薫衣草

 一先ずの仲直りは果たしたものの、永久子の胸中にはいくつもの疑問が残っていた。


 ――存在も分からぬ、彼の第二の思い人。やるべきこととは何なのか。そして、自分を愛しているとは本当なのか……。


 一度でもややこしく絡まってしまった疑いの糸は中々解けぬものである。耳年増みみとしまな彼女は知っていた。世の中には、複数名に同時に愛を囁ける男性もいることを。


 薫衣草ラベンダー畑では、有士は部下に時間を言われるまで決して永久子の側を離れなかった。


 永久子は渋々勤めに戻る彼を見送った後、帰りがてらに幾つか花を摘んで帰った。後日花瓶に活けた薫衣草を眺めてにこにことしている様をことある毎に見かけるので、サヨは有士へ、この花が枯れたら新しい花でも買って贈ってみてはどうかと提案した。


 有士の態度が一転したことは誰の目にも明らかであったが、かえって、永久子の方は何ら変わりないままであった。


 彼が助言通りに、大層な決心を以てして花を贈ってみても、

「わぁ! 素敵なお花ですね、ありがとうございます」と彼女は嬉々として両手を合わせただけで、花を誉めさえすれど勇気を振り絞った有士を誉めることはない。


 とはいえについて怒っている様子もない。かと言ってあの朝に零した突発的な告白を真に受けた様子もない……。確かに大人げなく一方的に突っ走ったのは自分だが、この仕打ちはあまりにも非道いのではないか、と彼は考えなくもない。


「クソ……ッ何が駄目だというのだ……!」


 兵営へいえいにて机に向かっている時分、突然ペンを放り投げて迫真の表情で頭を抱えた有士に、事情を知らぬ数名の部下たちはびくりと肩を震わせた。


 その中で唯一平静を保っている男、あの日に同席した部下が「落ち着いてください」と彼をいさめる。


「一体どうしたのです」

「永久子……妻へ思いを伝えたのだが、態度が一向に変わらんのだ……花を送った時も『わぁ』で済まされた……ッ」

「……戸惑っているのではないですか? ここに来たばかりの貴舩きふね少尉殿は、正直言って堅物そのものでしたから。奥様にも同じように接していたのではないですか」


 彼にこれほどはっきりと物を言えるのは、教育係であるこの久下くげ軍曹だけである。彼の言葉に、有士のしかめっ面がやや緩む。


 彼はふと思い返した。確かに婚約当初はろくな会話も交わさなかったものである。有士が己の秘めたる激情に気づいたのでさえ、一週間の自宅謹慎を言い渡したあの夜のことだった。


 果たしてそれ以前はどうだったか……彼女を守るという自負こそあれど、正式に結婚するまでは色事は慎むべきだと思い彼女を遠ざけていた。晩酌を共にした日、酔いに任せて、嫉妬の濁流に飲まれて今までの我慢を無に帰したことは、彼の一生の後悔である。


 彼女の目に映る自分がいかに情緒不安定な男であるかを直視するのが恐ろしい。が、とにもかくにも彼女の体をあらためたあの淫猥いんわいな夜からまだ一ヶ月も経っていないのである。確かに、永久子が混乱するのも致し方ないように思えた。


「なるほどな……」

「極端なのですよ、少尉殿は」


 そう言って投げ出されたペンを拾い、執務机へ置いた久下はあくまで冷静だった。


 今年で三十五になろうという男である。この男も中々身持ちが固いではあるがそれなりの恋はした。若い有士の苦悩などは、手に取るように分かった。


「奥様には素直にお気持ちを伝えたのですか?」

「無論だ……外に出すのも惜しいと。今でも外出は女中が付き添うと決まっている」

「それは……どうなんですかね」


 それはまた極端に素直すぎる気もするが、しかしいまだ目をかっぴらいて頭を抱えているこの上司は至極真面目な様子である。馬鹿なんじゃないのか……とは、久下の心中の呟きである。ただ一言好きだと言えば済むものを、何をそう悩むのか。


