわしづかみにしたまま。もうどうすればいいかわからず何も言葉にならない。顔から汗が噴き出すし、熱い。多分僕は信じられないほど真っ赤になっている気がする。しばらくジタバタしていたらようやく気が済んだのかやっと手を放してもらえた。とりあえず落ち着くように自分に言い聞かせてアリオールさんを見る。ニヤニヤしつつも顔が赤い。何でアンタまで赤くなってるんだ。と思わず言いそうになる。悪質なからかい方をして自分も手傷を負っている。

「あっ……あなたアリオールでしょうよ! アリオールって男の名前だよ⁉」

 一向に落ち着かない僕の胸の音のせいでみっともない口ぶりになったのがますます僕をおかしな方向に進ませる。気持ちも息も意識するほど整わない。

 アリオールさんの胸から手を引っぺがしたものの、胸をわしづかみにしたままの形で止まっていたそれをどうにかこうにか無理矢理下ろした。手に意識が向くとさっきの感触を思い出してしまってどうにもならなくなる。それを感づかれるのは僕の中の何かが許さなかった。だから手の中のアリオールさんを頭から振り払うようにそう言うしかなかった。


 アリオール、確かいつか聞いた物語の人物がそんな名前だった。それで名前を聞いてからずっと、この人をすっかり男と思い込んでしまっていた。そもそもこの人は僕より背が高いし体格もいい。でもいま改めてアリオールさんの胸を見ると、さっきまでなかったはずの胸のふくらみに気付いた。特別大きいわけじゃないけれど、見てわかるくらいにはしっかりとある。さっきの音は巻いていた何かをとった音か。足元のあの布がそれか。村で運んだ時は僕も必死だったからか、この辺の事情になんて全く気が付かなかった。

「はっは、ごめんごめん偽名。でも私のことはアリオールで頼むよ、その方が君以外と関わるとき都合がいい。君も本当の名前を知らなければ嘘をつかずに済むし」

 そこでふと合点がいった。司祭様が名前を聞いて不機嫌になったのはこの人が女だと気づいていたからか。そうか、体調を確認したときに気付いたのだろうか。

 今知った事実を考えるに多分、女性のひとり旅と言うのは大変なんだと思う。僕の想像もつかないほど危険なのかもしれない。それで男装、と言うことなんだろう。それにしてもこの人もずいぶん苦労する生き方をしている。何か理由があるのか、それともしたくてしているのか。そんなことを考えていれば落ち着くかもしれないと僕は無駄に気を回すように努力してこの状況から逃避するしかなかった。

「ええ、まあそれはいいです、もう。でもその、魔術師なのは本当です、よね?」

 さっきのことでとても驚く羽目になったけれど、やっと少し冷静になれたからか今度はそんな余計なことで僕は少しだけ不安になった。やっぱり僕はこの人をよく知らない。あのお守りを使った『資質』の確認があった手前、確かにこの人は魔術を知っているのかもしれないが、僕は一度聞いておきたかった。

「あー……魔術師らしいことはそんなにしてないし、この状況じゃあ仕方がないか。でもそれは本当。師匠だってちゃんといる」

 誠実さというものを思い出したようでさっきまでのから騒ぎを引っ込めて多少は真面目な顔をしている。僕はというとアリオールさんのその答えと表情で一応は納得できた。いろいろ知っているし妙なものを持ってもいるし、考えてみれば疑う必要もなかったのかもしれない。まあ実は隠しておきたい本音として、まだ残る手の感触と変になった胸の鼓動をどうにか落ち着ける時間稼ぎをする無理筋の方便でもあったのだから、これでいい。

 そんな僕の気も知らないでこの人は様子をうかがってくる。多分まだいろいろ収まっていない。事情が知れてしまうから「やめろ!」とも言えない。しまった、まだ顔が赤いのに気づかれた。やめろ!ニヤニヤ顔に戻るな!

「んぅー? ふふ、そうか、君はこういうの初めてか、そんなに赤くなって……ふぅん、なら、私がひとつ脱いでやろうか」

 僕をからかうつもりだ。そんなだから言葉がねっとりしている。何をしても不利な気がしてすごく嫌だ。逃げられない状況に追いやられているうちにアリオールさんはついに着ているチュニックの裾を持ち上げ始めた。僕をからかっているのはわかっているけれど、本当にそういう事をしてしまっては駄目だと思う。そう思っているうちにゆっくりと引き締まったお腹があらわになって、日に焼けていないからかなんだか少し赤い肌とおへそがちらりと見えた。それでもこの赤毛はやめない。

「……っ、ぁう」

 僕の口からつい声が漏れた、一瞬見とれてしまっていたけれど、自分の恥ずかしい声に気付いて急に現実に引き戻される。僕はもう火そのものなんじゃないかというほど顔が熱い。きっと真っ赤だ。これ以上動揺した素振りは絶対に見せてはならない。見せればもっとおかしなことさえこの人はしてのける気がする。

 僕はすっかり部屋の奥まで入ってしまっている。唯一の脱出経路である扉の方には正気を失った赤毛がいる。横を抜けさせてくれるかわからない。まず近づくことが怖い。逃げ場もないのでいろいろ振り払うようにそっぽを向いて壁際に逃げて、そのまま額を壁にくっつける。僕はもう壁だ。そういうことにしてほしい。そうやって嵐が去るのを待つ。

 精いっぱい声の震えを抑えて「僕はもう知りません」と言ったら「あっはっはっは」なんて笑いだすし。人の気も知らないで左右にうろうろ、こちらをのぞき込もうとしながら「ほれほれ」なんて挑発する。視界に入ってきたアリオールさんの顔を見てみるとこの人も変な勢いのまま得意げな顔をしていても、すっかり自前の髪よりもずっと赤い顔をしていた。僕をからかうことに熱が入ったせいで止め時を見失って暴走しているようにしか見えない。もう危険なところまで裾を持ち上げて、いけないところの近くまでまくり上げられている。それなら僕にも考えがある。決意を込めてアリオールさんの方を向いて、遂に見ちゃいけないところが出そうになっていても、それでも見ないように力一杯反撃する。


「僕はそんなの平気です! だってあなたを運んだ時、すっごい臭かったのまだ覚えてんですからね!」


 それを聞いておかしくなった赤毛の表情がビシリと引きつる。思った以上の効果があったらしい。しおしおとはしゃぎまわっていた時の勢いがしぼむ。よろめくように後退し、持ち上げていた裾から手を放して、くんくんと自分のにおいをかいでいる。いや今臭いわけじゃないわ。と言おうかとも考えたがやめておいた。

 アリオールさんは呆然と少しの時間立ち尽くしたかと思えば、そのうち力なくベッドにもぐりこんで「あしたはやいからもうねる。ねようね」なんて言って僕に背を向けるようになってしまった。僕になんだかものすごい罪悪感がのしかかってくる。この結末は理不尽に思うけれど、それならとりあえず僕ももう寝た方がいいのかもしれない。それで一緒のベッドに入るべきか少し悩みはしたけれど、立ち尽くす僕に気付いたらしいアリオールさんは「おいでよ」と言って入るように促した。仕方がないので僕もベッドに入ってから「ランプ、けしますね」と一声かけると「うん……」なんてさっきまでの勢いはどうしたと言いたくなるようなしおらしい返事が返ってくる。もうこれ以上は僕の良心が持たないし、深く考えるとこの状況にも参りそうなのでなるべく早く寝るよう努力した。

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