結婚のすゝめ

 さてその夜、永久子は夜着へ袖を通す前に、もうすっかり消えてしまった体中の痣を名残惜しむように体を撫でた。自分がどんな思いでこんなことをするのか、まだはっきりと解らないでいる。


 果たして自分は有士を愛しているのか。


 彼との結婚について過去に一度は覚悟を決めたものの、今になって再び、今度は昔よりも確固たる決意を強いられていると感じる。有士の劣情に濡れた瞳が忘れられない。もしもあの目を、他の誰かにも向けているとしたら自分は――。


 目を背けた筈の現実を見るのが恐ろしい。


 それでも意を決した永久子は翌日、サヨと共に町へ出たのだった。


「旦那様は、兵営の方でお昼を取られますかね?」

「それならそれでいいわ……誰とも会っていないってことだもの」


 また翌日に確かめるわ。と呟く彼女にサヨが目を剥く。この若妻も、あの旦那にあてられておかしくなったんじゃないか。兵営から離れた日蔭の中で、渡来品のオペラグラスを覗き込む永久子の横顔は怒気も何も感じさせない無表情であるが、それがかえって不気味である。


 兵営の酒保売店の窓を覗き、入口を覗き、幾つかの執務室を覗く。提案したのは確かに自分だが、言葉少なな彼女が何を考えているのか、サヨは全く解らなかった。


「アッ、奥様……ッ旦那様が出てきましたよ!」


 再び酒保を覗いていた永久子の肩を叩く。帯刀した有士が久下をともなって兵営から出てくる。最近は久しく見ない、険しすぎるほどに厳格な面持ちである。


「町へ行くわね……行きましょう」


 二人の背を追って、永久子とサヨもこそこそとその場を後にする。


 彼らが入ったのは町内でも美味で有名な純喫茶じゅんきっさであった。小さな店構えで、殊更有士の席からは入口がよく見えるために、二人は再び窓外から彼らを観察する。


 その場に着飾った女性の一人でも合流すれば、いっそ溜飲が下がったかもしれない。自分に向けられたあの愛情は一時いっときの物で、有士とは結局のところ政略結婚でしかなかったのだと諦められたら、随分と気が楽になっただろう。


 だが彼は久下と向き合って黙々とカツカレーを食すと、ナプキンで口を拭き取り、さっさと勘定を済ませて兵営への帰り道を歩き始めてしまう。


「……私、なんだか馬鹿みたいね」

「ど、どうしてがっかりするんです? 旦那様はやはり、四六時中お仕事と奥様の事ばかりですね、良かったじゃありませんか?」

「ううん……彼から愛されてるなんて思わなければ、余計な期待をしなくて済むもの。不貞をなじることもできないなんて、彼の何一つも責められないなんて……」


 永久子は、苦々しい思いでいっぱいであった。


 古室こむろに来て初めの頃はあんなに冷ややかな態度であったのに――今でも高圧的なところはあるものの、昔に比べれば随分と柔らかで饒舌になった。何が彼をそうさせたのかが分からない。愛人疑惑は中々晴れなかった。どうにかして尻尾を掴みたい。その一心で、永久子は悔しげに下唇を噛んだ。


「サヨ、どうかお願い。もしもあの人に女性の影を見つけたら、隠さずに教えてね」

「はあ、はい。まあ、ないと思いますけど……」


 彼が兵営へ戻るのをしかと見届けた二人は、最近できたと話題の氷水かきごおり屋に寄った後で帰宅した。放っぽっていた家事を慌てて済ませ、やがて有士が帰ってくる。


「ただ今帰った」

「お、お帰りなさいませ」


 慌てて玄関に向かい、膝をついて彼を迎えた永久子は、日中の罪悪感からか視線を合わせられず、それとなく横へ流した。


 有士は鞄はそのまま書斎も兼ねている寝室へ持って行ってしまうし、軍服の手入れも自分でするために彼女が受け取るものは何もない。永久子はただ出迎えるだけである。


 一向に視線の合わない彼女の唇が赤く色づいているのを見て、彼は静かに口を開いた。


「今日はどこへ行っていた?」

「あ、あの……サヨと、最近できた氷水屋へ」

「随分とめかし込んでいるが」

「わ、私だって、外に出る時は化粧の一つくらいします……」


 彼女の態度に後ろめたいもののあることはすぐに分かった。有士は溜息を吐いて廊下へ上がる。「詳しくはあとで聞く」と言って自室へ向かう。今日ばかりはその態度が、永久子の怒りを静かに煽り立てるのであった。


