しかしその夜、永久子はどうしても寝付けなかった。何度か寝返りを打ってみても目が冴えてしまうのは一向変わらず、終いに寝るのを諦めた彼女は、文机の側の引き出しから本を取り出して、行燈を布団の側に引き寄せた。


 だが、それがいけなかった。空がすっかり明るくなった頃、物音一つない家の中を寝ぼけ眼に歩き回った有士は、永久子の部屋を開けて、中の様子に仰天した。


 永久子がうつ伏せに横たわる布団は、掛布団が体の上から少し外れている。細い腕が開きかけの袖珍本しゅうちんぼんの上に投げ出されている。開けた夜着の間から見える体は、昨晩散らした肌吸いの痕を生々しく晒していて、そのあまりに無防備な姿に、無意識に室内へ入り込んでいた。


 普段の彼女は、あまりこうしたしだらない姿を見せることがない。


 口数の少ない方であるからか、生活の方も細やかで大人しく見えた。だがこのあどけない寝姿を見ると、まだ年頃の、幼く若い娘と変わりない。


 彼はいつかの日とは違い、今度は気を遣って足音を立てぬようにそっと近づいた。


 側にしゃがんで、緩やかに伸びている足を手に取る。持ち上げると、夜着の裾が広がってぱたりと落ちた。


 足末あなすえに口付ける。そこから徐々に上がっていくと、上の方で息を呑む音がした。


「あ……あなた様……、何を、してるの……」

「外を見ろ、寝坊だぞ」


 彼の言葉に、少し開いた障子向こうの空を見た永久子は顔を青褪めさせた。


 ごめんなさい、と立ち上がろうと足を引いたが、しかしそれを許さない有士は再び足を引き寄せて、仕置きが必要だな、とそこを食む。


「アッ、だめ、痕はどうか……そんなところ、見えてしまったらサヨがなんて思うか……」

「見せつけてしまえ。町を歩く男どもにも……あなたが俺の女なのだと分からせてやればいいだろう」

「やッ、ね、寝ぼけてらっしゃるの。昨日からこんなことばかりして……」


 熱い舌が、冷えた永久子の皮膚を、つつつと撫でて付け根まで上った。その擽ったさに身悶えて体を捩った彼女は、唇を噛んで必死に耐えていた。彼の湿った視線を感じる度に体の奥底がどうしても疼く。


非道ひどい……こんな……」

「非道いだと? 俺がか?」

「こんな、弄んで……」

「非道いのはどちらだ」


 彼女の深い吐息に有士の理性が崩れかける。しかし彼はここで手を出す気は更々なかった。どころか、もっと焦れてしまえとさえ思っていた。自分勝手なことは、重々承知している。


 だが自分が嫉妬で狂ったように、彼女も屈辱と欲情に狂い、余裕なく縋りついてくれればいいと思った。あなたしかいないのだと泣いて懇願してくれ。そんな歪んだ情熱が、有士の理性をかろうじて繋ぎ止めた。


「はぁ、私も窮屈だ」


 そう言って、下半身を寛がせようとした彼の手を、永久子は慌てて止めた。見ないように背けた横顔は羞恥に染まり、初心そのものである。


 有士は誘われるようにその首筋に舌を這わせる。あられもない声が響き、上目に彼女の様子を見やる。


「そんなに好いのか、この淫乱め」


 思ってもみなかった罵倒に、彼女は目を見開いた。顔を歪めて唇を噛む。それからは耳朶を噛まれても胸に触れられても、彼女は身を震わせて吐息を漏らすばかりで、声を上げようとはしなかった。


「はッ、クッ……こっちを、私を見てみろ」

「! あ、で、でも、」


 頬を掴まれ、強制的に向けられた方には、余裕なく頬を上気させた有士がいた。片手が下の方で忙しなく動いている。永久子は視線を下に逸らさぬよう必死に目を瞑った。すると今度は耳が敏感になって、の吐息が、ぐちゅぐちゅと擦る音が耳を犯す。


「ッあ、あなた様、もうやめて、」

「言っただろう、ッは……これは、仕置きだ。……しっかり見て、男を、私を覚えろ。はッ、目を逸らすな……」


 肌を擦る音が徐々に激しくなっていく。汗ばんだ顔を赤くさせて、目を閉じている幼な妻の顔を有士はじっと見つめていた。この顔だけで気をやってしまいそうだ。羞恥に堪え、聴覚を犯す音に聞こえない振りをしながらも耳を澄ませている。そして時折、指先で耳朶を撫でると素直に体を震わせる。


「はぁッ、永久子……、」


 勢いよく飛び出した白濁が、押さえた有士の指の隙間から永久子の太腿に垂れ落ちた。つい、視線を下に向けてしまった。膝立ちになり、僅かに及び腰の有士が、まだ緩く屹立している愚息を握って息を乱している。手の隙間から垂れ落ちる大量の精液が、いつもの峻険しゅんけんな彼と対比して恐ろしく煽情的であった。


