花畑

 女中というと基本は奉公にあがった家に寝泊まりするものだが、貴舩家に限っては有士が嫌がるので、サヨは昼前にやしきへ来て、夜に湯の用意をして帰るという風な取り決めになっていた。


 外出を禁じられたのは厳しいが、話し相手ができたことや仕事が分担されたことは、永久子にとってありがたいことだった。加えて、一日中彼と二人きりでないというだけでも随分と気が楽であった。


 鼻歌を口ずさみながら洗濯物を洗っていく。気に入りの石鹸の香りが気分を和らげていく。有士の詰襟を力強く絞って、何度か振る。それを棒に掛けていると、買い物から戻って来たサヨが、飛び跳ねるように永久子へ駆け寄った。


「奥様、奥様! 町でね、旦那様が活躍しているのをお見かけしましたよ!」

「まあ、あの人が?」

「町の暴漢を説き伏せていたのですけれど、とても勇ましくて凛々しいお姿でした……!」

「あら、そうなの……私も見てみたかったわ」


 気のない返事である。


 だが今日で一週間の外出禁止令が解ける。永久子は今夜、思い切って有士へこのことを話してみようと思った。


 さて有士が帰宅すると、夫婦が揃って夕飯を食べている間にサヨが湯を沸かすのがいつもの流れである。


 食卓について暫くはいつもの通り会話は無かったが、永久子が決心して上目に彼を見ると、彼の方も永久子の落ち着きのないのを感じ取っていたのか、黙って彼女を見つめ返した。


「……サヨから、今日の昼あなた様が活躍したと聞きました」

「? 何のことだ」

「町中で、暴漢を説き伏せられたのだとか。とても勇ましいお姿だったと聞きました」


 その言葉に有士はつまらなそうに頷きながら、咀嚼していたものを静かに嚥下した。


「ただの食い逃げだ。世の中には下らんことをする輩が多い」

「そうですね。でもあなた様の雄姿、私もお目にかかりたかったです」


 永久子が様子を窺うように返すと、有士は不満げに眉を顰めて箸を置いた。


「回りくどい、言いたいことがあるのならはっきりと言えばいい」

「……外出の許可を、頂けませんか」


 今日で一週間経ったのには、無論有士も気づいている。


 その間に、永久子に掛けられた不貞の疑いも殆ど晴れた。


 彼は部下に八百屋の男を調べさせていて、確かに愛妻家として有名なその店主は不貞をするような輩ではないと納得した。ここ一週間、永久子に不審な動きもなく従順でいたことも、彼の溜飲を下げた一因であった。


「……好きにしていい」

「あ、ありがとうございます……!」

「ただし、町は危ないから一人ではなく必ずサヨを連れて歩け。物陰やひと気のないところへ行くのも駄目だ」

「わ、分かりました」


 それでも些か不満そうな彼の様子に、永久子も思い切って箸を置いた。 


「……私の不貞に関しては、ご心配には及びませんのに。あの夜に分かったでしょう。私はまだ、そのような経験はありません」


 そのあられもない言葉に有士の頬が染まる。だが実際、家庭に入るまで異性事などまるで縁のないものであったし、今は寝室が別であるのだからそれも当たり前の事である。だが有士は口を堅く結ぶばかりで、それ以上の追求をしなかった。


 さてあまり長湯な方でない彼は、その日も女たちが夕食の片付けをしているうちにさっさと風呂を上がった。


 永久子へ湯が空いたと伝える為に台所へ向かうと、戸の内側から、年なりにはしゃぐ妻の声が聞こえる。


「ねえサヨ、聞いて! あの人が外出を許して下さったのよ」

「まあ! では明日町に出て、奥様が見たいと言ってらしたお花を見に行きませんか?」

「そうね! とっても楽しみだわ」


 有士は正直、これほど嬉しそうな彼女の声を初めて聞いた。


 湯が冷める前に入れと言いに来たのだが、何となく声を掛けづらい。だが廊下に立ち尽くしているのも足が冷えて辛いので、その場でわざとらしく咳払いをして、中へ声をかけた。


