夕雪の彼方へ
虹のゆきに咲く
第1話 面影
僕は生まれてこのかた母親の白く柔らかい乳房の記憶がない。あるのは冷たい養護施設の中で過ごした日々である。寂しい思い出しか残っていなかったのだった。
現在は東京の芸術大学にて画家の道を選んだ。しかし、待っていたのは挫折にすぎなかった。才能という文字が僕にとって憎らしい存在であった。
ある日、夕暮れの白く雪の舞う公園を僕は散策していた。夕日は山から姿を消そうとしており、柔らかな光がそこには残っていた。正面を見ると大きな樹木があり、枯れ葉も雪と同様に舞っていた。そこには、やや大人びた少女が静かにたたずんでいたのだ。少しだけ目線を少女に向けると、僕に優しく微笑みかけながら去っていった。
一瞬にして、僕は少女の美しさに心を奪われてしまい、僅かながらの時の流れが、僕にとってなぜか遠い出来事のように思えて、とても不思議でならない瞬間であったのだった。
それから、僕はその時の面影を追うように、公園で大きな樹木にたたずむ少女をキャンバスに描くようになった。目のあたりにした光景が僕の瞳に焼き付いて離れなかったのだった。しかし、思うように描けず苛立ちさえ感じていた。
いつものように、キャンバスに絵を描いていると、あの時の少女にとてもよく似た若い女性が、偶然にもベンチに座り始めた。しかし、しばらくすると父親らしき男性が現れて、二人で公園を去っていった。どうやら、公園で待ち合わせをしていたようにも思えた。
僕は居合わせた女性の姿が少女と涙でにじむように重なり合い、一瞬だけ描くのをやめようかと思った。しかし、そのまま少女を描き続けると、心が揺れ動き始めるのを感じて、今の孤独な僕の姿を象徴するかのように頬から一滴の雫がキャンバスに流れ落ちた。
春は優しく訪れを告げ、公園の木々や花は、喜ぶようなしぐさを僕に見せてくれた。今までの冷たく心に突き刺さっていた風も和らいだ。柔らかい日差しが僕のキャンバスを温かい色で染め上げてくれたものの、大きな樹木に少女は現れる事はなかった。
少女によく似た若い女性は相変わらず、父親のような男性とベンチで待ち合わせをしており、公園を後にした。僕は気になったが二人の姿を追うことはなかった。
大学も進級し、新たな講義を受ける事に、しかし、僕は自らの目を疑った。そこにはベンチに座っていた若い女性がいたのだ。そして、講義を教えていたのがその時の父親らしき人物だ。どのような関係なのかは不明であった。
僕は嫉妬心とも思えるような感情に襲われたのである。公園では面識があったため、女性と仲良くなるのに時を要しなかったものの、二人の関係についてはあえて尋ねようとはしなかった。それは恐れというものを感じていたからかもしれない。
互いに大介、美香と呼び合い、友人すらいない僕であったが、時おり昼食を共にすることがあり、親しさは増していった。しかし、それ以上の関係はなかったのだ。僕は奥手な性格もあったが、それ以上に父親のような男性の存在が気になって仕方がなかったのである。彼女も父親のような男性のことについては語ることはなかった。
相変わらず、僕は公園で樹木にたたずむ少女を描いていた。それは次第に初めて出会った時の姿に近づいて、今でもキャンバスから飛び出して来るのではと思うほどであった。しかし、何故か遠い懐かしい気持ちに襲われる事が不思議でならなかったのだ。一方で美香は、もうベンチに座って父親のような男性を待つことはなかった。僕にとってそれが気がかりではあったのだ。
僕にはわからなかった。僕が心を寄せているのは美香なのか、公園での少女なのかが、しかし、それはどちらも存在するようにも思えたのだ。友人がいなかった僕からしては、女性を追い求めているというより、何か心の中で不足しているものを、補うだけのものに過ぎないような気もしてならなかった。何が本当の気持ちなのかわからず、苦悩の日々が続いたのだった。
夕雪の彼方へ 虹のゆきに咲く @kakukamisamaniinori
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