 夫婦が食卓に着くと、いつもとは違うひりついた空気が漂った。


 黙々と箸を進める永久子と、それを知りつつも決して気圧されない有士が無言で味噌汁を啜る。先に口を開いたのは、有士の方であった。


「何か不満か」

「……あなた様は、身勝手が過ぎます」


 身に覚えのない嫌疑けんぎであるが、有士はいつ誤解を生んだのかと、暫し黙って己の記憶を探った。


「他に女性がいらっしゃるんでしょう。それなのに、私だけあんな仕打ちを受けて……あまりにも、り、理不尽ではありませんか」


 懸命な訴えの最後にいたっては、勇気も怒りもすっかりしぼみ声が震えていた。目に大粒の涙を溜めた彼女にギョッとする。有士は箸を置くと永久子にいざり寄った。だが伸ばした手を振り払われてしまうと、成す術もなく呆然と彼女を見つめるしかできないでいた。


「ほ、他の女性とは、一体何のことだ。何と勘違いしているんだ」

「嘘はおっしゃらないで。他に想い人がいるんでしょう、だから夫婦の寝室も分けて、いつも部屋に籠って……」

「そ、それは、だな」


 惑う有士の態度に、彼女の疑念は益々深まった。

「お部屋を検めさせて下さいまし」と言った彼女の瞳の奥には決別さえチラついている。


 湯を沸かし終えたサヨが廊下へ出た時、永久子を伴って自室へ向かう有士の背を見た彼女は悲鳴を上げそうになった。こっそりと二人の後を追う。有士が鍵を挿した音が、張り詰めた空気の中に静かに響いた。


「そ、その……あまり色々な物を見たりは、」

「それは私が決めます。あなた様は隠し事が多すぎるのですから、たまには拝見しても良いでしょう」


 彼の言葉をぴしゃりと跳ね除けた永久子には取り付く島もない。彼女は扉を開け渋る有士の手の上からドアノブを握ると、ぐいとそれを捻って、強引に扉を引いた。


 そこには、特別変わったものは無いように思えた。只、幾つか壁に掛けられた、小さな永久子の肖像を除いて。


「こ、これは……」

「見合いの時の、寫眞しゃしんだ。八幡邸やわたていであなたを一目見て、可憐な娘だと思った」


 永久子は暫し、言葉を失った。額縁の中にいるモノクロの自分は、少し顔を伏せている。この時、寫眞を撮るのが嫌で年甲斐にもなく愚図ったのを今でも覚えている。


 彼女はそれから、横にかかったもう一つの絵を見た。これは今の自分である。はていつこんなものを描かせたのか、少なくとも自分には覚えがない。


「そ、それは……すまなかった」


 何においての謝罪かは、追求しないことにした。永久子はぼんやりと室内を見回して、きっちりとシーツの揃えられた寝台を見る。壁に沿うように置かれた艶のある西洋机には、確かにサヨの言う通り書類が重なっていた。そこに随分と使い込まれた手帳が置かれている。本棚には小難しげな本が仕舞われている。学生時代の物もあるのか、随分と読み込まれている本も幾つか見受けられた。


「こんな部屋で、今まで過ごしていたのですね」


 机と椅子、本棚と寝台しかない質素な部屋であった。永久子が寝台の上に腰を下ろす。スプリングが軋んで体が跳ねる。ふかふかである。真っ白い清潔なシーツは、確かに自分がいつも洗濯しているものである。


「あの寫眞、どうして飾ってらっしゃるの」

「それは無論、あなたのことを愛しているからだ」

「じゃあ、何故夫婦の寝室は別にするとおっしゃったの」

「それは……俺たちがまだ、正式な夫婦ではないからだ。婚儀も執り行わないうちに夜を共にすることはいけないだろう」


 永久子にとってそれは些細な問題に思えたが、重たい口を開いて胸中を吐露とろした有士は、至極深刻な表情であった。


 彼は言った。自分は軍人だと。そして戦場に出れば、部下を指揮し敵に向かっていかなければならないと。この命がいつ尽きるかも分からない、五体満足で済むかも分からない。必要とあらば国のために命を散らすのが自分の役目なのだから、女子に現を抜かしている場合ではないのだと。