「上がった」

「あッ……分かりました、すぐ入ります」


 永久子は慌てて話を切り上げると、湯が冷めないうちにと台所を出て行った。その背を見送った有士が、やがてサヨに向き直る。


「今日の報告を頼む」

「はい。と言っても、奥様は今日もお仕事を終えたあとは、縁側で本を読んでいたりお庭を眺めたりしておりましたよ。あ、そういえば、庭師を呼びたいと」

「庭師だと?」


 彼女の言葉に、有士の眉間がピクリと動いた。


「は、はい。お嬢様は庭いじりが得意ではないそうで、でもお庭に何もないと寂しいと。お花を見るのが好きなのだそうですよ」


 その言葉に先ほどの二人の会話を思い出す。彼は一通りの報告を聞き終わると、思案顔のままサヨを帰した。


 永久子が体から湯気を上げて風呂から上がり、夜着姿で廊下に出ると、戸のすぐ横に有士が立っていた。


 来い、と手首を引かれて、慌てて後ろを着いて行くと、いつかの夜のように彼女の寝室へ連れていかれる。家の中が静まり返っているので、サヨはもう帰ったのだと分かる。布団の上に座らされ、その前方に有士が膝をつく。


「……明日、どこへ行くのだ」

「え……と、サヨと、近所の公園へ。そこの奥の道を行くと、薫衣草ラベンダー畑があるらしいのです」

「そうか」


 説明を聞きながら、有士は彼女の細い腰を縛る帯を引っ張った。前が開き、へそから肌をなぞるように視線を上げると、白く柔らかい膨らみあって、その先端の赤い粒が夜着の衿を緩く持ち上げている。彼は深い呼吸を繰り返して詰まる息を整えながら、彼女の腰を掴んだ。


「な、なにを……」

「初めては、俺の為に取ってあるんだろう。だが俺には先にやるべきことがある。そのようなことに現を抜かしてはいれないからな……」

「で、ではなぜこんな……やるべきこと、って、」

「聞くな。……だが安心しろ、いつでもあなたを守ってやれる余力は残してある。心配するな」

「あ、そんな、」

「堪えなさい、これもあなたのためだ」


 彼が赤い舌を出して、永久子の腹を舐める。へその側に当たりをつけると、思いきり柔肌に歯を立てた。


「いッ……!!」


 体が弓なりに仰け反って、全身が突っ張った。叫ぶ彼女の口をいつかと同じように手で塞ぐ。痛い痛いと藻掻いて逃げ出そうとする体を無理に抑え込んで、彼は暫く消えないであろう跡をつけた。


「ひッ、あ、あぁ……」


 痛みで震える体は、有士が舌で歯型をなぞるたびにピクリと跳ねた。彼女の腰がいじらしげに揺れるのを見はしたものの、そこに触れてしまえば最後、収まりがつかなくなりそうで、有士は奥歯を噛んで耐えて、代わりに肌のあちこちに赤い華を散らせた。


 昔にどこかで聞いた肌吸いは、何度かすると上手く色づくようになった。着物は最早随分と前にその役割を放棄していたが、永久子は晒された体を恥じる余裕もないようだった。


 舌が肌をねぶり、鬱血させるたびに体がぴくぴくと跳ねる。


 有士は熱い息を吐くと共に興奮を逃がし、或る程度満足するとゆっくり着物を直してやった。


「余所の男に盗られる訳にはいかないからな」


 彼は永久子の四肢を撫でる。十五の時と違い、それがいかに蠱惑こわく的で男を惑わす鱗粉を纏っているか、有士はこの一週間で痛いほど理解した。自分がこれほどまでに狂わされるのだ。冷静になってみれば、あの夜はどうかしていたと思う。


 だがそうさせる何かがこの女にあるのも間違いなかった。それなら自分が、しっかり彼女の首に輪をかけて躾けてやらねばならない。


「花が好きなのか」

「え、ええ……」

「サヨとも随分と仲が良いな」

「ええ。……サヨが来て、家の中が少し明るくなった気がしませんか」


 それは永久子が良く笑うようになったからだ、とは素直に口にできなかった。有士は視線を下げて、ただ頷くに留める。


 妻と歳が近い女中を選んだのは正解だった。サヨが来て永久子が別段に明るくなり、それまで味気なかった家の空気は確かに変わった。


 有士はそれ以上の話題を見つけられず、もう寝ると言って部屋を後にした。


 永久子は、布団の上に座り込んで着物を開き、行燈に照らされた自身の体のあちこちに浮かぶ痣に拗ねたように唇を突き出す。


 太腿、足の付け根から腹にかけて、異常な執心の証にギョッとする。胸の膨らみにまで至るいくつかのものは、衿をしっかりと合わせれば見られずに済むであろうが、それにしてもおびただしい数である。鏡で遠目に見ると赤い鱗のようで、永久子は暫く、放心しながら自身の体を眺めた。


「……なんなのかしら」


 まだ行為はできないなどと言っておきながら、好きなだけ蹂躙していくなんて。彼女は唇を噛みながら、着物を閉じてきつく帯を締めて、布団に潜り込んだ。

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