「好きだ、永久子……」


 思わず視界に飛び込んだ彼の姿にも驚いたが、紡がれた言葉がさらなる驚愕を呼んだ。永久子が、視線を彼の下腹部から、熱く滾る双眸へと上げる。驚いたことに、彼はうっかりしたとでもいうように、目を見開いて口へ指先をやっていた。


「……なんでもない」

「む、無理ですよ。聞いてしまいましたもの……」


 彼は五月蠅い! と怒鳴って、チリ紙でさっと飛び散った精液を拭きとって、逃げるように部屋を出て行ってしまった。その間際、サヨが来るまでは休んでおけなどと気遣われたことに、またも永久子は驚き閉口した。


***


 爽やかな風が永久子の髪をそよそよと揺らして過ぎていく。まあ、なんて気持ちが良いのかしら。彼女は何度もそう言いながら、薫衣草ラベンダーの香りを嗅いだり眩しい太陽を見上げたりして、一週間ぶりの外出を心のままに楽しんでいた。


「本当に良かったですわ、奥様が喜んでくださって……」


 ほんの少し赤く色づいた彼女の白い頬が太陽に照らされて透き通る様を、サヨは胸を押さえながら微笑む。素晴らしいことだ、この人の純粋な性分に充てられて、不思議と自分も心が洗われていくような気さえする。そうしてサヨが彼女の半歩後ろに着いて花畑を歩いていると、向こうから、見覚えのある男性が歩いて来るのが見えた。


「まあッ、奥様!」

「なぁに?」


 永久子が悠然と振り返る。しかしサヨの瞳は、彼女を通り過ぎた後ろを眺めている。


 不思議に思って、彼女も再び前方へ向き直る。そして、息を呑んだ。揺れる紫に囲まれたあぜ道に、軍刀を差した有士が立って待ち構えていたのだ。


 彼には昨晩から意表を突かれてばかりいる。永久子は薄く口を開いたまま、只ぼうっと彼を眺めていた。それに痺れを切らした有士の方が、いつか見た部下を付き従えて近寄ってくる。


「なにをぼうっとしている。私が見えないのか」


 そんな訳あるまい。彼に付き従う部下は内心呆れたが、「少尉殿、お手柔らかに」と声を掛けるに留めた。


「む……。永久子、その、この間はすまなかった。私の早とちりだった」


 永久子は矢継ぎ早の謝罪よりも、今朝から頻繁に名前を呼ばれ続けていることにすっかり気を取られていた。あなただのなんだのとばかり呼ばれていたから、てっきり名前さえも忘れ去られているものと思っていた。


「お、おい。何か言わないか」


 彼が焦れて一歩踏み出した足音に、永久子も意識を取り戻す。


「アッ、えと、お名前、」

「……名前?」

「ええ、その……普段からあなた様に呼ばれるのは慣れていないものですから……えと、驚いてしまって」


 口元を手で覆って、密かに今朝のことを思い出して羞恥に耐えている彼女の心情はいざ知らず、有士はそうだったかと首を傾げ、部下の男は、溜息を飲み込んで俯いた。


 なぜ名前の一つも呼ばんのだ、この男は。そう呆れると同時に、しかし軟禁までされたというのに腹を立てた様子のない永久子に、案外肝の据わった女性なのではとも思う。


 この部下が有士に引き摺られてこの公園へやってきたのは、本当についさっきの事であった。


 いつになく突拍子がなく、それも男二人でこんなところへ何用かと尋ねたところ、このうら若き妻を誤解で傷つけてしまい、詫びがしたいが一人ではどうにもできない、などと珍しい相談を受けたのである。


 このお堅い男の妻とは一体どのような人かと興味が湧いて来てみれば、拍子抜けするほどのん気な女性である。


 しかし二人が並ぶと、剣呑な面持ちの有士と如何にも健気そうな永久子とが不思議とお似合いに見える。


「……貴舩少尉殿。折角ですから、昼休憩が終わるまで散歩を楽しんでみては?」


 あまり長くはいられないが、とは思いつつも、彼は黙って見つめ合う二人へそう促した。


 有士は小さくたじろぎながたも頷いて、来た道を引き返して行く。少し遅れて永久子が歩き出すと、彼が振り返った。


「何してる、隣に来ないか」

「はッはい……!」


 背筋を伸ばして、思わず軍人めいた勢いで返事をした彼女に、サヨと部下がふと頬を緩めた。かえってあのくらい素直な方が有士には良いのだろうと思わせる女性だった。


「……お花、綺麗ですね」

「……ああ」

「あの、お花はお好きですか?」

「普通だ。あまり注意して見たことはない」

「そうですか……ふふッ、そうですよね」

「なぜ笑う」

「いえ、ここで好きだなどと言われたら、気を遣われているようで、少し悲しくなっただろうなと思ったので」


 永久子は口を押さえながら頻りに笑った。古室に来てから、これほど穏やかに笑えたのは初めてであった。

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