「……あなたに会うまでは、そう思っていた」


 有士はいまだ着込んでいる将校服の裾を握り、懸命に告げた。


「だがあなたに会って、守らねばならぬ人だと思った。それはあなたの心を……人生そのものをだ。私が死んだら、あなたはいづれ別の男と結婚する。婚約中に俺が死ねば猶のこと、次の見合いは早いだろう。ただの婚約相手にその身を穢されたとなれば、ふしだらな女と思われかねない」


 有士はぼうっと、絵の中の永久子と寝台に腰掛ける永久子を見比べた。


「見目麗しい肖像画も、やはり現実のあなたには敵わないな……」


 彼は、己の手が不用意に永久子へ伸びぬよう必死に己を律した。その様子を見て永久子の胸が強く痛む。軍人というだけで、なぜそこまで厳しく己を律するのか。なぜそこまで、頑なに心を閉ざすのか。


「任務で長く家を空けることもあるだろう。あなたの知らぬうちに知らぬところで野垂れ死ぬかもしれない。そんな男と一緒になる覚悟が、あなたには本当にあるのか」


 永久子はぼんやりと、悲痛の表情を浮かべる有士を眺めた。初めて彼が、自分と変わらぬただの人間に見えた。この人もただ己の境遇に苦悩する、相手の計り知れぬ心に苦悩する、一人の男に違いなかった。


「覚悟がないなら夫婦などと気負わず、ただここに居ればいい。それだけでいい。あなたは何もしなくていい……ただ笑顔で私の側に居てくれるだけでいい」


 滾々こんこんと告げる有士の手を取る。少し汗ばんでいた。永久子はそれを頬に当てると、心底から慈しみが湧いてくるのを感じながらゆっくりと微笑んだ。


「覚悟など、とうに出来ておりました」


 有士の心が動揺に震えた。聖母の如く微笑む妻の姿が薄い涙の膜に包まれる。


 なんだ。気負っていたのは自分ばかりで、この賢明な妻はすべて解った上でここに来ていたのか。


 今まで思い詰めて、きつく締めていた自制のたがが外れた瞬間であった。有士が破顔して恐るゝゝ永久子の背に腕を回す。彼女の手がひしと己の背に縋ったのを感じて、体の底からじんわりと愛が滲むのが分かった。


***


「はぁ、しかし本当、良くできておりますわね」


 自分の肖像画の前に立ち、頬に手を添えて感心する永久子に、有士は罰の悪い思いでいっぱいであった。


「そ、そろそろ出ないか」


 婚約云々が気になるのならばいっそもう婚儀を挙げてしまおう、と男らしい決断を下したのは永久子の方である。


 明日から、永久子の寝室は夫婦の寝室に代わる。有士の寝室は書斎として使われる訳であるが、その上で寝室に持ち込みたいものがあれば遠慮なく持ってきて構わないと彼女は言った。


 そうして今一度部屋中を見回してみると、やはりどうしても己の肖像画に目がいってしまうのである。


 有士の視線が時折そわそわと本棚に向かうのも気になった。まだ居座る気でいる永久子は、本棚に顔を寄せて小難しい背表紙を順に眺める。


「だッ、駄目だ!」


 一つ、何気なく本を引っ張り出そうとした彼女の肩を強く引いたのは無論有士である。


 振り返ると、彼の頬はほの赤く染まっていた。瞳が情けなく右往左往している。永久子があまりに珍しい彼の反応に驚いているうちに、有士は彼女の両肩に手を置いて、強制的に室外へ追い出した。


「もういいだろうッ……もう十分疑いは晴れた筈だ、俺の気持ちに嘘はない」

「そ、それは、ええ……分かりましたけれども」


 それなら、あとは何を隠すことがあるのか。そう言いたげな永久子は、廊下の影からこちらを覗くサヨとぱちりと目が合った。


「ね? 不義理なんかしてないって、言ったじゃないですか。だって旦那様は奥様にとり憑かれているんですもの。お会いした時……結婚を決めた時から」


 不穏な言い回しではあるが、有士は、そうに違いないと口を噤むのであった。

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結婚のすゝめ 郡楽 @ariyama

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