03

 それは、夏休みに入ってすぐのことで。兄と都合をつけて、部屋に遊びに行ったら、いきなりこう言われたのだ。


「ユズ、俺、彼女できてん」


 僕は危うく、買ってきたアイスの袋を落としそうになった。詳しい話は、ソファに座ってアイスを食べながら聞いた。


「バイトの先輩。大学も同じやねん。二つ上。まあ……可愛いよ」

「どっちから告白したん?」

「向こうから。今度こそ、好きになれるかもしれへんって思ってさ。仕事もようできるし、明るいし」

「そっかぁ」


 既にデートにも行ったらしく、水族館の熱帯魚の水槽の前で、二人で撮った写真も見せてもらった。長い黒髪をすとんとおろした、目がパッチリした女の人だった。


「名前、何ていうの?」

「美咲ちゃん。ずっと敬語やったから、崩すん苦労したわ」


 蝉がうるさく鳴いていた。僕は兄の顔が見れなかった。だって、写真の中の二人はとてもお似合いで。並んで立つには互いにふさわしいと思ったのだ。僕は精一杯の強がりを言った。


「紹介してや。将来義理の姉さんになるかもしれへんし」

「もう、まだまだそんな話にならへんって。俺のこともきちんと話してへんし、美咲ちゃんのこともよう知らへん。これからや」


 アイスを食べきり、僕はじっと兄の長いまつ毛を見つめた。


「どしたん、ユズ」

「ん……これから、あんまり遊びにこれんくなるなぁって思って」

「別にそんなことないで。都合つく日は来たらええ」

「美咲ちゃんに悪いって。折角付き合ったんやし大事にしたり」


 泊まるつもりだったが、やめた。夕飯にそうめんを作ってもらい、それを食べて帰ることにした。


「ユズ、もっとおってもええのに……」

「僕の相手してる暇あるんやったら、美咲ちゃんに電話でもしたらええやん。そしたら、また」


 帰りの電車では乗り換え先を間違えた。それだけでなく、降りる駅を乗り過ごした。心配していた母が玄関先で待っていて、わけを説明した。

 シャワーを浴びながら、僕はダラダラと涙を流した。多少の嗚咽も水の音で聞こえないだろう。だから、思いっきりやった。

 兄はもう、手の届かない存在になったのだ。弟の僕なんて邪魔なだけ。兄弟は、いつか必ず離れ離れになるものなのだ。身体も、心も。

 それからは、どこにも行かず、勉強と読書をして過ごした。没頭できるものがあれば、兄のことを考えなくて済むからよかった。

 けれど、夜になるとダメだった。僕は下の段に行って、兄の枕に顔をうずめた。毎晩そうしていたから、兄の匂いなどなくなってしまった。

 お盆の頃に兄が実家に帰ってきたので、両親の前で言ってやった。


「美咲ちゃんとはどうなん?」


 兄は慌てていた。ニヤニヤする両親に必死に弁解していた。どうやらプールにも行ったらしく、夏を満喫していたようだった。

 その日の夜、二段ベッドの上下で、僕は文句を言われた。


「もう……ユズ。父さんと母さんにはまだ話さんとこうって思ってたのに」

「ええやん、別に。二人とも喜んどったやん」

「その……別れたら気まずいやん?」

「ほんまは上手くいってへんの?」


 兄は咳払いをした。


「そういうことやない。ただな、好きっていうのがわからへんねや。俺のこと好きでいてくれるんは嬉しいねんけど……」

「特別なんやろ?」

「そうなるんかなぁ」


 僕はハシゴをおりた。兄もわかっていたのか、ポンポンと空いたところを叩いた。


「おいで」


 兄も散々悩んでいるのだろう。眉を下げて薄く笑っていた。


「美咲ちゃん、ほんまにええ子やねん。食べ物の好き嫌いなくて、俺の作ったもんも美味しそうに食べてくれる」

「よかったやん」

「キスはしたで。けど、こんなもんかぁって感じでな。ドキドキせぇへんかった」

「そうなんや……」


 僕はつい、二人の様子を想像してしまった。


「美咲ちゃん、俺が初めての彼氏やないみたいやし、その先もあるんかなぁって思うんやけど……こわいんや」

「何が?」

「何かが。うん……ユズと話してたらハッキリするかなぁって思ったけど、やっぱりわからへんわ」


 僕は兄の唇に指で触れた。


「ドキドキする?」

「アホか。せぇへんわ」


 兄は僕の指を掴んで離させた。


「俺さ。ユズと美咲ちゃんが同時に崖から落ちそうになってたら、ユズ助けると思う」

「なんでやねん。そこは美咲ちゃんやろ」

「だって、ユズとは十五年間一緒におったんやで? 過ごした時間が違う」

「……これから過ごす時間は、いずれ美咲ちゃんの方が長くなるんとちゃう?」

「まあ……そうなんかもしれへんけど」


 このまま話していても煮え切らないままだろう。僕は身を起こした。


「ほな、ハルくんおやすみ」

「うん……おやすみ」


 兄はなかなか眠れなかったのだと思う。衣ずれの音が何度もしていた。僕はそれを聞きながら先に意識を手放した。

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