「仕事に差し支えるようではいけませんから、早急に解決してくださいよ。今みたいに突然乱心しては部下たちに示しがつきません」

「そ、そうだな……」


 苦々しくペンを握り直した有士は「誤字だ」と言って書類を一枚久下へ渡した。そうして、兵営の午後は緩やかに過ぎていくのだった。


***


 永久子は全身鏡に映る自分の姿を見るたびに、あの夜を思い出して妙な気分になった。一身にぶつけられた彼の思いは不可解この上ない。


 単なる独占欲の気もするが、寝坊した朝の甘い口付けを思い出すと、彼に愛されていると思えなくもない。


 何より、あの真一文字に結ばれた口から「好きだ」と呟かれたのだ。だがわざわざ夫婦の寝室を別にしたくらいだから、最初から素直に好きだったという訳でもないだろう。


 永久子は、突然変わってしまった有士に酷く振り回されていた。


 それに、一たび愛されていると分かると、古室こむろに来た当初の冷たい態度に腹さえ立ってくる。大体、彼にだって不貞の疑惑はあるというのに自分ばかり責められるとは何事か。その理不尽さにも、沸々と怒りが湧いた。


「サヨ、サヨ。ねえ、一寸ちょっと聞いて欲しいの」


 彼女がそうサヨを手招いたのは、ちょうど有士が兵営にてペンを投げ打ったのと同じ日の午後のことである。


「えぇ? 旦那様に愛人?」

「そう。初めて会った時に、あなたにも言ったでしょう? ここ最近はあの人、随分とい顔ばかりするけれど、私、まだ疑っているの」

「ないと思いますけどねぇ……」


 有士の永久子への執心振りについては、サヨはおおよそ理解している心算つもりである。何しろ永久子を側で守ること、彼女の行動を逐一報告することを条件に高給を貰っているのだ。


 有士がわざわざ地元道場の娘であるサヨの元を訪れたのは、彼女の柔道の腕前を買っての事である。何か有事があった時、永久子を守れぬのでは困るから、と。


「最近の旦那様は、見違えたようにお優しいと思いますけど……」

「それだから怪しいんじゃない……それに理不尽だわ。自分ばかり余所に女性を作って、私の事になったらあそこまで怒るなんて。別に浮気をしたいわけじゃないのよ。ただ、あの人のことが分からないの。分からないままなのが嫌なの」


 この致命的な勘違いは一旦置いて、永久子が有士に興味を持ち始めているということは、二人にとって良い進展に違いなかった。サヨはそういうことならと着物の袖を捲る。「尾行しましょう」。そう言った彼女は、自信に満ちた表情をしていた。


「び、尾行……?」

「明日、お昼に旦那様の様子を見に行きましょう。お仕事の合間にその愛人とやらに会っているかもしれません。だって、会うとしたらその時しかないでしょう? 休日はずっと家にられますし」

「そ、そうね……でも先ず、私、彼の寝室を見たいのだけど」


 自分が悪趣味なことを言っている自覚はある。だが彼の寝室にはいつも鍵がかかっていて、それを持っているのは有士本人と、掃除に入るサヨだけなのだ。


 だがその提案に、サヨは思わず顔を引き攣らせた。決して、そこに不貞の証拠があるからではない。


 余計な物の一切ない彼の寝室には大きな本棚があって、そこには勉学の本に交じって、永久子によく似た女性の春本しゅんぽんが収まっている。町の画家に描かせた彼女の自画像が壁にかかっている。そしてなにより赤裸々な思いを綴った有士の日記が、西洋机の上に無造作に投げ置かれているのだ。


「そ、それは……旦那様の許可を得ないと、私には……」

「どうしても、駄目?」


 可愛らしく小首を傾げた若妻に危うく了承しかけたが、雇い主の体裁を保つためにも、彼女は苦心の末に首を横に振る。


「私が見る限り、女性からの文は一度たりとも目にしたことはありません。仕事の書類ばかりが積みあがっていて……それに少しでも触るときつく叱られるのです」


 それを聞いて、永久子は仕方なく諦めた。自分が良からぬことをして叱られるのはサヨなのだ、無理は通せなかった。

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